無機質で白い部屋の中で、分厚いガラス越しに少女は白衣の人物と向かい合っていた。医者か研究者……この場合は後者だろう。
「―――こんにちは、実体1115。私はインタビュアーの
「……私は
少女――桃山桜は明らかに不服従で不満げな彼女の態度に眉一つ顰めない無感動な男をより一層睨みつける。男と彼女の周囲には分かるだけでも監視カメラなどの記録機器が幾つも見えている。
男は手元のメモ用紙に何やら書き込んでいるのが見える。
「失礼、桃山さん。他にインタビューの形式について何か変更したい点はありますか?」
「今すぐ私をここから出してください」
「残念ですが、その要望は叶えられません。空調の温度や部屋の明るさなどであれば変えられます」
「……」
淡々と反応を観察する素振りに、形式ばった回答。人間として扱われていないのだということは嫌でも分かる。
その態度に反抗するように桜は黙って白衣の男――佐伯を睨みつけたが、相手に気を害した素振りは全く無い。
「―――では改めて桃山さん、これからあなたへのインタビューを開始します。あなたの事を可能な限りで良いので教えてください」
「………」
防護ガラス越しの少女が黙っていることを何か勘違いしたのか、佐伯は質問を変える。
「出身、年齢、交友関係、家族、覚えている印象深い出来事などで構いません」
「………」
「桃山桜さん……?」
少女は沈黙を保ち続けていた。だが、やがて何かが堪え切れなくなったのだろう。
「……せん」
「…? すみません。もう一度、もっと大きな声で答えてください」
「誘拐犯とは交渉しません!!!」
何が何だか分からない。気が付けば窓の無い病室のような場所で、病院かと最初は思っていたが一向に現れる気配の無い家族と仲間の事に思い至れば、流石にそうでないことにも気付く。
「どうやら認識の齟齬があるようですね。桃山桜さん、我々にはあなたを害そうと言う気はありません。我々はあなたを保護しています」
「嘘です!! じゃあ、何でパパにもママにも会えないんですか!?」
「現在、我々はあなたの関係者を探しています。あなたからの情報提供があれば、より早く見つかるかもしれませんよ?」
「警察を呼べば良いじゃないですか!! 私のパパとママは普通の人です!! 探すなんてことするまでもないでしょ!!!
出来ないのは!!! あなた達が誘拐犯だからだ!!!」
淡々と話を続ける相手に桜は彼女の推理による確信を叩きつける。
本当なら今すぐにでも飛び出したい。でも、今の桜からはそれを行うに必須の道具が取り上げられていた。
「“普通の両親”とは、特に異常な能力などは持っていないという認識で大丈夫ですね?」
「……パパとママに何かするつもりなの?」
「それは今後の状況の変化に応じて対応も変えます。今はどうか、情報提供に―――」
「パパとママに手を出したら許さない!!! 今にイエローやパープルたちだって助けに来てくれるんだから!!!」
桜はガラス越しに身を乗り出して怒りに染まった瞳で相手を睨む。佐伯は、そんな少女の姿を見ても淡々としたままだった。
「……このままではインタビューは続行困難であると考えます。精神安定ガスの隔離室内への散布を開始してください」
プシュー
桜のいる区画に備え付けられた通気口のような物から白いガスのようなものが吹き付けられる。咄嗟に口と鼻を押さえて息を止める桜だったが、結局苦しくなって一息吸い込んでしまう。
「あ……え…」
意識に靄が掛かり、眠いような眠くないような夢見心地へ誘われる。
「それではインタビューを再開しましょう」
ガラス越しにスピーカーを通して何かを告げる佐伯の声も、もう桜には正しく認識出来なかった。
「ッ!!―――また、この部屋」
白い清潔なベッドの上で、少女は目を覚ます。初めて目覚めた時と同じ窓の無い病室で、いつの間にか隔離室から移動させられていた桜は1人起き上がった。
「大丈夫……絶対、悪い奴らは皆がやっつけて助けてくれる」
レッド、イエロー、グリーン、ブルー、オレンジ、パープル。
頼もしい仲間の姿を思い浮かべ、心を奮い立たせる。
魔法少女マジカルレインボーの一員、マジカルピンクはどんな時でも仲間の為に頑張る事が出来るチームのリーダーなのだから!!
悪の組織サタナーズ、世界を悪の力で支配しようと暗躍する彼らとマジカルレインボーはずっと戦って来た。
サタナーズに狙われた地球を救う為に流れ星に乗ってやって来た精霊テンキューと契約した中学生の桜は、パパとママと街の皆を守る為に日々怪人との熾烈な戦いを繰り広げて来た。
ピンチになった事もあった。だけど最後には必ず仲間と一緒に乗り越えて来た。だから、大丈夫。
…そう自分に言い聞かせる。
カチャン
「………」
食事は一日に三度、桜が閉じ込められている部屋の配給口にトレーが送られてくる。朝と昼と夜、歯ブラシまで付いたちゃんとした食事だ。
食べ終えたトレーを元の配給口に戻さないでいると警告のアラームが鳴る。それでも無視していると部屋の中にガスが流れ込んできて意識が曖昧になる。
それで気が付いた時にはトレーが無くなっていて、部屋の中も少し掃除されていたりする。
……眠っている間に誰かが入って部屋を片付けて出ていくのだ。
桜はガスの効果に抗おうと色々なことを試した。高い位置に登ってみたり、逆に姿勢を低くしてみたり、頑張って息を止めてガスが消えるのを待ったり、ベッドのシーツで口と鼻を押さえて呼吸してみたり―――。
……結局、今日まで何も上手くいっていない。
「……みんな」
…カチャッ
パンを主食としてヨーグルトも付いたランチを桜は素直に配給口に返した。配給口は平たい長方形の穴になっていて、横倒しにした分厚い辞書は入りそうだが桜が通るには狭すぎる。
部屋に窓は無い。
扉は一つだけ、部屋の端の壁に取っ手もノブも無い物が埋め込まれている。桜は何度か押してみたり、横にスライドさせようとして見たが、ビクともしなかった。
―――桜は知らないが、それは隔壁であって上下に開く仕組みになっている。かと言って、子供の力で動かせるものでもないが。
ベッドは一つ、床に器具で固定されていて動かせないようになっている。最近になって小さな本棚とテレビなんかの娯楽も追加されたが、桜は触れていない。
部屋の一角にはシャワールームが備え付けられていて、着替えも一日に一度病院着のようなものが支給される。
一度、湯舟が欲しいとぼやいたら翌日には寝ている間にバスルームに改装されていた。
桜が無口になったのはそれからだ。どこで何を聞かれているのか、見られているかも分からない。
《―――実体1115へ通知、第16回インタビューを開始します。鎮静ガスを注入…》
プシュー
「………」
意識を奪うガスに抵抗する気力も、徐々に失われつつあった。抵抗したところで、意味が無いという理解が桜の中で進行しつつあった。
「では、第16回インタビューを始めます」
「…あの」
「どうしました?」
気が付けば椅子に座らされ、硬い壁とガラスで仕切られた部屋にいる。それはいつもの事だったが、今日は少し様子が違った。
「佐伯……さんは?」
