見える私と認識阻害型彼女   作:廃棄された提言

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閑話: ある何でもない日常/非日常

「ジーーーッ」

 

「……」

 

「ジーーーッ!!」

 

「…」

 

「ジィイイイイイイッ!!!!!」

 

「あぁ、もう……何ですか、怜南?」

 

 ―――犀慶学園高等部3年4組のクラスルーム。

 

 自分の席で黙々と昼食を取っていた澄香だったが、隣接する位置からの擬音付きの激しい視線がいい加減に目覚まし時計の域に達しそうだったので手を止める。

 

 神坂怜南。

 

 澄香の隣の席のクラスメイトで、転校生という事になっている澄香が同級生の中で最初に出来た(取り戻した)友人だ。

 

 そんな彼女は現在、どこか含みのある視線を隠すことなく積極的に誇示し澄香に向けている。

 

「“何ですか?”じゃないよ! 見るからにどうかしちゃってるのはそっちじゃん、澄香!」

 

「………そうですか?」

 

 怜南の指摘には、実のところ心当たり()ある。

 

 ―――エリア7291“懐かしの遊園地(無力化済み)”

 

 個人的感情で仕事を疎かにすることは無いが、あの放棄された遊園地施設での一件以降、心中にしこりが残っているのは確かだった。

 

 仮初で、今や正しい意味では存在しない両親を象ったナニカであると理性では理解していても、幼くされた情緒に対してあの光景は中々消えない余韻の尾を引いている。

 

 協会のカウンセラーからは忘却剤の自己服用を打診されたが、澄香はこれを断った。

 ……それは甘えであり、逃避でしかないから。

 

 

 目を逸らすことでは本質的に何も問題は解決しないのだと彼女は知っている。回り道をしようとも最終的には向き合って、それを乗り越えなければならないと澄香は考えている。

 

 

 一方で、その内心を露骨に表に出したりなどはしていない。

 

 ……よく接する友人であることを前提にしても、怜南が異変を察知するに至った切っ掛けは分からなかった。

 

「先輩さんと喧嘩、しちゃった?」

 

「……」

 

 今度こそ澄香は沈黙した。

 

 怜南には協力者である“友人”のことをバイト先の先輩として伝えたことはある。

 

 それ以上に真偽に関わらず新たな情報を付け加えたこともない。“友人”が印象に残っていただけかもしれないが、如何せんその一言は正解に近い位置を掠めていた。

 

 思わずヒヤリとした感覚が背筋に走るほどに。

 

 ―――以前から(・・・・)そうだ。時として彼女は侮れない。妙な勘の冴えや間の良さ(悪さ)を発揮することがある。

 

「喧嘩……というか、一方的に私が気不味くしてしまって。

 ………バイト(・・・)でのミスで、思わず八つ当たりしてしまったというか。

 相手からはとっくに許して頂いているのですが、私が自分の事を納得出来ずにいるんてす」

 

 だから澄香は否定することなく、寧ろ一部真実を交えて納得のしやすい結論へ誘導した。

 

 実際、それを聞いた怜南に訝しむような様子はない。

 彼女は真剣に、打ち明けられた友人の悩みを解消しようと思考を巡らせている。

 

「―――それで、澄香は今のままは嫌なんだよね?」

 

「えぇ……まぁ、はい」

 

 ただ、こればっかりは時間が解決するしかないのだと考えている。

 

 全ての物事は方法さえ分かれば一瞬で解決出来るものではない。所要時間は確固たる物として存在している。

 

 “友人”が一切咎めないことで宙に浮いてしまっている澄香の罪悪感も、時間と共にやがて問題なく受け止めることが出来るようになるだろう。

 

 …………だが、現状は決して快い物でないことも確かだ。

 叶うなら、願って良いなら、なるべく早くに以前のような関係に戻りたい。そう思っている。

 

「うん、なら私も手伝ってあげる!!」

 

「そうですか、それは有難……ん?」

 

 そんな風に思案していたからだろうか。澄香は怜南のもう一つの側面を忘れていた。

 

「任せて!ちゃんと二人っ切りになるタイミングも作ってあげるから!!」

 

「ちょ、待…!」

 

 行動力の権化。

 

 一度定めた目標に向け、道中の障害やその他のしがらみを気にせず突っ切る暴走機関車。やると決めたなら必ず成し遂げる。

 

 あぁ、それは確かに何処か足踏みしていた澄香にとってはグイグイと自分を引っ張ってくれる良いものであるかもしれない。

 

「屋内だから季節や気候に左右されない!やっぱり好みの分かれないデートスポットと言えば水族館だよね!!」

 

「待って待って待って待って………!!!」

 

 得難いチャンスのような、破滅への一本道のような。

 

 どちらにも思えてしまう、怜南が齎そうとしている“切っ掛け”を澄香は強く制止することが出来ない。

 

 そうこうしている内に機関車は力無くその肩に手を掛けた澄香を強引にズルズルと引き摺りながら出発してしまった。

 

 組み上がる予定、段取り。

 

 隠し切れない不安をそこに感じながらも、やはりどこか期待してしまっている澄香は最後まで十分にそれを止めることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 


 

キューッ!

