見える私と認識阻害型彼女   作:廃棄された提言

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境界の私と越境の君

 

 

 血、あるいは火、もしくは()

 血が大地を流れ沁み渡り、火が構造を崩壊させ、天に新たな陽が昇る。

 私は夢を見ている。陽が昇り光が広がれば覚める夢。

 

 夢の終わりとは、世界が赤く染まること。

 

 燃えていく夢、あるいは夢が燃える。夢が血を流す、もしくは血を流す夢。

 いずれにせよ、赤は拡がって遠からず夢を一色で染め上げる。

 

 断末魔。

 

 時間。

 

 終点。

 

 死に行くから燃えるのか。流血した結果死に行くのか。

 先の先の先の先の先、鶏と卵、全ての原点が何であったかなど、分からない。

 

 一度見たことがある夢は、二度と私の前に姿を現すことはない。記憶に深く刻まれたそれらは、だがもう何の応答も残さない。不問。応答不可。

 死者は応えない。私が当事者であれるのは、ただその時々のみである。

 

 ただ……を見た。残骸、掠れた黒。対岸の私はあまりそれに興味が無い。だが、灰の前に在る赤であることを考えると、やはり赤の正しい認識は“火”なのかもしれない。

 火が出て、そして燃え尽きる。灰になる。灰となるモノ、燃えていくモノは様々だ。様々だった(・・・)

 全てが最後には一様に朽ちた灰になる。それを傍観していると、どうにも全てが元通りになったような安心感を覚える。全ては灰だったのだという、根拠のない正常への帰着。寧ろ様々に、色とりどりに分化していた方が異常だったのではないかと思ってしまうほどに。

 

 安堵は、やがて無関心になった。

 夢の中の私は熱を失い地に落ちた灰に興味を無くす。そこで認識は遠のいて―――

 

 

 私は、夢から覚める。

 

 

 

 

 

 

 

 

憎悪に非ず

 

 

 

 

 

 


 

 見える筈の無いモノ、聞こえる筈の無いモノ、感じる筈の無いモノ―――すなわち存在しないモノ。

 それは二重の意味を持つ。それらは彼らからすれば真実“存在していないモノ”であり、私はそれらの全てを正常に認識していたから存在しないモノなど存在していなかった。

 

 私にとって現実と非現実は地続きで、推し並べて同じ概念だ。電柱から生えた腕は元より自生していた物であり、それについて他者が騒ぎ立てるのは今更な事でしかない。

 

 現実のみを認識し現実に生きる他者との齟齬を感じたことは一度や二度ではない。だが、長らく私は彼らがそれらに気付いていないように見せかけているだけだと思っていた。無視することを生き方の模範として示しているのだと思っていた。

 だから倣った。ある程度の齟齬はそれで解消された。しかし完全ではなく、やはり完全は望めず、そして最初から望んでなどいない。

 

 どうあれ、今世のこの星の霊長は彼らである。それが譲られた物だろうと、幸運によるおこぼれだろうと、盤石とは程遠かろうと、霊長の座は伊達ではない。

 星の表層の姿、その認識は君臨し滅びゆく王が決める事だ。然れども理性/感情があるならやはり狂気も存在し、人々を時に惑わせ現実に爪を立てて引き裂く事を試みる。

 

 私が見ている“狂った”世界は、もしかしたら私一人の狂気に由来するのかもしれない。その可能性の方が大いに有り得る。

 狂人が孤独に見る悪い夢、この世界がただその定義で収まるならそれ以上はなく、私にその真実を判定する事は出来ない。狂気に陥っている可能性のある観測者を審査員にしてはならない。

 全ては悪い夢、そういう可能性もある。

 

 しかし、それなら誰であれば他者の正気と自らの正気を審判出来るのだろう。そのどちらも叶わなくては、この世の何処にも正気は無く、この世の何処にも狂気が有る事が有り得る。

 

 まあ少なくとも、私にとっての“世界”は酷く芳しい狂気に満ちているらしい。少し前に何処から嗅ぎ付けたのか、とある作家が取材に訪れた。

 地下室で少しばかり“本音”で話した彼とはそれきり、著者不明の怪書が場所を問わず流通するようになってしまった。

 

 私の世界を正気と比較した際の“齟齬”は物書きにとって良いインスピレーションを与えるようだ。真に迫った――ある視点では真その物の奇譚なのだからさもありなん。

 

 奇。怪。恐。畏。――逸脱。

 

 ―――怪異、超常、規格外、未確認、異端、異常、厄、呪い、悪魔、神……。

 私以外にその存在を垣間見る人々は数多くの言説を切り貼りしてそれを表現しようとする。理解しようとする。

 しかし、狂気と啓蒙に染まった彼らの瞳が見ている物すら氷山の一角に過ぎず、私のいる場所には他の誰もいないのだという事を私は経験則から知っている。

 

 それらは最早、“ソレ”と表現する他無い。真実/虚構の判定は横に置き、ただ一言でその事実を言い表すならばそう仮定する他無い。

 一貫性がなく法則性がなく確実性がなく現実性がない。確定しない物事を定義する事は出来ない。

 

 後、単純に面倒だ。名付けや定義などその時々で見つけた霊長が勝手にすればいいだろう。生憎と私は夜空を見上げて浮かぶ全ての星々に片端から名前を付けていくような趣味は持っていない。――ただしそういった趣味を持つ人間は知っている。

 

 

 ……大前提として――

 

 そもそも、安易に名前を与えるべきではない。

 

 名は存在を世界に刻む。世界に存在させる。命名は不在を実在に近付ける。霊長が星に刻めば尚更だ。

 だからいつか、人類は爆弾を踏むだろう。見える範囲を掃除すれば、それまで目に付かなかった物事が自然と映り込むだろうから。逆に言えば、これまではそうならなかったから偶然に人の世は継続して運営されている。

 

 ―――人類は『』を本来の意味では認識出来ず、何も無い筈のそれを『白紙』や『無』と存在する物事であるかのように扱う。

 本当は何も無かった、以前は単なる虚無であった事は霊長の油断と傲慢と権利の上では何の安全条件にもならない。

 

 

 

 

 記憶。記録。記載も時にはするだろう――多少は。

 

 私は忘れる事が無い。否、それは正確ではない。私は単に、全てを永久に忘れておく事が出来ない。無意識にしていてもいつかは思い出す。意識すれば欠落は即座に補填される。

 この性質、生態が人間的でないことは重々承知している。記憶喪失、完全記憶、映像記憶――他の人々も記憶に関して様々な逸脱を起こす。だが、それは脳機能のエラーや個体による性能差だ。