「……佐伯主席研究員について、あなたが知るべきことはありませんよ、実体1115」
インタビュアーとして桜の前に陣取ったのは、佐伯ではなく別の白衣の女性だった。敵対心に近い物を抱いていたとはいえ、15回も接した相手に突然いなくなられると心配が勝つ。
あるいはそういった善性こそが、精霊テンキューが桃山桜を選んだ理由なのかもしれない。
「では改めて、私は
「…どうも」
番号で呼ばれることに一々反応することにも疲れてしまった。そう考えると、第1回インタビュー以降はずっと桜を苗字で呼んでくれていた佐伯は少しは親切だったのかもしれない。
あるいは単に、彼女を刺激したくなかったのか。
「今日は我々の調査の進展について―――」
長々とした伊藤の話を、白々しいと思いながら桜は聞いていた。
伊藤によれば、いつかの時点で桜の開示した両親の情報に合致する人物は未だに発見出来ずにいるのだという。一週間前の佐伯の台詞と同じ出だしだ。
当然だろう。悪の組織の研究施設が捕獲した魔法少女に本当の事を話す筈がない。
口では味方だと嘯いて、油断したところで何かするに決まっている。
……だけど、此処には変身アイテムのブローチが無い。
何かされようとしたところで、抵抗など出来ないだろう。
「―――聞いていますか、実体1115?」
「…はい」
最近は、従順なフリをするようになっている。いつかチャンスを伺って、この場所から逃げ出す為に。
皆が助けに来ないのは、皆も捕まっているからだ。そうだ。そうに違いない。そうでないなら、皆が助けに来ないわけが無い。
―――だから、私が助けないと。
心が折れてしまわないように、桜はそう決意した。
果たして転機はあった。ある日、今まで無音だった部屋に突然鳴り響く警報に、施設の振動、爆発音。
桜は遂にマジカルレインボーの仲間が助けに来てくれたのかと思った。
ガキャァアアアアアアアアアンッ!!!!
「ひゅッ…」
「グルルルルル……?」
でも違った。徐々に快適な形に整えられていた桜の独房に、あの分厚い隔壁を壁ごと破壊して侵入してきたのは怪人なら何度も目にして来た桜でさえ、思わず目を背けたくなるような醜悪な見た目をした化け物だった。
ソレは一見して巨大なサンショウウオのような体型をしている。だが、鋭い牙の生えた口は身体の彼方此方にあって一つではなかった。
その身体は赤いスライムのような物に覆われているか、元からそういう物体で構成された生物なのかは分からないが体表が泡立つように常に流動していた。
その流動する表面に浮かぶ瞳孔の縦に裂けた眼球が周囲を見回すように移動し………桜を見つける。
ズボッ
「あ……」
怪物の泡立つ背中から、そんな音を立てて巨大な赤黒い腕が現れる。今更だが、魚の内臓を腐らせてそこに血だけ新鮮な物を混ぜ込んだような、そんな腐臭と血臭の混濁が腰を抜かしている桜の独房には充満し始めている。
だが、それによって本来は誘発されるべき吐き気が気にならなくなるほど、彼女の目の前のソレは脅威的で奇怪だった。
明らかに人外の物である胴体と違って、怪物の背中から生えた一本の腕は人間に近い構造をしている。
怪物は伸ばした腕で桜の脚を掴み、そのまま乱暴に持ち上げる。
「痛い痛い痛い!! 下ろして!下ろしてぇえええッ!!!」
桜は怪人と戦ってきたと言っても、それは魔法少女に変身し耐久力や身体能力を底上げした状態での話である。例えるなら、パワードスーツを着用したようなものか。当然、桜に生身での戦闘経験などない。殴り合いの喧嘩だってしたことが無かった。
そして、言語を介してある程度しっかりした意志の疎通が行える怪
「グワァアアア……」
天井近くまで吊り下げられた桜の下で、怪物は数ある口の一つで人間を呑み込むに十分なサイズの物を開いて待ち構えている。
真下を見上げた桜は、怪物の喉の奥でぐちゃぐちゃに潰されてドロドロに溶けていく何人もの姿を見た。その多くは桜がサタナーズの悪い研究者だと思っていた佐伯や伊藤と同じ白衣を身に付けた人々だった。
何で?
足を掴んでいた手が開かれ、落下していく短い間に桜は思う。
何故、悪の組織の一員が怪物に襲われて死んでいるのか。…暴走? いや、怪人なら兎も角、この存在は人間が生み出すにはあまりにも外れた化け物だ。
そもそも、何で私が死ななきゃならない? こんな訳の分からない場所で、何も分からないまま、仲間も救えずに―――?
「…いやだ」
巨大な怪人に呑み込まれたことはある。だけど、あの時は変身していたし、こんなに臭く無かったし、吞み込んだ怪人は口の中で噛んで来たりなんかしなかった。だから、お腹の中で暴れて脱出出来た。
―――今回は違う。そうはならない。自分もあんな風に、ぐちゃぐちゃに噛み砕かれる。
怪物の舌の上に少女は落ちる。灼け付く酸の感触が粘膜に触れた少女を襲い、病院着を溶解させる。
そしてそのまま、凶悪な殺傷力を体現した牙の生え揃う顎が少女を収容して閉じようとしている。
「いや…」
死の際において、そこに理屈は無く、ただ本能のみが有り―――
「いやぁああああああああああッ!!!!」
“死にたくない”という純粋かつ何もかもを凌駕する強大な思いが、伊藤や佐伯が見掛けにはただの少女を厳重な独房に閉じ込め続ける判断をした
―――光が、舞った。照射された超高熱量のレーザーが怪物を内側から吹き飛ばす。
「……え?」
焼け焦げ、辛うじて手足だけが残った肉塊が床に崩れ落ちる。
それを為した少女は、信じられないといった面持ちで自分の手を見ていた。
“変身”はしていない。彼女は病院着のままだ。
変身に必須のアイテムも無い。一度それをサタナーズに奪われた時は、力が使えずに窮地に陥った筈だ。
しかし現在、桜は淡い光に包まれて確かな“力”を手にしていた。
「……何、これ」
風が吹く。見上げると、怪物を吹き飛ばすだけでは足りなかった先の少女の一撃が施設を貫き、切り裂いて夜空を見せていた。
「何なの…これ……!?」
だが例え自分の命を救ったにせよ、それは彼女の知らない力だった。
本来、魔法少女の力とは浄化の力である。建造物を傷つけることはせず、一般市民には綿毛ほどの力しか加えず、悪に染まった怪人を人に戻す力がある。
だから、怪人であっても桜がこれまでに死体を見たことは無かった。自分たちの戦いを“殺し合い”なんて殺伐としたものだと思ったこともない。
だが、怪物とは言え生き物を殺し、その中で溶けていた人間の死体を消滅させ、頑丈な建造物をあっさり破壊する―――そんな力は、絶対に桜の知らない物だ。
「私は……何?」
分からない。
一際強い桃色の光を宿す自分の両手が、とても恐ろしい物に見えて―――
悲鳴と喧噪、壊れた部屋の外から誰かが近づいて来るのが怖くて―――
何より、もう何も傷つけたくなくて―――
桜は部屋に開けられた穴から、桜が力を発揮する前から大混乱に陥っている施設の外に逃げ出した。
「はっ…はっ…」
監禁による体力の衰えをまるで感じさせず、少女は山中の半壊した施設を後目に麓を目指して駆け下りていく。
麓を目指して、それから―――それから?
