ソレは長らく人々を眺めていた。
ソレの役割はただ踏まれることだが、踏むことを強制した事はない。踏まれることで得られる利益も、損失も無かった。
ソレはただ存在している。
15段の16段目。
彼方と此方。
致命的に食い違った世界で、ソレはそのどちらにも同じ物として存在していたから、潮汐のように満ち引きはあれど異なる世界を知っていた。
その状況は、ソレが望んだものでは無い。
ソレを作った者もそれを望んでいたわけではないだろう。
ソレは、ソレ自体はどこまでいってもただの階段である。
「………え?」
ソレは今日も、踏み込んで来る者を例外なく受け止めている。
「なん…ッ!? 何なのコレぇ…!?」
ソレは二つの場所に同時に存在している。
一つはあるマンションの5階から4階の間、もう一つはたった今マンション側から踏み込んできた住人が目にしている世界。
ソレを踏めば、表の住人でもこの世の裏へと入り込める。
「夢? いや、携帯、これ、どこに―――」
ソレは自分のような存在に対処する組織ないし人物がいることには気づいている。警察でも消防でも、不可解な内容の緊急通信が入れば彼らは即座に介入してくれただろう。
「圏外!? 何で!!? さっきまでマンションの中だったのよ!!?」
だが、悲しいかな。一般に流通する電子機器は次元や世界を超越して電波を飛ばすことは出来ないのだ。
「戻れば、階段を上がれば―――ッ!!」
来た道を戻れば、元居た場所に辿り着ける。
確かに、そう考えてしまうのも仕方ないだろう。普通はそうだ。
だけど、ごめんよ。この世界の入り口はどれも穴みたいなもので、落下するしか能の無い一方通行なんだ。
「何で…ッ!!? 崖ぇッ!!?」
単純に戻ることは出来ないし、周囲の構造と環境も住人が元居た場所とは違っている。
「………」
今日の来訪者は、途切れた階段の下に有る雲の浮かぶ空間を見つめている。
「……大丈夫。こんな事あるわけがない。コレは夢、コレは夢、コレは夢…」
―――おっと、それはマズい。
「あッ―――きゃぁああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」
奈落の底に悲鳴は消えていく。勇気、あるいは現実逃避の一歩。自分の見た物を信じない。それも一つの選択なんだろう。
誰も悪くないけれど、選択には結果が付き物だ。
雲の下に海か湖でも広がっていれば、もしかしたら助かるかもしれないね。
いや無理か。確か、ある程度以上の高さから落下すると水面はコンクリート並の硬さになるらしい。……どこで聞いたんだっけ?
結局、そのマンション住人がソレの前に姿を見せることは二度となかった。
「クッ……ソッ…!!?」
今度の住人は途切れた階段の前で踏み止まったね。どうするんだろう?
「………落ち着け…俺はまだ生きてる…」
深呼吸して、振り返って戻って来たね。道が続いているこっちの先に行くことにしたみたい。
住人の視線の先には、どこかの建物の中の広いホールが広がっている。壊れかけた蛍光灯がパチパチ点滅しているね。全体的に古びていて、いつ床が抜け落ちてもおかしくなさそう。幾つかはコンクリートの内側の鉄筋が見えている。
バンッ
住人が足で思いっきり床を一瞬だけ踏みつけて飛び退いた。強度を確かめようとしたのかな?
「ふぅっ……大丈夫、そうだな……」
えっちらおっちら、覚束ない足取りで住人は崩れかけのホールを進んで、奥の脇に見える扉を開けてソレの見える範囲から出て行った。
その後の事は知らない。
「―――慈悲深き神よ。どうか、私に赦しと救いをお与えください…」
この人は、何やら十字架を取り出して必死に祈っているね。本当に真剣なのか、その場から一歩も動いていないのに額から汗まで垂らしている。
朝に踏み込んだこの人だったけど、此処ではもう日が暮れそうだ。
「―――あッ、神よ神神神神様お願い助けて助けて助けて助けて助けてあぁああああああああッ!!!!!!」
日が暮れる前に、どこでもいいから隠れる場所を見つけなきゃ駄目だよ?