 

 私のコレは違う。仮に私の額に銃口を向けて引き金を引いたとして―――その破綻や欠落は私が思い出す事に何ら支障を起こさないだろうという確信がある。この生態は人のソレではない。

 単純な話、私は私以外の記憶を持てるのだ。

 

 だからこそ、私にとって記載は記憶や記録に類する物ではなく純然たる外部に向けた“表出”だ。私はそれらを書き留めておく必要がなく、それが必要なのは常に他者だった。

 人間は忘れる生き物だ。仮に文書や言説を周辺に流布しようとも、記憶や知識は永遠に世界に残る事はなくどこかで断絶するか、そうでなくとも変質――以前の姿が想像出来ないほどに変わり果てるだろう。アダムとイブの顔立ちを語り継ぎ、覚えている者がいないように。

 

 しかし忘却も悪いことばかりではない。過去が断ち切られる事は、一定の確度で過去に存在した諸問題が現在に現れる事を防いでいる。

 とある少年を例に示そう。

 ―――幼き日、彼が暗闇で見た不穏な影。成長し、懐中電灯を握って地下室に降り、“真実”を明らかにする。それがただの見間違いであったと“納得”し、かつて確かに感じた恐怖を“気のせい”であると再定義(・・・)する。

 

 不安や疑念に対する個々人の解答が真実であり、すなわちそれは普遍的な真相とは程遠いものでしかない。かつての子供は青年となり、旧い恐怖を克服した。いずれは完全に忘れ去るだろう。かつて洞窟の中で闇夜に響く獣の唸り声に震えていた人類にとって、現在に至るまでの道程は大まかにこれと同じだ。

 

 真実は観測者の数だけ有り、しかし共通する物事は確かであるとして人々は次第にその真実の集団を“現実”として信用していくようになる。……故に、根本的に“現実”なんてものは人が作り決定するものでしかない。

 

 人が信頼する“現実”が寧ろあまりにも荒唐無稽で“実際”からかけ離れている事を私は知っている。歴史を紐解けばごく最近まで人々は神や悪魔の実在を全世界に普遍的な現実の一端として過ごしていた。科学万能と謳う現代の性質というのは、ついこの前にやっと獲得した物でしかないというのに。

 

 恐怖と崇拝を忘却する事で人はソレらから遠ざかった。逆に言えば、それらを思い出す事で人は近づくことが出来る。

 

 私は全てを覚えている。青年が忘れた少年時代の怪異の実在を知っている。人々が見ようともしない事を日常的に流し見ている。世界の誰もが忘れた過去を、ただ私だけが保持している。

 

 

 

 

 正気な者を一人、狂人で満たされたコミュニティに入れ込むとする。異端として排斥されるのは紛れもなく前者だ。多数決は多数側を絶対有利とした出来レース。

 彼らは自分たちが狂っている事に気付いていなかったし、正気な者は己の正しさを次第に疑い始めた。やがては適応し、狂い、異端でなくなり彼らの“現実”の一員となり得ただろう。

 

 

 

 私には無理だ。

 

 

 忘れる事の出来ない私は、迎合しようにもあまりにも現実からかけ離れた数々を思い出してしまう。だから偽る。

 

 

 

 ―――少なくとも霊長が人類である内は。

 

 

 

 

 

 


 

 目を覚ます。夢と現の境界線は私にとってほとんど無いような物で、寝ても覚めても感覚には何ら差異を見出す事が出来ない。

 寝床の下、床との間で誰かの息遣いがするが、私は一人暮らしだ。

 どちらが夢で現実かは本当は分かっていない。連続性や内容の安定感で語るなら、私の見ているそれらは共に破綻を繰り返している。

 

 時が未来から過去に逆転する事など呆れを覚える程に経験した事であり、1ヶ月以上太陽が失われた日々もあった。

 

 けれど、私は今こうして認識する世界が“現実”なのだと思いたい。合理的な根拠は無い。私にとっては意味が無い。

 判定を分けたのは単なる愛着だ。だから私はこの世界に泡沫の夢とは異なる特別で無骨なその名前を付ける。

 

 カーテンを開く。窓の外、差し込む陽光とベランダで泣くヒヨドリ、それに忍び寄る手摺にへばりついた蛇のような軟体生物。

 最後のモノは他人には見えていない。

 人に見えない物事は他の獣にとってもそのままであったりそうでなかったりするが、今回は前者だ。

 

 未知の軟体動物はヒルのように胴体を伸ばし、前口部を大きく広げる。ちょうど、目の前で自らに気付く事無く鳴いているヒヨドリを包み込み、呑み込むような姿勢だ。

 

 実際、鳴き声はやがて聞こえなくなった。抵抗の気配すら無く。

 

 病により急死したと判断出来るヒヨドリの死骸はベランダから下の地面まで落下する。死骸に張り付いたソレもまた同じく。私は、アレが死骸の腐り切った頃にまた這い上がって来る事を知っている。

 アレはもっと高みを目指しているのだと思う。けれど、その意志は目の前の食欲に抗える物ではないらしい。

 ヒルに似た蛇のような軟体動物はマンションの屋上を目指しているのだと思う。しかし屋上には貯水タンク程度しかない。周囲にはより高い建造物もあるというのに、あの軟体動物は執拗にこのマンションを上昇する事に拘っている。

 

 いつか辿り着くのだろうか。辿り着いた所で、何が目的で何が起こるのだろう。

 ……何となくだが、ソレは本能によって行動しているだけで明確に目的達成の根拠を持っているようには思えない。

 昇り、食い、落ち、また昇り――。

 食う事が目的とするには、低層階や地上ではハトにもスズメにもソレは見向きもしない。少しばかり惹かれた様子は見せながら、どこか我慢したような素振りでソレは登攀を開始する。

 その我慢が利かなくなるのが、ちょうど私のいる5階辺り。

 飢えを抑えられず、それは目の前に現れた一番近くて手頃な肉に飛び付く。

 

 しかしやはり死骸の腐敗は正常に進行し、何らソレ自体に栄養として還元された素振りはない。

 それは何処か風刺的だった。

 アレの飢えは結局収まっておらず、只管に登攀し、最期には欲に負けて落ち、そして結局その欲すら満たせていないようだ。

 

 それでもアレは目指すのだろう。

 

 生きる事に本質的な目的が無いように、アレはこれからも上を目指し、私の足元で落ちていく。

 

 

 

 

 キッチンで蛇口を捻る。すると零れ落ちるのは無数の透き通る蛞蝓たち。質感は例えるなら水饅頭に近く、蠢きながら排水溝へと流れていき、何匹かはそのままシンクを這う。

 