「は――あ…」
それから、どうすれば良いのだろう。訳の分からない力を持った自分が、誰かと接して、それで?
自分に宿る力は、人々に希望を届ける魔法少女の物ではなくなっている。簡単に命を吹き飛ばせる、そんな“危険”という言葉だけではとても表現し切れない恐ろしい物だ。
「………」
立ち止まる。誰にも会っちゃ駄目だ。誰かを傷つけることになんてなったら、今度は本当に耐えられない。
「うう……」
結局、木々に囲まれた山の中腹で蹲るしか無かった。
何が切っ掛けで力が漏れ出すかも分からない彼女は、誰の助けを求めることも出来ない。
「―――見つけましたよ、桃山桜さん」
だからこそ、一人泣くことしか出来ない少女に手を差し伸べる者がいるならば、それは子供にとってヒーローと呼ばれるべきなのだろう。
「こんばんは、私は只野澄香です」
夜に溶け込む黒塗りの和洋折衷、自分より少し年上の少女はそう名乗った。
「…ッ!! 近づかないで!!」
ややあって、桜が絞り出したのは拒絶だった。孤独と未知への恐怖の中で、本当は縋りつきたい程に焦がれていた他者。
けれど、彼女にはそうしてはならない理由があった。
触れる物を蒸発させる光を宿した手、剥き出しの銃口にも思えてくる得体の知れない自分の身体の一部を、少女は慌てて背後に隠す。
「―――大丈夫ですよ。私も、“同じ”ですから」
「ッ!!」
その声は、耳元のすぐ隣から聞こえた。驚いて桜はバッと振り向いたが、そこには誰もいない。只野澄香を名乗る少女は以前変わらぬ位置に佇んでいる。
「私の能力は―――認識に穴を開けます。虫食い、とも言いましょうか。私を中心として記憶・記録を拭い去る。それは徐々に広がって、いずれは周囲の全てを忘却の渦に引き込んでしまう。
先ほどは、私があなたの隣に移動してから戻ったという事実を消しました。現代の情報化社会をその気になれば一日で崩壊させられますよ、私」
「あ……」
“同じ”
あぁ、孤独でないことは、こんなにも嬉しいものだっただろうか。
「あの、私、手が、手から光が、何も、何も分からなくて……ッ!!!」
「えぇ、もう大丈夫ですよ。私があなたを助けます」
「あ…あり、ありがとうございます……!!」
優しく抱き締められる。それを返すことは出来なかったが、桜は相手の肩に顎を押し付けて涙を溢し始めた。
それは久々に感じる他者の体温でもあった。
「―――ありがとうございます、明夏羽さん」
「いえ、あの方の頼みですから。それでは」
車が夜の中へと走り去っていく。此処はよくある住宅街の中、アパートの目の前の路上だ。
桜の両手には黒い手袋が嵌められている。理屈は分からないが、これで彼女の“力”は封じ込められるらしい。もう二度と外す気は無いが、これを渡して来た澄香は「なるべく外さないように気を付けて」と念押しして来た。絶対に外さないと桜は心に誓う。
「どうぞ、入ってください」
「……お邪魔します」
「ふふっ、今日から暫くここがあなたの家になるんですから、そんなに畏まらなくても良いですよ」
アパートの4階の一室が澄香の住居だった。どうやら一人暮らしをしているらしい。
桜が丁寧にお辞儀をして玄関に入ろうとすると、澄香は笑ってそう伝えた。
その日は澄香が桜の歓迎パーティを開いてくれた。誰かと食卓を囲う楽しさを少女は思い出し、今が嬉しくてまた涙を溢した。
澄香に慰められて、一緒にお風呂に入って、同じ布団に潜る。
温かかった。
新しくも以前より穏やかな生活に少女が馴染み始めた頃、澄香は桜に自身の身の上について少しずつ語ってくれた。
彼女は“協会”という組織に属しているらしい。
協会の目的は“日常の保護”、その為に世界を脅かす様々な“怪異”が奈落から溢れ出すことを未然に防いでいるらしい。彼女たちは唯一にして最後の、破られてはならない防波堤だ。
桜は自分が捕らえられていた施設の中で見た、自分が殺した怪物の事を思い出していた。
そして夜中にどこかへ出かけ、偶に汚れて返って来る澄香とその間も留守番をしている自分のことを思い返す。
「……私にも、何か手伝えますか?」
銃の撃ち方と格闘技術を桜は澄香から教わるようになっていた。澄香が誰から教わったのか聞いたところ、どうやら最初の日に会った車の運転手だった明夏羽が指導してくれたらしい。
あの人も、戦う人なのか。
「―――そこッ!!」
「ぐッ!!?」
市の体育館に偽装して、その地下に隠された協会所有の訓練施設だという場所で桜は胃の中の空気が全て押し出される感覚を味わっていた。
意識の隙間を突いて、無防備な腹に掌底が叩き込まれている。
視界からいなくなったり、気を削いでから思わぬ方向・タイミングで澄香は打ち込んで来る。能力の関係で、独自に身に付いた技術であるらしい。
桜の筋は悪くないと澄香は言う。元々、種類は違えど戦った経験は持ち合わせているのだ。そういった勘の冴えが皆無であるわけではないらしい。
ただ、追い込んでいると思ったら一撃で天地を返されたり、何をされたか分からないまま地面に拘束されたりしている為、まだまだ自分は弱いのだと桜は実感するしかなかった。
こんなに強い人が、血塗れになって帰って来ることがあるのだから。
刃物は難しいからと桜が澄香から借りた銃は、一見して現実感が無いがしっかりとした重みを伴っていた。
銃火器がこの世に実在している事実は当然知っている。警察官が身に付けているのも見たことがある。けれど、それでもこの剥き出しの黒鉄はそれまでの桜の“日常”からは遠いもので、映画やドラマなんかの画面を一つ挟んだ半ば架空の存在だった。
「安心してください。安全装置が掛けられている限り、引き金が引かれない限り、これは永遠に作動しないただの物体です。そういう意味では、触れただけで怪我をする可能性がある刃物よりずっと安全ですよ」
弾倉を取り出して、弾を抜く方法をまず教わった。
弾頭は黒い。……勘違いでなければ、銃弾の先端は銅や銀色をしているものではなかっただろうか? ただ、映画の知識であるため桜にもはっきりしたことは言えない。
その後、澄香は別のところから取り出した銃弾を一発だけ弾倉に入れて銃の本体に戻す。その銃弾は、桜の想像した通りに銅色の弾頭が嵌っていた。