それでも完璧ではないから、見つからないように自分の幸運を祈るなら正しいけどね。
何もしない、ただ懇願する相手に神様っていうのも多分答えてはくれなかったんだろう。
その人は目の前で真っ赤に引き裂かれちゃった。天国があるなら、そこに行けるといいね。
「……」
以前にソレを踏んだ住人は、黙って階段を見つめている。
彼は何とか生きて帰れたみたいだけど、指を何本か失っているね。
暫くして、彼は階段脇のエレベーターに乗り込んだ。金輪際、ソレを踏むような事にはなりたくないみたい。
「こんにちは。楽しんでいるかい?」
「―――は?」
だけど、エレベーターの中にはよく分からないモノが先乗りしていたみたい。
彼は叫んでエレベーターから脱出しようとしたけれど、その扉は一瞬で閉まってしまった。
落下するほどの勢いでエレベーターの籠は下がっていって、叫び声も遠のいていった。やがて完全に消えてしまった。
その後、エレベーターの階数表示が地下4階とマンションの構造上有り得ない物に一瞬なったけど、その後は何事も無く籠が戻って来たね。
籠の中には何も無い。
楽しい所に行けていたらいいね。
「ふざけんなよ、オッサン!!!」
………?
何だろう。誰かに踏まれた気がしたけど、やっぱり気のせいだったかな?
「は――ぁ…!? 何処だよ此処!?」
う~ん……やっぱり何かおかしいような、誰かがそこにいる気がするね。
もしかして幽霊かな? それは…ちょっと怖い。
「何で…ッ!!? 何で……アタシばっか………ッ!!!」
そう言えば、さっきマンションの5階で誰かが言い争っていたような、誰かが走って来ていたような気がしないでもない。
でもまぁ、気のせいだよね。
「絶対……生きて帰ってやる…!!」
それにしても、今日は何もないなぁ……。
さっきまで何か気にしていた気がするけど、それすらぼんやりとしていて思い出せない。
うん!やっぱり今日は何も無かったね!
前回の漂着もそうだったけど、何も無い日と言うものもある。
寧ろ、どこかの
漂流。
此処は
表は沢山有るけれど、裏は少ない。
上は無限にあって、根は一つ。
………その筈。
けれど、上が一つで下に向けて発散していくものだったような気もするんだ。
どっちが正解なんだろうね。
ソレは裏側をフラフラと漂って、世界が重合する点に誘われる。
あの世界における表のソレはマンションの階段でしかない。
ただ、別の場所では違っていた。
ソレは同じモノで、違うモノ。
ある時はオフィスに、ある時は廃墟に、ある時は船に―――
何故か青く輝く惑星を頭上に見上げていたこともあった。
だが、結局のところソレは階段でしかない。
ソレはそれ以上の何者でもない。
上と下を繋ぐ物。
それだけの存在だ。
「―――こんばんは」
………。
ソレは、その住人が好きではない。
普段は物体として、ただの傍観者として在ることの出来る自分を、舞台に引き摺り出すような、引き込むような視線。
落下、引力、鈍色の底無し沼。
壁越しに隣人が透視して自分を監視しているような、そんな違和感を覚えてしまう。
その住人はソレを踏まず、ただ傍に佇んでいる。踏まないなら去って欲しいし、出来れば踏まないで欲しくもあった。
「お前はあるいは、そこで眺めていたのではないだろうか? あの4階フロアで何が起きたのかを」
………異質。
画面の向こうでそれを見るのと、向こうから此方を意識されながらそれを見ることはまるで違う。
「あの現実基盤に開かれた亀裂は、あの場所を起点に発生した物だが同時にあの場所で封じられた。
一度、4階フロアの住民記録を追跡したが、このマンションの建造から本当に誰1人居住した事が無いのだという事だけが分かった」
…………ずっと見ていたとして、ソレに出来ることは何も無かった。
ソレはただの階段だった。
「だが、その事実はこうして見える景色とは明らかな相違が存在する。開け放たれたまま放置された扉、その内側に転がる靴と傘。素人でもそこに何者かがいたことが分かる。
彼らが消えた理由は、隠されたからではない。彼らは本当に消えてしまった。だから、私にも何も見出せない。想起する事も出来ない。
それが単なる被害者であったのか、あるいは加害者であったのか、挑戦者であったのか。
―――結果からは、その過程を読み解くことが出来ない」
………。
ソレはただの階段だ。
それ以上の何者でもない。そうでありたい。