「………」

 

 数分待つ。やがて蛞蝓は零れ落ちる事は無くなり、無色純粋な水だけが漸く流れ溢れる。シンクに残っていた蛞蝓もその中で徐々に押し流されていく。

 

 一匹、指で掬い取って口に含む。泡の弾けるほどの衝撃すら無く、辛うじて塊であった何かは口の中で解けた。

 微かな金属臭と塩素臭、結局それは誰しもが慣れ親しむ“水の味”と何も変わらない。コップを取り出して透明な水を汲み、口に含んでもやはり味には何の変化も無かった。

 大勢が気付かずにそれを摂取し、そして一切の変調を来さない。無害。それに煮沸すれば水に溶けて分からなくなってしまう。

 

 私にとっては時折水道の代わりに溢れ出す血や髪の毛の方が問題だった。心霊現象ならば解消は容易い。しかし、以前に屋上の貯水タンクに実際に死体が投げ込まれていた事が有りその時は徹底的な衛生処理をしなくてはならなくなった。

 

 

 

 

 

……ゴメンネ…ゴメンネ…

 

 居間。また誰かが食卓の椅子に座っている。しかし私に同居人はいない。

 若干靄の掛かった人型のその影は、近づいても姿が不明瞭なままだ。曖昧。朧気だ。

 けれど20代後半の女性ではないかと思う。その事実は私がこの部屋に引っ越す3代前に発生した一家心中事件との関連を匂わせる。

 人々はこのように多くと知らずに隣り合う。見ることの出来る私が少数派なのだ。大抵は気付かず気付かれず、そして問題とならない。いないモノとして扱う限り、向こうもそうである。敢えて交流を試みる意義は薄く、彼女も対話を好まないだろう。

 対立のリスクすらある。そして私は不要な面倒を好まない。ただし好奇心は別としておく。

 

 さり気なく彼女のいる椅子は避けて隣に腰かけ、コップを口元に当てて傾ける。

 水の味が口の中に広がった。

 

 喉の奥へそれを流し込むと、自然と視線が上を向く。

 

「………」

 

 そこには―――居間の天井には見落とすには不自然なほど巨大な、具体的には最大全長が3mほどの罅割れがあるのが見えるだろう。

 この罅は居住者にしか認知されない。写真にも映らない為、実際のところ所謂“実在”の範疇に有るのかは判然としない。

 ただ、私の視点からはそれは確かに見えていて、偶に引っ掻くような音も聞こえる。音だけだ。埃すら落ちては来ない。

 前述した心中事件との関連は不明だが、私の“前任者”に当たるかつての居住者たちが補修を試みた形跡がそこには存在した。セメントか何かで塗り潰そうとした痕跡や、釘穴などが確認出来る。

 だが、物件の引き渡しの際に業者や管理者が何も言わなかったことを鑑みるに、やはりそれも居住者以外には見えていないのだろう。

 

 この罅は、放置することで強い不安感に襲われる。私はその杞憂を無視してしまえるが、他の住人はそうでは無かったらしい。

 不安の根拠は「天井が崩壊するかもしれない」といった比較的現実的な疑惑から、徐々に「何かが罅割れの奥にいる」「罅割れの向こうの存在が自分を殺そうと罅の拡大を試みている」といったより非常識的かつ確信を伴った妄想へと移行する。

 この効果は、単純に影響を受けた対象の居住期間に比例して強まる。

 それが居住者に見える罅と音が齎す必然的な思考の結果であるかは、長らく分かっていなかった。だが、私に起きていることから考えて、その思考と判断も強制され、誘導されたものなのだろう。

 

 私は現在、物件本来の価値からすればあまりにも低額で販売されていたこのマンションの一室を購入してから3年住み続けているが、明確に罅が拡大したり何らかのモンスターが現れたといった出来事には遭遇していない。

 それが見掛け倒しでしかない安全な物だと分かった上で、無視できるにせよ不安感を拭えずにいる。拭えないだけで、無視出来ない訳では無いのが私と以前の居住者の差異なのだろうね。

 私以前の居住者は三ヶ月以上住み続けることが出来なかった。

 

 必死に罅の修復と封印を試みた彼らの努力が結実しなかった事は、異常の無い周囲の天井部に残骸として残されたその痕跡から見て取れる。何やらお札が貼られたような切れ端もあった。

 私も実験と称して試したが、どのような修理法を駆使しても罅は午前0時を以て再出現する。その際、その瞬間まで維持されていた修理成果は外部から強引に撤去されたような勢いで乱雑に破壊される。

 そこには確かな意思が感じられ、しかし午前0時まで現場を張っていた私には何らそれ以上の異変は垣間見えなかった。

 罅の修繕は明確な実体により破壊されているのではなく、単なる現象として原因無く破壊が生じている。ある意味ではそれも恐ろしい事実なのだろうが、不安の根源としてそれを駆り立てる“怪物”はやはり何処にもいなかった。

 

 私はその事実を確信出来るが、以前の住人はやはりそうではなかった。

 

 罅が入居者を怖がらせることで具体的にどのような利益を得ているかは分からない。単純な趣味か、何らかの捕食行為か、縄張りから人間を追い出そうとしているのか。もしかしたら何も無いのかもしれない。

 必ずしも物事に道理は存在しないのだ。そもそも道理で説明出来たなら、コレらは別に実在を周知されても構わなかったのだ。

 

 結局のところ、それに道理が有るにせよ無いにせよ、私は直すことも気にすることもなく、そうしていればただ無害な天井の罅とこれからも付き合っていくのだろう。

 

……アァ…アァ…

 

「…」

 

 立ち去る。当然だが、永遠に居間にいる訳にもいかないから。

 

 

 

 

 室内廊下へ出る。先には玄関がある。部屋を出て1階に降り、郵便物を確認しに向かうつもりだ。

 道中、洗面所と風呂場、そしてトイレに繋がる扉がある。前日にそこをしっかり閉めていたか否かに関わらず、隙間が無いか確認する。有るなら閉める。

 

 隙間から何かが見えようが、気にしなければそれでいい。

 

「……」

 

 今日は……トイレの扉には異常は無いが、洗面所に繋がる扉が僅かに開いて隙間を作っている。

 閉める。一度完全に閉めてしまえば、もう開いても良い。

 鍵は付けない。付けてはいけない。下手な抑圧をするくらいなら扉の向こうをコンクリートで埋めるか扉を取り払うかした方が良い。

 適度に対応してやれば、ある程度はそれで向こう(・・・)も満足する。ソレが明らかに此方を認識している場合は無視しても意味が無い。寧ろ抗えなくする為に過度に刺激的な日々を齎すようになるだろう。