桜は指示された通りに安全装置を外し、撃鉄を起こした。
「真っ直ぐ腕を伸ばして…目線の位置で照準を合わせて……」
桜の視線の先、15mくらいの場所に円形の的がある。凸凹とした照準器を重ね合わせて一直線になるように、桜は渡された時より少し軽くなった銃を構える。
「後は好きなタイミングで引き金を引いていいですよ。なるべく心が落ち着いている状態がベストです。焦らないで。早さよりも正確さが重要です」
「……スゥ」
桜は息を吸い込む。騒めいていた心が静かになるよう、波の無い水面を思い浮かべた。
……そして引き金を引いた。
思っていた程の反動も、発砲音も無かった。後で聞いたら、その辺りはかなり改良されているらしい。
銃弾は、中心から少し逸れた位置に穴を開けた。
「おぉ……初めてでコレは、桜、才能有りますよ」
「今度は12発連続でやってみましょうか」と言われ、桜は弾を弾倉に詰め込む練習がてらに教えられながらそこを満載にした。
がっしりとした重みが腕に伝わる。
構える。
「……」
一発、二発、三発。
少しずつ的に開く穴は中心に近づいて行って―――
五発、中心を捉える。
六発目以降は全てその穴に注いだ。
「……上手い、ですね」
「あの、なんか、出来ちゃいました…」
澄香は少し戦慄していた。桜も自分が知らなかった自分の才能に少し怯えていた。
澄香が同行するという条件下で、桜は危険な夜の冒険に出ることが出来るようになった。
太陽と星空が入れ替わっただけなのに、改めて見る夜の世界は昼間とはまるで違って見える。
「―――桜!! 頼みます!!」
「ッ!!」
初めての相手は、路地裏を徘徊していた黒い影のような巨人だった。
最初に澄香が刀で斬り付けて注意を引き、そのまま市街地から離れた河原へと連れてくる。そこで待ち構えていた桜がソレを処理するという手筈になっていた。
動く的も、動きながら撃つ的も訓練では経験済みだった。……初めての実戦。
「集中…落ち着いて……焦っちゃ駄目…」
……初めて怪人と戦った時のことを思い出す。そうすると、徐々に緊張もほどけて行った。的が人型で、巨大で当てやすかったのも良かったのかもしれない。
一発、首を狙う。巨人が首を傾げたことで、僅かに逸れて弾丸は暗闇へと消えていく。
焦らずに修正、二発。当てる。三発、当てる。四発、五発―――
六発、気付かれる。
「ジャァアアアアアアアアアアッ!!!!」
巨人は前のめりになって、二足歩行から四足歩行へと移行し吼えながら桜に迫る。
あの施設で怪物に襲われた時の記憶が蘇る。焦燥の沸き立つ心を何とか封じ込めて、引き金を正確に引き続ける。
だって―――
「―――私から気を逸らしましたね?」
巨人の意識から外れていた人影が暗闇から踊り出て、低い位置に下がったその巨大な首に向けて錐揉みするように回転しながら刀を振り下ろす。
「ジャッ……ァ」
影は断たれ、塵となって夜に解けていく。事前の打ち合わせ通りに、澄香が巨人の命脈を断ち切った。
「やりましたね、桜」
「…うっ、あぁ……はい」
緊張に溜めていた息を吐き出す。澄香が手を差し出してきて、桜は黒い手袋越しにその手を握り返して伏せていた地面から起き上がる。
その日から、桃山桜は只野澄香と正式にバディを組んで活動するようになった。
怪異を日常から排除し、以前とは異なる形であっても人々を守る日々。
協会に認定された退魔師として活動する傍ら、ある程度周囲の状況が落ち着いた桜は後回しになってしまっていた事に着手していた。
―――検索:“東京都美楽町”
―――検索:“魔法少女マジカルレインボー”
「…………」
検索結果は有った。
パソコンの画面の前で桜は暫し呆然と固まるしか無かった。
「遠出…ですか?」
「はい、少し…」
翌朝の食卓、眠れない夜を明かした桜は内心の動揺を悟られぬように努めて澄香に話を切り出していた。少し向かいたい場所があると同居人でありバディでもある先輩に告げる。
可能なら、1人で。
「……分かりました。本来なら桜の外出には付き添いが必要ですが、何とか許可を取ってみます」
「ありがとう、ございます」
澄香は深く事情を聞くことはしなかった。
……もしかしたら、悟られていたのかもしれない。
けれど、それでも有難かった。本当は少しでも触られたら、今にも崩れてしまいそうな程に桜の内面は罅割れていたから。
電車を乗り継いで、東京へ向かう。思えば、1人になるのは久しぶりだった。
車窓を流れていく景色。それは、昔見た物と同じであるように思える。そうであると、思いたい。
「………」
最低な考えだが、桜は澄香の部屋にあったあのパソコンに映し出された情報はデマなんだと思いたかった。澄香や協会が嘘をついて自分を騙しているのだと。
―――皆が、自分を騙しているのだと。
路線図に、有るべき名前を見つけられなかった時、
「はっ…はっ……」
諦めて列車を下りて、徒歩で在るべき場所に向かった時、
「うっ…あぁ…っ」
どこにも辿り着けなくて、フラフラと立ち寄った電気屋のテレビ画面で、
「あ……」
《魔法少女マジカルレインボー! 来週もまた見てね!》
アニメチックにデフォルメされた声と容姿。
―――“真実”に辿り着かなければ良かったと、求めてはいなかった場所にやっと到達して桜は思い知った。
協会は、日常から怪異を遠ざける防波堤。
自分もまた、
同時に、必ずしも怪異が日常を脅かすのではなく、その逆もあり得るのだとも。
傘を二本持って、帰って来ない同居人を探して澄香は自宅近くの駅に向かった。
雨が降っている。
目的の人物は駅の出入口近くに座り込んでいた。顔を腕の中に埋めて、屋根の下にいたが時折横風に煽られた水滴が身体に掛かっている。
澄香はしゃがみ込んで視線を合わせるようにすると、半分雨に濡れた少女に傘を差しだした。
「……風邪、引きますよ」
「……」
「さく――」
「澄香さんは」
「……」
「澄香さんは…知ってたんですか?」
顔を上げた桜の瞳に浮かぶ色に、澄香は心当たりが有った。
後悔、疑念、恐怖、怒り、絶望、孤独。
ある日突然、理不尽によって全てを失って、狂気の世界に蹂躙された者の瞳。取り戻すことの出来ない過去を永遠に失った者の目だった。