何を期待しているかは分からないけど、答えてあげる時は永遠に来ないのだろうね。
家を出ようとした男の子に、キッチンで作業をしている母親が声を掛けた。
「██、今日は早く帰るのよ」
その男の子の住む都市では近々収穫祭が行われる。都市の人々はその為に都市全体を飾り付けて、迎え入れる準備をするのだ。
「最近だとレジスタンスもよく出て来るようになったもの。捕まったら地下に閉じ込められちゃうわ」
確かに、それは大変だ。地下じゃお祭りは楽しめない。
少年は母親の大事な忠告を胸に刻む。
『―――違和感を覚えたなら逃げてくれ!!!もうどこも安全じゃない!!隠れろ!!地下へ逃げろ!!!』
『……なんて不信心な連中なんだ。こんな物を残しておいては人類の品性を疑われてしまいますね。
―――おおっ、警官隊が現れました!!』
『背信者どもめ!!燃やせ!!全て燃やしてしまえ!!!』
ニュースではリポーターが街の広場の真ん中でお祭りの邪魔をしているレジスタンスの事を批判している。
すぐに警官隊が駆けつけて、プラカードを持った人達は木の棒で叩かれて地面に蹲った。
テレビの中の警察官が血の付いた汚い棍棒をおじさん達に向かって投げつけて、遠くから火炎瓶を投げる。
『ぎゃぁああああああッ!!!』
『ご覧下さい。罪が浄化されていきます』
崇高な炎に穢らわしい血肉が浄化されていくことが如何に素晴らしいことであるのかを、リポーターは熱弁している。
棍棒が薪になって、炎はどんどん大きくなった。広場にいた人達がそれを見て歓声を上げ、円になって踊り出す。台所で自分の爪を剥がして瓶詰めにしていた母親も、腕を大きく開いて掌を上に向けるポーズを取って踊り出す。
『上を見上げて、上を見上げて♪
息を吸って、大きな声で♪
見つけて貰おう、迎え入れよう♪
私たちは重力から自由になり♪
私たちは掬われるのだから♪』
ポタポタと母親の指から床に血が滴り落ちる。
「まぁ!汚らわしい!! もっと軽くしなくちゃ!!」
それを見て、意識を取り戻したように嫌悪の感情を浮かべた母親は鋏を持って洗面台へと走っていく。
テレビでは全ての地下鉄が廃業になり、全ての地下施設は邪悪の象徴として封鎖ないし破壊されることが決まったと言っていた。
警察は地下に降りる事が出来ない為、そこに残存する人々に投降と懺悔を呼び掛けている。
都市の地下に人々を短時間でも引き摺り込んでいた罪悪感から運行会社の役員が自首し、社員共々公開処刑される姿が生中継されるとアナウンサーが言っていた。
運行会社の稼いだ資金は罪に染まっていることから、立ち昇る崇高な炎によって浄化されなければならないらしい。それらの紙幣は縛られた人達の足元で薪代わりに積まれていた。
『助けて!!こんなの、こんなの絶対おかしいじゃない!!!』
『懺悔者の中に背信者がいる!!浄化して!!!早く!!!』
『私……私たちはただの駅員なのにぃいいいいいッ!!!!?』
テレビの中で、台の上から縛られていた1人が何とか立ち上がって逃げ出すのを見ながら、少年は玄関から外へと繰り出した。
都市では風船が飛ぶように売れていた。1人で道を行く子供に大量の風船を持った優し気なおじさんが声を掛ける。
「やあ、坊やもどうだい? お金なんかいらないよ。私は人々に慈悲を配る最中だからね。慈悲にお金や損得勘定があっちゃ駄目なんだ」
悩んだ末、少年は自分と母親の分、2個だけを買った。1人で沢山貰うのは悪いと思ったのだ。
おじさんは少年のそんな周囲への気遣いを褒めて、風船を1個サービスした。
「███ちゃーん!! 高く飛んでー!!!」
3個の風船を持って街を行く少年の周囲では、小さな子供や赤ん坊に沢山の風船を付けて宙に浮かせることが流行っている。
なるべく高い場所から飛ばそうと、人々は自分の子供と一緒に屋上に詰めかけている。
「―――お父さん、やめて、危ないよ!?」
「お前…ッ!! なんて事を言うんだ!? そんな事を言うように育てた覚えは無いぞ!!!」
何人かの子供は親に抵抗していて、そんな子供は親に酷く叱られて軽蔑の言葉を浴びせられていた。何人かの子供はそのまま屋上から突き落とされて、地面に叩きつけられてしまった。
「おとう―――ギッ」
グチャッ
潰れた頭と、妙な方向に曲がってしまった手足。
「落ちて来たぞ!なんて汚らわしいんだ!!」
「都市を浄化しろ!!」