 

 

 

 玄関。まずはそれとなく置かれている靴の中を確認する。偶に普通にムカデが潜んでいる事がある。地域によってはムカデがサソリに置き換わるだろう。

 だが、この行為の主目的はそういった虫の可能性の排除ではない。

 

「……」

 

 果たして、ひっくり返した靴を上下に振ったことで、ポトンと中から現れた肌色の物体は暗がりを求めて去っていく。

 それは人間の切り落とされた指の一本と同様の外見をしている。それが関節を持つ全体を伸縮させることで移動するその様を、私は歩行と呼ぶべきか這行と呼ぶべきか未だにはっきりさせられていない。

 その定義は、いつかソレを見つけるかもしれない人間にでも任せよう。

 

 この実体はこの部屋に特有という訳ではなく、水道の蛞蝓と同じく広範に生息している。恐らく、世界各地でその土地の人種に合わせた体色のそれが見られることだろう。

 

 妙に靴がきつくなったり、突然足が入らなくなる原因が恐らくアレらだ。

 

 それだけ。

 

 別に大きな害は無いが、単純に邪魔なため撤去が望ましい。それらは暗がりを好み、少しでも認知されることを嫌っている。その存在は全く世に知られていない。

 

 ……指の持ち主、指の出所に出会ったことは無い。アレらは何処から来たのだろう。少なくとも、形状からして人類の出現と平行して出現したモノではありそうだ。

 

 

 

 

 玄関脇には姿見がある。そこで形だけでも良いから身支度を済ませておく。鏡に何らかの異常があった場合でも、基本は無視することが望ましい。

 

 無いものとして扱えば、結構な物事は切り抜けられる。大勢の人々が無意識にそうしているように。

 

「……」

 

 背後の壁の奥から私を見つめる影が鏡に映っている。恐らくは30代男性のモノ。

 

 今朝は見ていないが、居間のアレと今いるコレの他にもう1人いる。多分、寝室の箪笥の中かベッドの下に隠れていた。

 

 玄関を開けて、外に出る。

 

 

 

 

「今日は本当に随分と長閑だ…」

 

 屋外に面した通路と街の風景、一度開いた扉は確認が終了するまで閉じない。

 

 地上から5階のマンションの一室が自宅である。今日の風景は何とも穏やかだ。

 一度、B級映画並みのゲヘナが展開されていたことは今となっては懐かしい思い出になっていた。血に染まった空と悪意に満ちた哄笑は刺激的な体験を私に齎したが、最終的には星々の中から私たちを見つめる瞳が全てを掻っ攫ってしまった。結果として帰還者は私一人、死体は今でも堆く積み上げられている。

 

 人々が異常と呼ぶものは一定の環境に密集する傾向にある。夜間、物陰、墓場、廃墟、事故物件はその代表例。

 私の居住するヒラタマンションもその例外ではない。

 

 玄関扉の鍵を掛けた。

 ほとんど気休め程度の封鎖力しかないにせよ、無いよりはマシ。玄関扉をよく見れば、殴られたような凹みや引っ掻いたような連なった細い傷が刻まれている。

 これは私の部屋に限ったことではなく、このマンションで居住者のいる部屋には必ずと言って良いほど現れている。

 だから、此処の住人は夜中には外出しないし戸を叩くモノがあっても出ることはない。

 

 問題は、戸を叩くモノがその気になれば扉を破壊できること。だから皆、何が起きても“順番”が回って来た時は息を殺す。ソレは中に人がいるかどうか確認しているからだ。

 

 このマンションに回覧板など存在しない。

 

 

 

 

 

 郵便受けはマンション1階に纏められており、そこへの移動は備え付けのエレベーターを使用できるが階段とは異なり不可避のリスクを孕んでいるため私はなるべく避けている。

 エレベーターは稀にマンションの何処にも止まらないし、乗客を消してしまう。似たような現象は他のエレベーターでも起こるが、ヒラタマンションにおけるその頻度は少々尋常ではない。

 

 玄関を出た廊下の突き当たりに、そんなエレベーターの乗降口と階段の昇降口が見える。私の部屋があるフロアは5階だ。

 その通路を階段へと向かう道中、私は4と5の間の存在しない自然数を表札に記載した部屋の前を通り過ぎるだろう。

 

 そこでにこやかな笑みを浮かべて立ち尽くす男の姿も見えている。

 

「僕が見えますか?」

 

「……」

 

 無視する。答えるな。

 

 50█号室。

 

 ソレはランダムにマンション住人により認知される存在しない部屋だ。例によって私は何の前提条件のクリアも無くその存在を認識してしまっている。

 

 つまり、他者よりも通路を行くだけの行為が有する危険性が遥かに高い。

 

「僕のこと、見えてますよね?」

 

 認めるな。

 

 部屋の存在を認識した不幸な人間は、その存在を異常なものであると認識し周囲に広めようとする。しかし、どれだけ論理的な説明や証拠を用意しても、彼らが他者にその事を伝えようとする試みは決して成功しない。

 

 何故なら、既にほとんど手遅れだから。

 

 やがて、発見住民は原高(ハラタカ)草摩(そうま)を名乗る50█号室住人に遭遇することになる。外見は50代男性であり、若干の白髪混じりで中肉中背の一見して平凡な人間に見える。

 

「今日はいい天気ですね」

 

 そうかもしれない。だが、同意はしない。

 

 ソレはこの異常の根幹が発見住民を油断させる疑似餌ないし捕食器官であると思われている。

 

 原高草摩は自身を発見した対象に対し「突然誰にも認識されなくなっていた」などと自身もまた基準外事象の被害者であるかのように振る舞い、自然な言動で対象(犠牲者)を自室である50█号室に誘おうとする。

 

 だが、注意深く観察してみれば何か違和感を覚えるだろう。指の関節の本数や、影の有無、瞳孔の動き。だが、“注意深く観察する”という行為がほとんどアウトであることは酷い罠だ。

 

 犠牲者の約30%が自発的に50█号室へ進入することを承諾し、実行する。残る7割が拒否する。

 

 だが結局のところ、彼らは一様に今度こそ手遅れだ。

 

 拒否した場合、原高草摩は犠牲者を強引に50█号室へ連れ込むよう態度を一変させる。

 

「ねぇ、助けてくれませんか?」

 

 知ったことではない。

 

 実際のところ、原高草摩に自我と感情は存在しない。ソレは単なる操り人形である。チョウチンアンコウの発光機関のようなものだ。

 