それはいつかの鏡でもある。
あの時、自分を拾ってくれたのは―――
「―――はい。知っていました。あの日、怪異に該当する多くの生物を封じ込めている協会の収容施設から
「…隠さないんですね」
「……あなたに嘘を吐きたくありませんから」
「ずっと……騙してた…癖に」
絞り出すようにして、桜の口から恨み節が零れる。
ただ、澄香には分かっていた。
拒絶して欲しいのだ。嫌いになりたいのだ。嫌いになって欲しいのだ。
こんなクソッタレな世界の事なんか、素直に嫌わせて欲しい。後腐れ無く、何もかもを捨ててしまいたい―――澄香も、そう考えたことがある。
「初めから私に居場所なんて無かった!! 私が大切に思っていた世界は!! 御伽噺でしかなかった!!」
―――魔法少女マジカルレインボー
それは、毎週日曜の朝8時30分から9時まで放送されている子供向けアニメの題名だ。
番組内では主人公の“桃山桜”を含めた7人の魔法少女が、悪の組織であるサタナーズに立ち向かうことを物語の主軸としている。
…それだけなら、まだ良かったのだ。澄香と共に、多様な姿形や性質を有する怪異と接する経験を少しは重ねて来た桜なら、『異世界に跳ばされてしまったのでは?』という発想くらいは浮かんだ。
だが―――
「……私がいなくても、“私”は私の知らない物語を続けていました」
…それが致命的だった。
桜の最後の記憶で彼女が物語から消えたと思われる話以降も、問題なく“桃山桜”はマジカルピンクとしてお茶の間で活躍を披露していた。
二次元と三次元、本来交わらない世界に存在する自分が本当に“桃山桜”とは違う存在なのだと気付いてしまった。
分からない。
自分が何なのか。
あの日、施設から逃げ出した時の感覚が再び彼女を襲っていた。
「あなたは私のバディです、桜。帰りましょう」
「帰る……? ははっ、私に帰る場所なんてありません。澄香さんは、生まれた場所や家族のことを架空の存在だと言われたことはないでしょう?
自分の出している声が声優の借り物で、この姿さえ誰かが紙に線で描いた物が元になってるんです。
私にとってはそれが真実だったのに……本当は何もかもが偽物だった!!
―――もう、一人にして……!!!」
差し出された今度は手を振り払い、少女は雨の降る街の中へと消えていく。
そんな桜を追いかけることなく、澄香は振り払われた手を見つめていた。
「……あなたのようにはいきませんね」
澄香が信頼する“あの人”なら、この場も穏便に収められたのだろうか。
僅かに気弱になる。
「……決まってます」
結論が出るのは早かった。
“あの人”は“あの人”で、澄香は澄香だ。それは目標、目指すべき星であっても、人は星にはなれない。
ただ、いつか星に届きたいと願いながら地上を走り続けるしかない。
飛翔出来る人間は限られていて、飛び発ったところで途中で墜落する運命が常に付き纏う。
“あの人”に出来ることでも、自分に出来るとは限らない。
だから、ただ健気にベストを尽くすことが重要なのだ。
大切なのは願いに辿り着くことではなく、叶うまで諦めないことだと思うから。
「―――それにこんな別れは、私も、嫌だから」
それが同情から始まった気紛れのような関係だったとしても、澄香にとって桜はもう“監視対象”ではなくただの友人で大切な相棒だった。
彼女もまた、雨の中へと走って行く。
走って、走って、走って。
我武者羅に走っていくと、桜は初めて怪異を討伐したあの河原に辿り着いていた。
「……」
川に架かる橋の下で座り込む。
「…あぁ」
これから、どうしようか。
こうして断ち切った筈なのに、未練がましく後ろ髪を引かれている。
偽物、偽物、偽物。
作られた記憶。
自分の根幹が無価値になって、事実と呼べる物はあの無機質な収容施設から始まったことだけで。
「……そっか。あそこも協会の建物だったんだ」
こうして思い返せば、佐伯や伊藤の対応は妥当だった。こんな得体の知れない存在を外に野放しに出来る筈も無い。
「……」
黒い手袋を見る。それを外して、中から現れた掌を頭蓋に近づけた。なるべく、周囲に迷惑が掛からないように寝転んで掌を地面に向けるようにして―――
「―――桜!!」
止まる。起き上がって、振り向く。
そこには、ここ数ヶ月を確かに一緒に過ごした相手が今度は自分も雨に濡れて立っていた。
「……どうして、来たんですか。あなたには、私と違って帰る場所が―――」
「……」
澄香は無言で桜に近づく。そして―――
パァンッ
橋の下で、頬を平手打つ音が鳴り響いた。
「……え…?」
「喧嘩、しましょうか、桜」
澄香は指をポキポキと鳴らす。一方で、桜はジンジンとひりつく頬を押さえて呆然としていた。
何故、いきなりこんな事になっているのか。
分からない―――けど、
「…ッ!! この!!」
「うっ…!!」
さっきのは、痛かった。
桜は腕を振るう。普段の訓練での組手なら絶対に避けられていたその初動は、難なく相手の頬を捉えた。
その事実に打った本人が驚く。
「…え?」
「避けると思ったでしょう!!!」
「がッ…!!!?」
殴られる。今度はグーで。衝撃で意識が白くなって、雨でぬかるんだ地面に倒れ込む。
「……」
口の中をどこか切ったのか、血の味のする口元を拭って桜は立ち上がった。
色々と考えていた事とか、蟠りとか、そういうのがさっきまではたくさんあった気がする。
けれど今は、取り敢えず。
「澄香!!」
「桜!!」
目の前の相手をぶっ飛ばすことしか、頭に無くなっていた。
技は無い。体捌きも無い。勝利する展望すら無い。
ただ、只管に相手に近づいて拳を振り抜くだけ。
「全部ッ!! 捨てたらッ!! 確かにッ!! 楽になったような気になるでしょうねッ!!!」
「ぎッ…あッ…ごッ……!!?」
それでも、普段の戦い方の差か、やはり澄香が優勢であるように思われる。言葉と共に繰り出される殴打は桜の身体に重く響く。
ふらつく。崩れ落ちそうになる脚を何とか踏み留めて、桜はキッと相手を睨みつけた。
「うる…さい…ッ!!」
「ッ!!」
ガンッと額に響く衝撃に澄香がたたらを踏む。