人々は顔をしかめて、突き落とした父親ではなく飛べなかった子供を罵倒する。
誰かが無責任に火を投げ込んで、それがすぐ近くの建物に引火して火事になった。
だけど消防車は先週全て壊されてしまったし、誰も消火器すら持ってこようとしない。
昔憧れていた消防官が1人残らず防火水槽に詰め込まれて報いを受けた後に燃やされてしまったのが、少年は少し悲しかった。だけど、仕方のないことだと理解はしていた。
「あぁ!我が子の…いやあんなモノはもう私の子ではない!! 私の罪はそれほどまでに大きいのですね……!? ならば受け入れましょう!! 立ち昇る炎によって我が罪を浄化せん!!!」
父親は屋上と一緒に燃えながら歓声を上げて踊り出した。他の人たちも多くがそうしている。
何人かの子供は逃げ出したけど、階段を下りて来たせいで背信者になってしまった。
罪は炎で浄化しなければならない。
灯油とガソリンの前夜祭はまだまだ始まったばかりだった。
―――
少年は風船が熱で割れてしまわないように、急いでその場を離れた。
上空から風船が割れて落下を始めた子供たちが降り注ぎ始めたのは、もう間もなくの事だった。
街は落胆の声に包まれながら、更に火を起こして炎を大きく広げた。
家に帰ると、少年の母親は屋根に登っていた。血のついた梯子が壁に掛かっている。
一度登ったなら、そこから降りることがどれだけ冒涜的な事なのかは少年だって理解していた。母親が彼と目線を合わせて話すことは二度と無いのだろう。
少年がそこに行くことは無かった。母親に代わって、彼はベビーベッドにまだいる生まれたばかりの妹を世話しなければならなかった。
「アキャ♪キャ♪」
楽しそうに笑う赤子を抱きつつ、少年はふと思う。
“収穫祭”がいつ始まるか、正確な日付を誰も知らないのだ。
テレビも街の人々も、ただそれが近いと呼び掛け続けるだけだった。
大切なお祭りなのに、変なこともあるなぁと少年は思った。
瞬間、光が瞬いた。
屋根の上で母親が歓声を上げる。
少年は窓の外を見て、その2つに増えた太陽のより大きくて近い方が自分たちが待ち望んでいた物であると気付いた。
赤い光が地上を隅々まで照らして、人々がその中を浮き上がっている。
大勢が外に出た。地下にいたレジスタンスも、その光を直視したことで心を入れ替えた。
『上を見上げて、上を見上げて♪
息を吸って、大きな声で♪
見つけて貰おう、迎え入れよう♪
私たちは重力から自由になり♪
私たちは掬われるのだから♪』
皆が歌い出す。
その瞬間、確かに世界は平和で、一つになっていて―――少年は妹を抱き締めたまま空に浮き始めていた。
消防官だった父が、生まれてくる妹について少年が守るようによく言い含めていたことを何故か思い出していた。
全ての人々は第二の太陽に引き寄せられて、そして―――
熱い
焼ける
痛い
苦しい
溶ける
融ける
何か分からなくなったものを、それでも抱き締める。
腕の感覚が無くなっても、それでも抱き締める。
考える頭が無くなっても、それでも残った物を握り締めた。
結果、炉の底には最後までソレが残り―――
炉の底にこびり付いて凝固したソレは、やがて階段になった。
火に焚べられても残っていたソレは、そうそう壊れることが無くて頑丈だった。
ソレは正確には混ざっていたけど、ソレの一部になって溶けてしまった。
ソレは、階段で良い。
難しい事を考えたり、思い出しても疲れるだけだった。
不思議な夢だったなぁ、と階段は踏まれながら思う。
「―――さて」
明くる日、珍しくあの住人がソレを踏む。
―――世界の表裏と上下が覆り、例外の無い転移がそれを崩れた世界へ誘った。
灰色のコートに黒い棒。
以前のように何かを語る事もなく、ただ通り抜ける為にと踏み外される事もない。
踏まれ、先に進まれることは階段の本分なのだろうけど、此方に気付いている相手にこうも相手にされず、単なる道として使われる事は癪に障った。
「……あの子の場合、寧ろこの方が分かりやすくて良い」
手慣れた様子で、迷いなくその住人はその場を立ち去って―――向かい側の廃墟の窓から飛び降りた。
一見して自殺行為では有るけど、微かに聞こえる足音がそれが正解であった事を告げている。
足音の間隔は短く、遠ざかる勢いからしてそれは急いでいたんだろう。
何かあったのかな。
それにしても、どうしてあの住人は迷い無く選択出来るのだろうね?