 強制的に進入を促す段階に移行して以降の原高草摩は、一切の発話と表情の変化を伴わずただ暴力に訴える。

 

 固定された笑顔のまま人体の構造を無視した挙動を行い、人間を奇怪な部屋に引き摺り込もうとするその絵面はそのままホラー映画に使える。

 

 この段階の暴力で犠牲者が死亡することはない。ソレは注意深く手加減して、犠牲者を生きたまま50█号室に連れ込む。

 

 死体には反応しない。貯水タンクで拾った死体で以前に試した。単純な血肉を貪るわけではないのだろう。

 

 犠牲者を連れ込んだ後、50█号室は一時的に私の視点からも消失する。分かり易く表現するなら、『壁の中に引っ込む』。

 

 ただ、そもそもが通常なら認識不可能であるため、多くのマンション住民はその変化に気が付かない。

 内部で犠牲者がどれだけ悲鳴を上げようが、それが外部に届くことはない。

 犠牲者は原高草摩により室内の食卓に拘束され、そこで生きたまま解体される。その解体は包丁やハサミ、鋸といった室内に存在している道具を活用して行われる。犠牲者は本来死亡するべき限界を優に超えて苦痛を味わった末に絶命する。

 

 これは、50█号室内自体に何らかの生命維持機能が働いていることが確認されている。

 

 犠牲者が死亡後にどうなるかは不明だが、少なくとも次回以降の進入において新たな犠牲者が前任者の痕跡を発見することはない。

 

 自発的に進入したケースでも変わらず、50█号室に一度足を踏み入れた時点で脱出は不可能になる。

 

 また、原高草摩の言葉に返答してしまった時点で犠牲者は通常時の50█号室と同じく周囲から認識されない状態になっているため、助けを呼ぶことは出来ない。

 

 原高草摩は人間を逸脱しているため、多くの場合で逃走及び抵抗の試みは成功しない。

 

 一応、マンションの5階フロアから脱出することで原高草摩は追跡を諦めるが、認識不可能な犠牲者の状態は死ぬまで継続する。

 

 50█号室からの逃走に成功したが、その後外部で正常な要因により死亡した者は仮に身分証を携帯していたとしても身元不明遺体として発見される。

 

 それは、原高草摩と交流した瞬間にあらゆる記憶と記録から犠牲者の情報は抹消―――正確には、認識出来なくなるためである。

 

 その為、住民の実際の行方不明者の多さに反してこの出来事に起因する警戒や噂がこのマンションで発生することはない。そもそも犠牲者宅は元から空き家だったものとして売却される。

 

「僕を見つけてください。ここは寂しいんです。同じ人を探してました。僕の部屋に来てください」

 

 お前の部屋ではない。

 

 50█号室に潜伏しているか50█号室そのものと思われる元凶についてだが、その何者かは捕食した対象のことを記憶していない。

 人間が何気なく食べた物の外見を、後から正確に描画することが出来ないことと同じく、それはあくまで原高草摩に応答した存在を自らの内に引き入れようとするだけである。

 

 

 

 廊下の突き当りには、上下に続く階段がある。

 

 この時、5階から4階へ下る階段の段数は15段が正解であり、16段なら何かが起きていることが一目で分かる。

 一般にこの異常が住民に観測されることは稀だが、50█号室とは異なり此方はマンションの都市伝説として住人にもよく知られている。

 

 16段目が出現しているならそれを踏み飛ばさなければならない。踏み飛ばさなかった場合、それに由来する異空間への瞬間的な転移が発生する。この異空間は現実の杜撰な模倣のようであり、階段周辺部を除き現実と大きく異なっている。

 

 破損していて、ズレていて、ちぐはぐだ。

 

 一度その空間に入ってから、足元の階段を逆に戻ることで脱出しようとする試みは成功しない。最悪、それは途中で途切れていて奈落の底へ続いている。

 

 しかし、マンション住民には明らかに脱出に成功した様子の者が存在し、実際に私も幾つか“出口”を把握している。

 

 此処の長期住人はある種の生存者(サバイバー)であることがあまり珍しくない。

 

 生存者たちは互いを意識しながら干渉しない。自己の体験も語りたがらない。

 不思議なことに、そうしようとした者は結局生存出来ないか、不可解な失踪を遂げるのだ。

 

 生き残った者たちは、一様に口が固い。

 

 

 

 何が起きるのか分かっていて必要も無いのに冒険することはない。少し跳んで、異界に通ずる縁を踏み外す。

 

 続く4~1階までの階段に常駐した基準外事象は無い。ただし予期せぬイレギュラーに注意する必要がある。

 

 仮によく分からないモノが階段を上って来ていたならどうするのか、その選択肢は常に頭に入れておかなければならない。

 

 

 

 

 ――開け放たれた扉、荒らされた無人の部屋、砕けて浮いたまま落下しない破片。

 

 4階フロアはそれ自体が現実的に不安定であり、特に404号室はその存在そのものが消失と再出現を繰り返している。だが、住人は生存者らを除いてそれらの異常を認識していない。

 

 入ればどうなるのか、元々いた住人はどうなったのか、そもそも何が起こったのか。

 

 ―――不明。ただ、その場所の現実の重要な基礎部分には修復不可能な亀裂が入っていて、壊れている。

 

 どうすることも出来ない。亀裂が拡大しないことから考えて、誰かの奮闘によるドラマがあったのかもしれない。だが、それを語る者はいない。私が来た時には、既にこうなっていた。

 

 

 

 階段を下り切れば1階に辿り着く。目立つ構造物は受付窓口と郵便受け、フロアの奥にあるエレベーターの出入口とマンションそのものの出入口。

 

 郵便受けに向かう。私の部屋番号は507だ。

 

 郵便ボックス、507。

 

 ここでは私の部屋の物にだけに注目していれば良い。それ以外のボックスに何が起きていようが、私にとっても彼らにとっても問題ではない。大抵の場合それらは私が意識的に、彼らが無意識的に無視することで十分な危機の抑制が可能だ。

 

 手紙から脱出する文字や血の滴るボックスも、そこに無いと思えば無いのである。有ると認識するから活性化し、現実に害を為すのだ。

 

 ただ、流石に私の507号室の郵便ボックスに何らかの問題が生じていた場合、その郵便物の回収を諦めることが選択肢に入る。

 だが、大抵はそのまま回収する。

 

 内容物を一括で回収し、取り忘れた素振りで心当たりの無い来訪物を放置しても良い。

 

「…ほほう」

 

 今日のおかしな来訪物は古ぼけたビデオテープだけだった。

 