「パパもママも弟もッ!! 仲間も友達もッ!! 生まれ育った町だってッ!! これまでの人生全てがッ!! スタジオで作られたハリボテでしかなかったッ!!!」
「ぐっ…あ…ッ」
頬と顎。澄香の視界に火花が散る。桜は泣きながら拳を振るう。
意識が、明滅する。
「だから、もう、放っておいて……」
「……放っておける訳…ないでしょうがぁあああ!!!!」
「ッ!!?」
突進する。意識を持ち直し、逃げられないように澄香は桜を地面へと押し倒す。その胸倉を掴み上げる。
「人生に意味なんて無い? えぇ、人生に意味なんてありませんよ!! そんな御大層な物が私たちに初めから有る訳ないじゃないですか!! サルより多少賢いだけで、文明なんて物を作ってはしゃいで、実態は怪異に常に脅かされ続けてるようなこんな世界に生きることなんて罰ゲームでしかない!!」
「―――ッ!! だったら何で!!!?」
「まだ分からないんですか!!?」
澄香は桜を地面から引きずり上げるようにして持ち上げ、橋脚のコンクリート壁に彼女を押し付ける。
「生きていて欲しいんですよ…私の大切な人たちが、少なくとも平時は死の恐怖に怯えなくて済むように…せめて、真っ当な死に方が出来るように……」
「……」
「……桜、お願いします。生きて下さい。この狂った世界で、それでも私はあなたに生きて欲しい。絶望の中で死んで欲しくない…」
「……澄香」
「……お願い、します」
……ずっと、桜が目を逸らしていたことがあった。
知らない場所で目を覚まして、知らない相手から人として扱われずにいて、怪物に襲われて、自分も怪物になっていて―――。
澄香の言う通り、この世界はクソだ。正気なんて物は現実の薄い表面を包むペラッペラの紙の一枚でしかなく、少しでも何かを間違えれば幾らでも人は狂気の中で死んでいく。
……自分も、そうなりかけていた。狂気の中で、立ち止まって、蹲ることしか出来なくて。
でも、そこに手を差し伸べてくれた相手がいた。光の中に連れ出してくれた人がいた。
一緒に料理をして、映画を見て、何でもないことを話して―――。
確かに存在した日々の、その温もりが桜を今に繋ぎとめていた。
断ち切られては、いなかった。
「……分かったよ…分かった、からぁ…!!」
「桜…」
「うっ……あぁっ…あぁああっ…」
泣きながら、桜は澄香に抱き着いた。澄香も桜のことを強く抱き締め返す。
「―――おかえりなさい、桜」
「うぐっ…うぅっ……ただいま、澄香」
「―――それが風邪をひいた経緯か。君が体調を崩したと聞いた時は、生物兵器の直撃でも受けたのかと思ったが、なるほど。……想像以上に情熱的な原因だ。意識的に理性を手放し、感情で動いたことが如実に感じられる」
「うっ…」
「それで仲良く風邪をひいたと言うのだから、確かに相性は悪くないのだろう」
「「うぅっ…」」
少女2人が同時に呻く。
あの後、幸いにして通報されるといった事は無かったが、澄香と桜は土砂降りの中を走って帰るか、濡れた身体を外気に晒して橋の下で雨が上がるのを待つかの二択を迫られた。
後者を選んだ場合、普通に低体温症で死んでしまう為、2人は土砂降りの中を更にビショビショになりながら帰るしかなかった。
澄香は桜を追いかける際に駅に傘を置いて行ってしまっていた。
結果は当然の帰結だった。
現在、2人は澄香のアパートに敷かれた布団の上で動けずに看病されるだけの存在になっている。
淡々とお粥の温度の調整をしている灰色のコートの細身の麗人は、澄香がどこかに連絡して呼び出した人物だった。桜は初めて見る相手だったが、協会の事情にも通じているらしい。
程良く冷まされたお粥の載ったレンゲを差し出されて、恥ずかしそうに口に含む澄香は熱にも増して顔が赤い。
お椀とレンゲを持ったその人は、桜の方にも視線を向けた。
「…それで、気は済んだかね、桃山桜?」
「えぇ…まぁ…はい。もう全部捨てて、楽になろうとはしていたんですけどね」
自暴自棄とは、まさにああいう状態の事を言うのだろうと桜は昨日の自分のことをどこか他人事のように考えていた。
偽りから始まった全てを、終わらせてしまおうとした。過去にあった筈の大切な物が全て無くなった辛さから、逃げて楽になろうとして。
それを強引に引き留めた友達がいた。
思慮深いようで意外と脳筋で、冷静なようで案外情に厚い彼女。桜がこの世界で出来た最初の友達。
澄香によって、桜の心に開いた穴は塞がれた。
「―――けど、今は頭が痛くて全身も痛いです。冷えたスポーツドリンクが欲しいです」
ボディーから頭に掛けての各所がズキズキと痛む。頭は熱いのに身体は肌寒いという矛盾。実際のところ、喋ることも結構辛かったりする。
「あ、私もそれ欲しいです」
澄香も隣で同じような気分を味わっていた。
「はいはい。ただの風邪であるから、三日もすれば回復するだろう。それまでは、私も君たちに付き添おう」
……この後、冷蔵庫からコートの人物が持ってきたボトルが一本だけで、どちらが先に飲むのかということで少々諍いが発生したりする。
コップに注いで飲むという初歩的な事も思い浮かばなくなる程度には、実のところ2人とも疲弊しきっていたのだ。
…両者の関係は少し変化したが、より近くなったように感じられる。
―――月日は流れ、桜が正式に協会に雇用され単独でも任務をこなすようになり始めた頃
「気付けば中学校も卒業かぁ…」
犀慶学園中等部3年生、それが今の彼女の表向きの肩書で、卒業すればそのまま高等部へ繰り上げとなる。
惜しくも、桜とは入れ替わりでルームメイトの澄香は卒業してしまう。そこからは、本格的に協会の活動に従事していくことになるだろう。
最近では、任務の為に外泊することが多くなって桜も澄香と直接言葉を交わすことが減ってしまっていた。
澄香の方も、ある地方における未解決の行方不明者事件―――よくある“神隠し”の対応に掛かっている最中なのだと言う。
協会の地方支部である表向きには県立図書館の地下施設から報告を終えて帰宅するつもりの桜は、何事も無ければ今日返ってくる筈の友人を労う準備をしておこうと考えた。
お風呂を沸かして、食事は何が良いだろう? 疲れている筈だろうし、軽い物の方が良いだろうか?
