文化元年(1804)5月12日、醒々(せいせい)老人こと山東京伝(44歳)は、考証随筆『近世奇跡考』(5巻5冊。同年12月、江戸、大和田安兵衛等刊)の稿本と手土産の酒とを携えて、下谷の金杉中村に亀田鵬斎(ぼうさい。53歳)を尋ねた。時に鵬斎は、客たちを集めて、酒を飲んでいた。京伝は、あまり酒が飲めない。席の端っこに控えて、懐中から徐ろに一小冊子を取り出し、遠くから恭し
く申し上げる。
「お願い致します。これは、身どもの原稿でございますが、どうか先生のお言葉を頂戴して、市価を上げたいものでございます」
鵬斎は、もうべろべろに酔っていたので、鷹揚に笑って、
「承知いたした」
と頷(うなづ)く。
以上は、『近世奇跡考』の鵬斎の漢文序の一節を訳したものだが、一読、京伝の低姿勢と鵬斎の尊大さ鷹揚さが観取できよう。それは、訪問者と主人、依頼者と受諾者という力関係に因るものであろうが、何よりも先ず戯作者と儒者という世間的な評価の相違に基づくものであった。勝海舟が馬琴を評して、
『八犬伝』は『水滸伝』をまる抜きにしたけれど、おれ(ママ。「が」脱)十七、八のときに、あれが初めて出版せられたころには、非常な評判で、いわゆる堂々たる大儒者も、これに及ばなかった。実に絶世の才子だった。
(『氷川清話』「わが文芸評論」 曲亭馬琴)
と言ったが、これは、戯作者と儒者の世間的な評価を前提にして、馬琴がその例外である事を述べたもので、京伝の低姿勢と鵬斎の尊大さ鷹揚さも、そうした世間的な評価に由来している。
しかし、鵬斎の非凡さは、そうした当時の一般的な評価に安住していない所にある。
その夜、眠れぬままに『近世奇跡考』の稿本を仰臥のままに読んだ鵬斎は、すぐさま該書の非凡さを見抜いた。すなわち、それは、前二百年間の偉事美談で世に埋没している物に焦点を当て、古人が遺した書画を証拠として、その実際のありようを追尋しえているからである。いわば、偉事美談の画証的研究となって、世人を覚醒せしむる業績に到達しているからだ。
かくて、全編を読み終えた鵬斎は、朝酒を飲むこと3杯、筆を取って、その漢文の序を例の独特な筆跡で書したのである。社会的な上位にある鵬斎が下位にある京伝を認めたのだ。
以下、この文章の論拠となった鵬斎序の二か所の読み下し文を付録として挙げます。
頃ろ老人、其の無根の伝奇に就きて、其の据あるの事跡を考え、遠く往時の実を捜り、近く俗説の妄を弁じ、すなはち裒録して五巻となし、名づけて古今奇跡考と曰うと云う。一日、酒を携えて、余が村居を訪う。余、時に客を会して酒を行う。老人は飲を解せず、席末にありて懐ろを探りて一小冊子を出だし、遥かに余に謂いて曰く、願はくは先生の一言を仮りて、以て値を増さんと焉。余はすでに沾酔(せんすい)す。乃ち笑いてこれに頷(うなづ)く。
その博稽細捜は、二百年間の偉事美談の湮没埋冤せるものをして、洗雪抉擿、粲然として再び今日に表白せしむ焉。またその傍ら古人の遺画を拾い、往昔の風俗の時変を考えて、而してこれを証す。その奇恠は爽朗にして、士君子の眼を醒ます者、前日の戯文の偽を構えて媚を取るの類いにあらず。その談に資し誣を解くの功、また多からずと為さず矣。
『近世奇跡考』鵬斎序(末尾)