 このビデオテープは現実に存在しており、問題なのはその中身だ。よって再生しない限りは無害である。そのせいか、自宅には既に5本が積まれたまま放置されている。

 

 何らかの形で手元から処分した場合は、24時間以内に新たな物品が本人の周辺に再出現する。他者に送り付けた場合はその限りではないが、恨みを買う。

 

 どこにも送らずただ保管する私の元に、最終的にコレらが集合するのはある種必然だった。

 

 しかし昨今はビデオデッキ自体が絶滅危惧種であるため、コレはその本懐を遂げることが難しくなっていることが容易に予測できる。

 

 仮に再生した場合、映像の再生に使用した機器の画面から長い髪の女性が出現する。

 

 ………一度、ビデオデッキをパソコンの小画面に無理矢理繋いでビデオを再生した時は出現に手間取っていたのが少し面白かった。

 下手にDVDやよりデジタルな媒体を利用しないのは、『画面から這い出す』という出現方式を円滑にする為であると同時に納得した。

 

 ビデオデッキはテレビの大画面以外にはそうそう接続されない。

 

 また、ビデオを再生した瞬間に女性の出現は因果律によって確定するらしく、出現過程において機器の電源を切るなどでそれを阻止しようとする試みは必然的な不運や故障により成功しない。

 

 出現した女性は道具を用いず素手のみで視聴者を殺害し、その後消滅する。これはスタンダードな“呪いのビデオ”である。フィクションの産物としてなら、一般への認知度も高い。

 

 ……今度、6体の同時召喚でも試してみようか。

 

《ポーン》

 

 ……思い出を振り返りながら郵便物を回収して戻ろうとした矢先、エレベーターが1階に下降しドアが開く。

 

「―――あら、こんにちは」

 

「……どうも、すみませんが荷物があるので」

 

 降りてきたのは高齢女性。彼女は現実に存在する住人である。彼女の挨拶に小さく会釈を返し、その脇を通り抜ける。

 

 彼女とは、あまり交流を持つべきではない。にこやかに笑う老婆の頬に、暗く湿り気を感じる影が伸びる。

 

…グゥ…ヴヴ……

 

 布藤(フドウ)幸子(さちこ)、一見して人当たりの良さそうな老婆の肩には、無視するべき怨念が常在している。

 当然だが私は彼女ではないため、彼女が過去に何を原因としてこんなものを背負い込むことになったのか正確なところを知らない。ただ、恐らく彼女は見た通りの善良な人間ではないのだろう。

 

 それは、10代前半の3人の男女と1匹の犬で構成された朧気な存在。構成物における互いの境界は曖昧で、混ざっている。恐らく思考も支離滅裂であり、意味の有る単語を聞き取れる機会は少ない。

 

 全員が妙に痩せ細っている。

 

 構成物に共通していると考えられる意志から発せられるとある台詞のみは、比較的明瞭にその意味を理解することが出来る。

 

…ユルサナイィィィィ

 

 それは布藤幸子に対して向けられた明確な憎悪だった。

 

 現状、彼女はその存在に気付いていないように見える。だが、いつか布藤幸子はそれを知覚することになると予感している。

 

 私が初めて彼女を見た時から、状況は出会う度に悪くなっていった。

 

 何が起こるかは分からないが、きっと良いことにはならない。私の脳裏には発狂から██まで、幾つかの結末のパターンが既に予測出来ている。

 

「じゃあねぇ」

 

…ア…アァァッ……

 

 手を振ってマンションの外に出て行く布藤幸子と別れ、階段に戻る。

 

 あの存在の問題は、布藤幸子1人で収まる問題とはとても思えないことだ。今、私の手の中にあるビデオに憑りついている怨念がそうであるように。

 

 ……まぁ、問題が起きた時にそれは考えようか。

 

 

 

 

 郵便物を抱えて階段を上る。注意を払うべき要素は下りと変わらない。

 

 本来自宅のあるべき位置へ戻ったなら、部屋番号を確認する。

 

 507号室でないなら同階層において507を探し、存在しないなら一度1階ロビーまで撤退して良い。そこから再度5階まで上り、依然として問題が解消されていなかった場合は帰宅を諦め、無関係な外部で一夜を明かす。

 

 ただしこの現象は極めて低確率で起きるものである。私も3年間で一度しか遭遇しておらず、以前の居住者には一度も遭遇せず転居した者が多くいる。

 

 507号室が存在するという本来当然の事を気に掛けなくてはならないというのは、きっとそれだけで他者からすれば転居を決意する要因の一つとなり得るのだろう。

 

 

 

 

 玄関を開けて自宅に入り、居間を目指す。

 

 まだそこにいる人型の影を気にせず、郵便物を仕分けして新聞を抜き出す。例のビデオはそういった類のモノを保管している押し入れに仕舞った。押し入れはそろそろ蟲毒のような様相になりつつある。

 ……偶に、何かが動いているような気配もする。

 

「……クジラの大量死」

 

 新聞を読む。特にこれといって好きな項目はないが、ニュースに目を通す。

 

 極稀に、存在しない新聞社や出来事を取り扱う記事が現れたりもする。明らかに平行宇宙から流れ着いた新聞記事もあって、古本屋や雑誌市でそれを見つけた時は思わず買ってしまう。

 

 あの時、歴史がこうならなければ、こうだったなら。

 

 そういうIFが垣間見えて、存外に面白いのだ。―――偶に、記事内の世界が終末を告げて執筆者が無茶苦茶に遺言などを書き連ねている場合もあるのは不穏ではある。

 その日付が未来ではなく、過去や直近のタイムラインであったりするのだから、さもありなん。

 

 

 

 

 以上、これが私の日常。

 

 一般的な観点から見れば、私は狂っているのだろう。だが私からすれば、全ては生来にして本来にして正常だ。

 

 人々はただ幸運にも気付かず、気付かれずにいるだけ。ほんの些細な手違いで、彼らは容易く取り込まれてしまう。

 

 私はただ、表も裏もなくそこにいるだけだ。

 

「………ん? ……あぁ」

 

《ピーッ》

 

 一瞬、意識が剥離しそうになった。幾つかの物事を忘れ、だが即座に回収する。そして何が起きたか、納得を得る。

 

 通知音。

 

 相手は分かっていた。

 

 私と連絡を取り合える者は限られているし、タイミングを考えれば凡そ1人に可能性は収束する。

 

「…………」

 

 端末の画面に表示されたメールの内容はシンプルだった。件名も本文も無く、ただ地図のスクリーンショットのみが添付されている。

 

 それは他県の、とある山と麓の住宅街を映している。

 

 注釈も概要も無い。ただ、分かる者にはそれで伝わる。

 