―――。
「……………………え?」
突然、ぼんやりとしたような感覚に襲われて桜は廊下を振り返った。
何かを見失った気がして、けれど視界の中には何も無かったから思わず背後を確認したのだ。だが、そこにも何も無い。
来た道に、落としたと思った物は何も無い。
「…あれ…?」
報告書を電子に書き起こして支部長にメールで送信したところまでは覚えている。消費した特殊弾頭の内、例の黒色の弾は撃った後で回収出来ないと結構問題になるからその辺りが厳しいのだ。
だが、その前後が曖昧だ。ただ、廊下を歩いていたわけでは無かった筈だ。何かを考えていた筈…。
「………私、どうして泣いてるの?」
理由は分からない。何故か、とても心が痛かった。
その後、重大なセキュリティ侵害が発生したとかで、幾つかの協会内のデータと退魔師を含めた構成員の記憶に明らかな異常が見られたことから協会は結構な騒ぎになった。
桜も、怪異上がりの退魔師であったことや彼女に関わる記録に特に多くの欠落があった事から尋問対象になったが、不思議なほどすぐに解放された。
恐らく、
でなければ、自分でも協会に雇用された経緯の説明できない人物を優秀であっても協会が監視も無しに通常業務に復帰させる筈がない。
日常の防波堤である彼らの中でも、上層部は時に冷徹な判断をする。かつて仲間であった者に銃口を向けることに組織の運営者は躊躇いが無い。
閉じ込めることはもっと容易に下せる決断だ。実際そうなったわけであるし。
「……」
家に帰った。何もおかしくなど無い筈なのに、やっぱり何かが欠けている気がする。
一人暮らしの部屋が、いつもより寂しい物であるように感じた。
耐え切れなくなって、風呂にも入らず布団に飛び込む。
「……どうして…?」
違和感と寂しさ。
包まった毛布は、いつもより温もりに欠けているような気がした。
「桃山桜の事は――」
「……私に顔を出す権利があると思いますか? あれだけのことをして、一方的に押し留めた癖に、いざ自分の番になったら別れの言葉もなくこの様ですよ。
―――それに、もう直接会ったところで思い出すことは出来ないんです」
忘却も一つの死、澄香の能力によって齎される結果は、特にその性質が色濃い。
ヒラタマンション507号室で片腕の骨折にギプスを嵌めながら、澄香は“家主”に向けて力無く言葉を返した。
生まれた時から一緒だった両親ですら、彼女の事をもう覚えていない。
長く連れ添った相棒であれ、確かな絆を育んだ親友であっても、例外なく無慈悲に彼女の能力は作用する。
―――そこに奇跡が起きて記憶が蘇るといったような理想の入り込む余地は、無い。
だからこそ、澄香は不死身で誰にも手が付けられないような怪異に対しても、その存在をこの世から完全に消し去ることが可能な協会の最終手段としての地位を確立している。
「……必要な決断でした」
今や存在しないトンネルで
そこで元凶を物理的に抹殺することが出来れば、どれだけ良かっただろうと澄香は後悔する。装備が少し違えば、調査用ではないちゃんとした殲滅用であれば勝ちの目もあっただろう。
だが、結果はコレだ。
彼女は自身の能力に頼り切りになる他無く、元凶の存在をこの世から抹消することに成功した代償に自分自身の存在を失った。
全ての繋がりは一つを除いて断たれ、全ての過去は彼女自身とそのもう1人だけのものとなった。
「……あぁ…」
息を吐く。
流石に今回は疲れた。
疲れすぎて、涙も出ない。
いや嘘だ。泣きたい。
「あっ……ァッ……さく、ら……」
いつもそうだ。
大切な物を失う辛さをよく理解している癖に、それを懲りずに欲して自分で手放すことを繰り返している。
愚かだと思う。
忘れることの無いただ1人に依存して、それだけを愛せたならどれだけ良かっただろう。
けれど違うのだ。大切
「………ッ」
涙をふき取る。
協会の最高戦力の1人として、澄香はこの国を、ひいては世界を守らなくてはならない。
例えもう二度と以前の関係にはなれなかったとしても、それは彼女にとって大事な者たちの生きている世界だった。
他に出来る者がいないことを、彼女だけが出来る。彼女がしなければ、誰も助からなかった事がある。
だから、彼女はこの仕事を辞めないのだ。
―――時は遡り、地質調査研究所に偽装された協会収容施設226において
「―――不審な郵便物?」
「スキャナーの計測結果によると、内容物は“生物/人型”です」
「…それは不審ですね」
佐伯主席研究員は、部下の伊藤からの報告を聞いて搬入口に向かっていた。収容施設226はその性質上、冷凍保存された変死体なんかも偶に供給されてくる。
ただし、その場合でも棺に入れる程度の道徳心は協会にも辛うじて残っているし、そもそも事前に連絡が入る。
今回のように、全く何の通知も無いままいきなり現れるということは無い。
「送り主は?」
「搬送元は出鱈目な住所でした。ただ、送り主の名前はご丁寧にデカデカと書いてありましたよ」
「協会の秘匿された収容施設に送り込んで来るくらいです。さぞかし立派な名前が―――」
「国際生命科学同盟」
「……奴らか」
「小さく“極東支部”とも書かれていました」
たった二文字の自分たちの組織名よりも、本当に立派なその名前を聞いた佐伯は苦虫を嚙み潰したような顔になって敬語が外れてしまう。その名を告げた伊藤もどこかうんざりしたような態度を滲ませていた。
搬入口に辿り着く。
既に警備部門が現場に集まっていて、主任の退魔師主導の下で現場の調査と全ての搬入物の再検査が始まっていた。
外部から見るよりもずっと大きな地下に広がる倉庫空間には木材や樹脂を主流とした無数の箱が積み上がっている。
その中で、多少大きいだけの段ボールに厳重な警戒が敷かれているのを見ると何処かシュールな物を感じる。それは結界まで張られて、完全に周囲と遮断されていた。
だが、一瞬で緩まった気を引き締めて佐伯は職務を遂行する。
「―――開封作業を始めてください」
ガスマスクとインカムを付け、後方から指示を飛ばす。件の荷物に向き合う防護服姿の実働班が応答して、表面のテープ一つ破らない慎重な開封作業が始まる。
霊素、魔素、神力、放射線量、有害化学物質濃度、温度、音波―――作業中の全てがモニタリングされている。勿論、映像もだ。
今のところ問題は無い。