「よっこいせ………」
大きなバックパックに、カメラ、ツルハシとロープまである。その人物はソレがマンションの階段で無い時に踏み込んできた。
そこは何処か、檻の中のような場所だ。普段はずっとその入り口は閉じている。
ソレは知っている。偶に、ソレのような物を綿密に調査する為にわざと踏みに来る者がいることを。
大抵、そういった人々は長くは生きられないと言うのに、彼らは中々諦めないんだ。
あの住人ほどではないけど、それは一応前にも見たことのある脱出者だった。少し迷いつつも、それは順調に入り口である階段から遠ざかっていく。
…ただ、階段の裏側の世界は刻々と変化を続けている。
―――壊れて、解けて、無くして、忘れて、死んで。
建物は廃墟になって、廃墟は残骸になって、残骸は砂になる。
夜には全てが掃除される。それで景色は完全に変わる。
絶えず壊れ続ける世界。どこかから色々な物が流れ着く世界。そして死んでいく世界。
遭難者ではない探索者たる彼は、今度も無事に元の世界に帰ることが出来るかな?
……そんな場所で、ソレが今でも無事に原型を保っているのは、単に頑丈だからなんだろうね。
炎を越えた功績は、それだけ大きい物なんだ。
ソレはどうして炎を越えることになったのかも、未だに何を守り続けているかも分からないようだけどね。
ただ、存在しているだけでソレはかつての願いを叶えている。
………本当は叶えられていないかもしれないから、分からないフリをしているだけなのかもしれないね。
私の住むヒラタマンションは、その実多くの物事が隠れている。あるいは封じ込めているのか。
そんな中で、あの階段は謂わば“入口”に該当する。
一般人が、私にとっての日常の一側面―――要は非日常に接触する最初の機会の一つ。
―――縁。
彼らの言う正常から異常への相転移は、沈降に近い振る舞いを見せる。
ある日突然、何かに遭遇して“気付き”―――それにより結ばれた
………いや、引き摺り込まれていると言うべきか。
彼らにとっての異常は進化し、深化し―――やがて完全に基準から外れて取り込まれてしまった人々は“向こう側”に連れ去られる。
このマンションは、既に基準から大きく乖離している。
私がそこを去る時は、此処に住めなくなる時だろうから、恐らく相当な事が起きるだろう。
一度、階段を利用して構成員の対超常認識促進を図ろうとした計画が協会で立ち上がりかけたことがある。
確かに、実際のところ幾つかの曖昧な法則の知識と洞察力をトレーニングすれば、あの階段を通って別の出口から戻って来ることはあまり難しいことではない。
薬物投与や超常知識への順応により知覚を拡大するよりも遥かにローコストで恒久的にそれを得ることが出来ると考えたのかもしれない。
だが、碌でもないモノを利用したツケは、碌でもない結果を招き寄せる。
あの階段は穴だ。
既に終わった流れの、断絶と共に残骸と成り果てるべきだった筈のモノ。死に落ちて、死体となれなかった漂流者。
だから時折這い出して、周囲のモノを掴んで引き込んでしまう。自覚は無いらしいが。
落ちた先で、常に出口が見つかるとは限らない。そもそも日常から転がり落ちることの意味を提案者は甘く見過ぎていた。
穴を覗き込んで理解しようとする事と、穴に放り込まれて其処を探索する事は、仮に表面上見える結果が同じであっても、大きく意味合いが異なる。
合同管理者たちは上手くストップを掛けてくれた。
使い古された文言だが、
よく有る事だ。何一つ、珍しい事などでは無い。
誰しも消費されるより、消費する側に回ることを望む。その結果、かつての自らを見失いそれを殺戮する。
あの階段の向こう側にも、そのように変わり果てながら何とか生き永らえようとした成れ果てが多く潜んでいるのだから。
ヒラタマンション506号室の住人である
あの日、階段から始まった彼の日々は徐々に何かに侵蝕されていくようだった。
世界の見え方が変わったと言うべきか、いずれにせよ元々の日常と呼ぶべき物に彼は自分が二度と戻ることが出来ないのだろうと理解していた。
繰り返しの中で、視界と勘は更に冴えていくようになった。
エレベーターのアレ、同フロアの█号室のアレ、4階、回覧板―――。
……旅行先で眺めていた有名な観光地の湖の水面下で蠢いていたアレを目撃した時、男はこの世に真に逃げ場など無いのだと知ってしまった。
………近頃は、ずっと声が聞こえている。
………暗闇でソレが手招きしている。
………早く此方に来いと。
分かっている。そんなものは錯覚だ。錯覚でないといけない。恐怖が産み落とした幻覚でないといけない。
………。
一体、何が幻覚なんだ? この世界に、本物なんて有るのか?