 ―――私は、分かる側だ。恐らくは今、この世で唯1人。

 

「……そうか」

 

 行かなければならない。必要だから、時間が足りないから、あの階段の16段目を踏むとしよう。

 

 コートに袖を通し、玄関で傘立てから(じょう)を取り出す。

 

 そして私は異界へと縁を結びに向かった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 奇怪で血生臭い応酬が繰り広げられる。

 

 それは或る古い廃トンネルの奥。とっくに人の手を離れたかつての人工を、華奢な少女に見える影が駆け抜けていた。

 

 和洋を中途半端に混ぜ込み、どっち付かずにしたような独特な黒色の衣装。それは彼女を容易く周囲の暗がりに溶け込ませる。

 

 ズル…ズル……ブチッ……

 

 同じく黒色に塗られた刀は暗所に瞬く僅かな光すら返さない。

 

 何故、彼女はこんな場所にいるのか。何故、現代というご時世に少女が刀を帯びているのか。

 

 その理由となるであろうモノは、暗闇に順応した彼女の瞳に写っている。

 

 蠢く巨大で不定形な影は、暗闇の中でも析出している。

 

 ゾブリ…

 

 刀身が不安定なスライムに近い肉を貫いて、その中に埋まる。引き裂きながら刃を抜く。

 

ゴァアアアアアアアアアッ!!!!

 

 瞬間、彼女を見つけ出した敵意が一斉に押し寄せる。痛苦を感じているとすればそれは有効な証だが、同時に相手を怒らせた。

 

 ぐねぐねとした蛇のような群れは、その全てがソレの“指”だ。

 

「―――はぁっ……!」

 

 斬っても斬っても途切れないそれを何とかあしらい、視界の外へ。認識の外側へ。

 

 その瞬間、あれほどに高まっていた筈のトンネル内の敵意は霧散し、暗闇の中で触手が所在無さげに揺れる。

 

 触手の主である得体の知れないモノ、ソレの知る世界から取るに足りない一人の少女の存在が消える。

 

 改めてソレの前に現れた少女のことを、ソレは最早認識出来ていない。

 

 だが、別に彼女も優勢という訳ではなかった。

 

 額に汗が浮かび、呼吸も荒くなりつつある。

 

「ジリ貧ですか…」

 

 少女がこんな事を続けて、かれこれ2時間になる。

 

 さっき相手に付けた傷は、攻防の最中にはもう癒えていた。それでも、ダメージ自体は蓄積していくだろう。再生に何のリソースも使わないとは考えにくい。生命力だか霊力だかは知らないが、いつかはそれは尽きる筈だ。

 

「…ですが、削れているのはこちらも同じ」

 

 ヒット&アウェイで無限に不意打ちを繰り返すことが出来たところで、試行回数を重ねれば些細なミスや不幸も蓄積されていく。

 

 痛む身体に彼女は鎮痛剤を打ち込む。

 

「人間は化け物あなた達みたいに千切れた腕が生えたりしないんですよ」

 

 通じる筈もない悪態を吐く。

 

 折れた左腕と、引き裂かれた腹を見る。顔も痛くて腫れている。もしかしたら鼻が折れているかもしれない。

 

 油断は無かったが、判断のミスはあった。引き返すべき点を見過ごした。

 

「……あぁ、また転校(・・)ですね」

 

 このまま続けても、倒し切れず勝手にこちらが終わる。少女はそう判断する。

 

 色々と技術を囓ったり備えもしているが、彼女の物理的な破壊力は決して高くはない。

 

 脱出しようにも、この場所の“道理”は外れに外れている。もう此処は、現実と地続きではなくなっている。原因を取り除かない限り、元の世界に戻ることは出来ないだろう。

 

「―――お互い、最悪な目に遭いましょう」

 

 メールは自動送信に設定してある。

 

 今は届かない。これから届くようになる。―――これから(・・・・)

 

 少女は、この絶望的な状況を覆す手段を有している。初めからそれを使わないことにも、当然理由がある。

 

 発動条件を満たすことは難しくない。重いのは代償だ。

 

「……私はただ、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて―――

 

 

 

 ………そうして世界に、不可逆の欠落が生じた。

 

 

 

 

 

 

 


 

 例の階段の16段目を利用したショートカット、空間の不整合と相対的な時間の流速の差による近道により、私は半刻と経たずに大雑把に地図に示された場所に辿り着く。

 

 それは国道沿いに少し逸れた道の続く山中。

 

 暫し周辺を歩き回れば、黒いインクのような物で書かれた印が随所に有ることに気付く。だが、その事に思考を巡らそうとすれば眠気に襲われたように注意力が散漫になり、すぐに別の物に意識が囚われそうになる。

 

 だが、私は忘れようがすぐに思い出すことが出来るから、それで少し滞りながらも順調に印を辿っていくことが出来る。

 

 感覚としては、小石に躓き続けるようなものに近いか。

 

「……なるほどね」

 

 納得は程なくして得られる。

 

 印の先には、トンネルの入り口があった。だが、端末に表示された公共の地図にはそこには何もないと示されている。少し調べれば、そもそもトンネルが作られた記録すら無いのだと分かるだろう。

 

 だが、50█号室を初めとしてこんな事は私にとってよくあることだった。

 

 仮に人類の99%が“存在しない”と主張していたとしても、残る1%が誤りであるとは限らない。彼らだけが本当のことを言っているかもしれないのだ。

 

 役に立たなくなった地図を閉じ、代わりに光源の携帯ライトを灯して慎重に奥へ進む。

 

 ―――一瞬の抵抗。

 

 剥き出しのただの斜面に頭から突っ込むような錯覚を覚えた後、暗い内部への侵入に成功する。

 

 暗い―――と言うより、認知が難しい。

 

 足音は響いているが、何の音もしない。感覚に矛盾がある。相反する二つが同時に存在している。

 認識は正しく編集され、その一方で私は異常な認識を可能とするよう抵抗を続ける。

 

 居場所を見失い、道を踏み外せば、私は土の中に生き埋めになることだろう。此処にはトンネルなど初めから無く、地中であることが正しいのだから。

 

 だから存在しないトンネルを奥へ進むために、私は存在しない道を暗闇から見出さなければならない。

 

 腐臭がしない。する。

 

 白骨が散らばっている。いない。いる。

 

 かなり奥へ進んだ。―――他者の気配に足を止める。

 

「……やっぱりあなたは、優秀な保険です」

 

 何もかもが不確かなこの場所で、それは確かに響く声だった。

 

「月並みな意見だが、保険が必要にならない状況を選ぶべきではないだろうか」

 