そして、実働班に取り付けられたカメラを通して佐伯は遂に箱の中身と対面する。
「これは……」
それは、低温状態で冬眠のような状態に置かれ、コンパクトに収まった生命維持装置に繋がれた後に実体1115とナンバリングされることになる少女だった。
実働班は少女の他に、段ボールの中に協会に向けて宛てられたと思われる手紙形式の文書も発見した。
各種安全検査をパスして、それは直接佐伯の下に送られる。
「……」
以下に佐伯が確認した内容を記す。
『―――拝啓、我らが戦友の協会諸君、如何お過ごしだろうか。
こちらとしては、そちらで管理している成果物の幾つかを返却願いたいのだが、まあ今日はその話はよしておくことにしよう。
今日は真面目で優秀な君たちに頼みがあるんだ。私たち国際生命科学同盟極東支部は、かねてよりとあるプロジェクトを進行中でね。実現すれば日本中どころか世界中の子供たちや大人だって喜ぶような物さ。
誰だって一度は考えたことがある筈だ。『画面の向こうのあの子と触れ合いたい!!』ってね。私たちもロマンを追求している者だ。気持ちは痛いほど分かる。
だから作った。流石に画面の中から直接取り出すことは出来ないが(それが出来そうな技術者集団には心当たりがあるが)、それなら現実で作り出してしまえば良いじゃないかってね。
丁度ニーズに合わせて、絶賛テレビで活躍中の魔法少女番組の主人公たちを計画1号として開発中なんだが、君たちに送り付けたそれは試作品の失敗作でね。
現実に合わせた容姿の適応と記憶の植え付けには成功したが、如何せん能力の再現が難しい。此方と協定を結んでいる本物の妖精たちにも相談したが、やはり現実はアニメのようにはいかないらしい。
“建造物と人間は傷つけず、特定要素のみを破壊する光学兵器”の開発には、機械弄りが得意な友人たちにも話を付けてみるつもりだ。
だから、その“試作:マジカルピンク”は人体に光学兵器としての機能を備えさせる実験で生じた、本当に完成品には程遠い初期の試作品なんだ。正直手に余る。プロジェクトの管理者から、これ以上の被害を出すなら放棄するか処分するかの二択を言い渡されてしまった。
だが、可愛い女の子を殺せるわけがないだろ? だから、君たちに任せることにした。
我々に関する記憶だけは事前に脳細胞単位で除去しておいたから、その子から情報を抜き出そうと企んでも無駄だと思ってくれ。
それでは、人類の先鋒を担うご同胞としてお互いに今後益々の繁栄を願いましょう。
「…クソ共が」
たった今仕事を増やし、これまでもこれからも彼の仕事を増やすのだろう傍迷惑な団体に向けて佐伯は憎悪の念を吐く。
この手紙が重要な調査対象でなければ、この場で握り潰しているところだ。
「…主席研究員、どうしますか?」
「取り敢えず、“アレ”を鎮静状態のままレベル4の空いている収容室に移送してください。担当する人員にはくれぐれもアレを見掛け通りの少女だと思わないように、少女の姿をしたビーム砲だと念頭に置くように伝えてください」
「分かりました」
佐伯の指示を聞いた伊藤以下、彼の部下たちが着々と動き始める中で彼は溜息を吐いた。
それは常識から外れた怪異として生み出されても、少女の姿をしたモノに対する扱いへの気後れであったのかもしれない。
はたまた、これからまた忙しくなるスケジュールを憂いてのことだったかもしれない。
ただ、一つ確かなのは、
―――この仕事に携わってから、佐伯が溜息を吐かない日など一日も無かったことだけだった。
だが、佐伯が溜息を吐く日々は唐突に終わりを告げた。
レベル5に封印されていた怪異が、それまで観測されていなかった未知の能力を実験中に発揮して小規模の脱走を引き起こしたのだ。
彼の頭は噛み砕かれ、当該インシデントで失われた50の命の一つとして墓碑に名を連ねることになった。
彼の最後の功績は、怪物の未知の能力を暴いたことになった。
実体1115の担当者は人員の繰り上げで、佐伯の助手だった伊藤に移動した。同時に、彼女は主席研究員に昇進した。
何も嬉しいとは思えなかった。
伊藤は自分が助からないと悟った佐伯が彼女を突き飛ばし、そして目の前で隔壁が閉まって上司と化け物を閉じ込めた瞬間を見ている。
「…………」
それから、伊藤はその化け物を殺害する手段を模索するようになっていた。
コストの問題、手段の問題、もっと面倒なしがらみの問題―――そういった事情で、協会は本来殺すべき存在を生かして捕らえておく必要がある場合が生じることがある。
伊藤の勤める収容施設226も、その役割を担う一角だ。
だからそれがどれだけ危うい存在であっても、本来なら独断での対処など許されない。
だが、そんな規則は彼女の中でどうでも良くなっていた。あの日、隔壁の向こうに上司を置き去りにして1人生き残った時から伊藤の行き着く先は決まっていた。
彼女の視線の先に、実体1115の示唆されている未確認の能力についての報告書が置かれていた。
《警告!警告!レベル5で異常発生!怪異が脱走した可能性があります!非戦闘員はシェルターに避難、全退魔師及び戦闘可能要員は戦闘態勢に移行してください!》
別に伊藤が何もしなくても、いつかあの化け物はあの地獄の蓋を抉じ開ける。そんな確信が彼女にはあった。
だから、第一封鎖線の退魔師と武装警備隊が血祭りに上げられても彼女は驚かなかった。
「グルァアアアアッ!!!!」
「ははっ…」
寧ろ、わざわざ相手が確実に自分に気付くまで待って、挑発するように白衣をはためかせながら逆方向に逃げる。
突進して追いかけて来る屍肉の塊のような化け物を連れて、彼女はあらかじめ開けておいた通路の隔壁を通り抜ける。
レベル4。
化け物の方が動きは早かったが、どちらにしても目的地はそう遠く無かった。
伊藤にとってのメインイベントは鬼ごっこではないのだ。自分が生き残ることでもない。協会の構成員らしく、この状況を鎮めることでも無かった。
上手くいけば、これで願いは成就するだろう。
彼女は収容室1115の扉の前に佇む。
「……私が1人で生き残りたくなかったことぐらい、気づけよワーカーホリック」
勢いの付いた怪物が研究員の身体をミンチにしながら噛み千切り、そのまま止まることが出来ず壁と鋼鉄の扉を粉砕する間際、監視機器はそんな音声を記録していた。