蛇口から溢れた水道水は喉の奥で蛞蝓の大群に化けた。吐いた。それから水道には触れていない。川の水の飲もうとした。川は蛞蝓の群れで溢れていた。
もう五日、水を飲めていない。
男は床に倒れて静かに息をしている。なるべく動かず、体力を温存している。
《ピンポーン♪》
インターホンが小気味の良い音を立てる。
男は考える頭が回っていなかった。出ようとも思わず、ただ強まる眠気に身を任せる。
だから、玄関の鍵が外から開かれて、彼に向けて近づく足音があってもあまり反応は示さなかった。
「―――私の見ない範囲で誰某かが落ちていくことは最早どうすることも出来ないが、見えている物事を見捨てることはあまりにも無責任だからね」
男は来ないと思っていた翌日に目を覚ました。目を覚ました彼の目の前には、透明な水が―――ッ!!!
飛びつく。中身が真実何であるかなど気にせず、キャップを捻って一滴も溢さないようにボトルの口を真剣かつ正確に開封する。
「アッ――ウゴッ…ンクッ…ゴクッ…ケホッ」
渇きの貼り付いた喉にとってそのボトルから流し込まれる水は、まさに砂漠のオアシスだった。間違いなく、この無味無臭の液体を心から尊んだのはそれが初めての経験であった。
いや違う。水には味も匂いもある。それを今まで気にしていなかっただけだ。
こんなにも素晴らしい飲み物を今まで見落としていたなんて、信じられない。
ボトルの傍には手紙が落ちていた。
水道の蛞蝓を取り除くために必要な放置時間が記載されていた。
男は喜んでそれを実行し、成功させる。
そして浴びるほどにただの水を飲み続けた。
………真実それが、何から沁み出していたモノであったかなど、気付きもせずに。伝えられることはなく。
男は絶えず終わりへ向かいながら、今朝もまた生き永らえた。
「あ…あぁあああッ!!! 駄目だ駄目だ駄目だ!! 知ってはならない………気付いてはいけなかった!!」
その夜、男は月に隠された真実を知ってしまった。
掻き乱され行く中、僅かばかりに残った良心でそれを実行する。
それまでにした大勢がそうだったように、ただ口を閉ざすことは無駄だと知っていたから。
人が受け止めるには、アレは過ぎた真実。いずれ男の身体からそれは這い出し、周囲に溢れ出すだろう。許容出来ない。人の身には大きすぎた。
男は只管に水を飲み続けた。
一時間後、3Lをその腹に収めた吉田孝弘は水中毒による低ナトリウム血症で息を引き取った。
死のみが彼を解放する。彼は死後を望まない。記憶と記録の断絶を望む。
男は月に何を見たのか?
仮に人類が恒星を目指すなら、その第一歩は必ず月となる。
“彼ら”はそれを理解し、奪われた物を見つめ続けていた。憎悪とは、明確な原因ある悪意。不条理に見えて元を辿れば、報復すなわち原初の実に真っ当な理に辿り着く。
だから、人類はどこにも行けない。逃げる事も進む事も出来ず、数千万年と積み重なった復讐により彼らは滅びるだろう。
月に潜む者、それは本能から人類を嫌悪する。自分たちの全てを奪った哺乳類の霊長を嫉妬する。
けれど、やはりこの世界は何物にも優位ではない。月は偽の太陽に見つめられ、偽の太陽もまたいつかの矢傷に苛まれていた。