 言葉を返しながら端末のライトをそちらに向ける。周囲を包む暗闇からすれば、何とも頼りない光の中に傷ついた少女の姿が浮かび上がる。

 

 彼女は土に埋まりトンネルに一人座り込んでいた。

 

 ―――只野(タダノ)澄香(すみか)

 

 かつては平凡だったその名を、知る者はもう私以外にいないのだろう。

 

「私は君を知っているが、敢えて初めましてを言った方が良いだろうか?」

 

「あなたは私を知っていて、私があなたを知っている。それで十分です。一先ず、疲労と負傷で下手に動けないので手を貸して貰っていいですか?」

 

 言葉通りに手を差し伸べる。無事な方の腕でそれを掴んで彼女は立ち上がった。

 

 骨折した左腕は、既にその辺りから拾って来たのだろう白い上腕骨と布切れで簡易的な添え木をしてあった。腹部にも血の滲むガーゼが何重にもサラシのように巻かれている。深い擦過傷の付いた頬は、壊疽を起こす可能性があった。

 

「背負われるか?」

 

「いえ…意識を保つために自分で歩きます。地中で埋まりたくはありませんから」

 

「そうか」

 

 私が非現実を無視することを止めたように、彼女もまたそういった物事を放置しない難儀な人間の一人だ。

 

 ―――退魔師

 

 ……何故だか、初めて耳にした時からその単語には妙に聞き馴染みがあった。

 記憶に焼き付いているというか、親しみを感じるというか。

 

 歩き出した彼女を他所に、私は更なる奥へ視線を向けることを―――敢えてしない。

 そこにいたのは巨大な生き物であったかもしれず、未知なる侵略のための兵器であったかもしれず、怨霊の類であったのかもしれなかった。

 

 嗚呼、正体不明だ。

 何がいて、いなくなったのだろうか。そもそも本当にいなくなったのだろうか。好奇心になびきそうになる。さぁ、暴け―――

 

 無視する。それは今必要ではないから。

 

 私は彼女と共に歩き出す。

 

「暫く、部屋を貸してください。ご存じのように伝手が無いので」

 

 それは予想出来た要請だった。応じるのは吝かではないが、一つ…厳密には複数の問題がある。

 

「私の家のルール(・・・)は、覚えているか?」

 

「“天井に罅なんて無い(・・・・・・・・・)”―――大丈夫です」

 

 無論、それだけではない。

 

 だが結局、他者からはそれが一番重要で身近なことだった。

 

 気付くことも知ることもない問題を、わざわざ突き付けることは何一つ親切などではないのだから。

 

 

 

 

 


 

 只野澄香が現実に生きる人間でありながら、超常の怪異と渡り合えている理屈は彼女を中心として発生する異常現象に起因する。

 

 前提として、彼女と肉体的に血縁関係にある両親は存在しているが母親に出産経験は無かった。病院の記録にも誰の記憶にも澄香が誕生した事実を示す証拠はない。

 

 それこそが、彼女を超常に通用させる異常の一端。

 

「まぁ、今更ですしね。誰も教えることが出来ないので、正確な自分の年齢も分かりません」

 

 痛々しく傷つきながらも、スレンダーで均整の取れた身体を恥じらう様子もなく家主に晒す澄香は、ヒラタマンションの507号室にいた。

 

 ……あるいは、羞恥を感じる余裕など無いほどに見掛け以上の傷を負っているからなのか。

 

 寝室のベッドに腰かけた彼女は治療道具を持ってきた“家主”による処置を受け入れている。

 

「“協会”への連絡はどうする? 彼らなら、ある程度の記録の復元は可能だと思うが」

 

 幻覚の土と実際の汚染を洗い落し、消毒を済ませた“家主”は傷を保護するガーゼを清潔な物に巻き直す。

 

「左腕が逝ってますから、暫くはどうせ休養です。連絡は、今は後回しで良いです」

 

 彼女も常に単独で異常な脅威に立ち向かって来たわけではない。“協会”と呼ばれる組織に彼女は所属していた筈だった。

 

 協会は、国内における不可解なオカルト染みた脅威―――“怪異”の迎撃と解明に取り組む内務省の秘匿された下部組織だ。秘匿性を高める為に単に“協会”と呼ばれている。

 澄香のように、異能の力を持つ人間を招集し秘密裏に戦力として運用している法的にはブラックな組織でもある。

 

 だが現在、協会の構成員のデータベースに“只野澄香”の名は無い。過去に存在した記録も無い。

 

 認識阻害―――彼女は自身の能力をある程度コントロール出来ているが、基本的に指向性を持たせることが出来ない。何かに限定して能力を発動するといったことは不可能であり、言ってしまえば解放と同時に無差別に効果は発揮される。

 

 イメージとしては、閉めている水道の蛇口を徐々に開いていく感覚。そうやって能力を強める毎に、過去に彼女が残していた痕跡の全てと彼女自身の存在を誰もが忘れ、知覚不能になっていく。

 

 記憶を喪失し、記録を消失し、そして抑えることを止めれば彼女はあらゆる存在を抹消してしまえる。概念も、時間も、物体も。

 

 ソレらが認識出来ないなら、無いも同じだ。

 

 世界からの忘却現象。それは謂わば、物語から文脈を丸ごと削除してしまうようなこと。

 

 自分自身ですらそうなることを思えば、代償に釣り合う結果だろう。

 

「全員から忘れられた瞬間が人間の死であると、誰かが言っていたか」

 

「でしたら、私はギリギリで繋ぎ止められていますね」

 

 “家主”は例外だ。唯一、澄香の能力により彼女の存在を見失うことがない。

 

 理屈は不明だが、“家主”は本来見える筈の無い物や見えてはいけない物を何でもない事のように見通す。

 

 それは認知の境界を越え、喪失した記憶をも見せる。

 

 だからこそ、その能力の性質上他者との関係を維持することが出来ない澄香にとって、それは唯一変わらぬ過去であり続けるのだ。

 

 彼女が能力を使えば、程度の差こそあれ世界から彼女に関する過去と現在が欠け落ちる。そうやって問題を片付けて現実に戻っても、そこはもう以前の彼女の知る世界ではない。

 

 人1人が欠けた、彼女にとってのみ残酷な差異を持つ異世界。

 

「……すみません。行動食を切らしてしまって、何か用意してもらえませんか?」

 

「分かった。何か冷凍ですぐに用意出来るものが―――」

 

 異常を刈り取る少女、そして正異の区別を持たぬ者。

 

 若干の違いを持つ両者は、それでも世界に唯2人互いにしか残らない記憶を共有する者同士だった。

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