 

…落ちないように

 

 頭の上にウサギ一匹分(より若干重い)の不可視の重量を抱え、翌日の肩の凝りを予見しながら私は待ち合わせ場所として指定された県内某所のショッピングモールに向かって車を走らせていた。

 

 普段は明夏羽が譲らないハンドルを、今日は私が自ら握っている。

 

 グチャッ

 

「……珍しい事もある」

 

 視界の端に写った赤色は別に珍しい物でも何でもない。俄かに脈動するソレは道路を行き交う車両に轢き潰され続けている。

 人体は法定速度を遵守した一般道路上の乗用車に打ち克てるものではなく、霊素を主体としたその実体は容易く死ぬことが無い代わりに脆い。

 霊的存在は死者の今際の際の情念、周囲からの認識により世界に存在を刻みつけられる。

 

 だが、特殊性の無いありきたりな交通事故など誰も気に留めない。そこに在るモノはただ理不尽に絶えた死者の情念が現世に残した影であるが、周囲からの認知度が低い霊的存在は通常一般人には観測されない。

 これは認識阻害などではなく、単純に“薄い”からだ。

 

 ガソリンエンジンの排気ガスより尚存在感が足りていない。

 

 透明人間は自己を意識出来るが、周囲からすればそうではないのだ。

 

 ―――結果として、無念と未練が辛うじて形を成しただけのソレらは誕生した位置からの脱出が叶わずアスファルトとタイヤに磨り潰され続けている。

 存在が曖昧である為それで死=消滅に通ずるダメージを負うことは無いが、恐怖と苦痛は真実だ。人体の九割九分を潰されてもアレらは意識を失えない。最早、そういう生物と成っているのだから。

 

 恐怖と苦痛の感情が霊の自意識を確立する為、アレは自然成仏することが無い。

 

 まあ、よくある事例だ。

 稀に協会の退魔師に発見され、事故処理を装って道路から連れ出されることで無間地獄から解放され成仏することがある。

 

 

 話を戻すが、“珍しい事”とは今回受けた誘いだ。

 

 ―――『クラスメイトからの誘いで…今度の休日に一緒に遊びに行きませんか?』

 

 これを言ったのが澄香であるというのだから、人間は枠に収まらないものだと常々思う。

 生き物は発生から広く伸展する。

 

 後天的に身に付けた規範であるとは言え、澄香は理性的な焦りを抱えている。自身のキャパシティを見極めて、その範疇で無茶ではない無茶をよくする。安穏や怠惰は彼女の内から積極的に排除され続ける概念だ。

 

 理由は単純に、現実を歪める狂気がいつ近づくとも分からないからだ。

 

 ……私からすれば「何を今更?」な警戒だが、人々が何を失って何が起きているか気付けずにいる内は、それでも平穏で正常なのだろう。

 私も多少はソレらを見咎めるようにはなっている。近付くまでもなく常に全てに存在しているソレらの何もかもを対処することはせず、人間に認知され“問題”となったモノかつ彼らから直々に依頼されたモノだけを対処するようにしている。

 

 澄香は協会内でも経験豊富な人材に分類出来る。

 

 見て、知って、立ち向かい、敗走し、恐怖し、生き延び―――そして、見落とすことを恐れるには十分な経験を積んでしまった。

 

 トースターに人を殺す意思と力があると知り、押し入れやベッドの下に本当に何かが潜むことがあるのだと実体験してしまっている。

 放置していれば、大根による殺人事件も起こりかねない。此処はそういう世界だ。

 

 澄香の能力は協会からしても貴重な代物だ。出来れば、そうそう現場になど送り出したくはないだろう。だが、その保管を許してくれるほどこの国の退魔事情は明るくないし、本人の意志も固い。

 

 何度周囲から忘れられようが、元の位置に変わらず戻るのもそうなのだろう。

 逃げる事無く、向き合い続けることを選ぶ。

 

「―――それを踏まえて、今回のこれだ」

 

 車線を変えて淡い霊素の肉片のペーストを避ける。敢えて踏みつけにするものでもない。

 

 澄香の事は、良い変化…ではあるだろう。私は当たり前と呼べるモノ―――ベースラインを意識した結果のこの有様だが、あの子は自ら日常と呼ぶべき物を多く手放してきている。

 調査だのと理由を付けずに娯楽に関わることも彼女の両親の一件以来無かった。

 

「……だが急な変化には理由がある。やはり、あの子が押し切られるとなれば―――」

 

 クラスメイト。

 

「神坂怜南、か」

 

 

 

 

 

 


 

 4階建てでそれなりに大きなショッピングモール、昼には程遠い午前のフードコートは閑散としていて、そこには休日を過ごす2人の女子高生がいた。

 

「………」

 

 逃げたい。

 

 これは戦略的撤退であると自分に言い聞かせようにも、前回の汚名返上に励む澄香の理性はそれが不安による目的無きただの逃走であると断じている。

 

「先輩さん、もうすぐ来るね~♪」

 

 何より、澄香は逃げようにも目の前の友人の監視があった。怜南は今日の事の発案者であり計画者である。

 

 その気になれば、能力を使うまでもなくその視野から抜け出す事が出来るだろう常人。

 ……その筈だが、いつも通りの快活な笑顔の奥から発せられるオーラが警告しているように思えてならない。

 

 頭を抑えられたような気になって、この場を離れる気概が削がれる。

 

 ―――そんなこんなとしていると、澄香の懐で携帯端末が震えた。

 

《prrrrrr………》

 

「あ……もしもし」

 

《澄香か。駐車場に入った。君と友人のいるフロアに向かおう》

 

「それなら、2階フードコートの東側の一角です。時間帯のため空いているので、見つけるのは容易いかと」

 

《把握した。では、直に直接会おう》

 

 通話が切れる。これで完全に逃げ道は無くなった。

 

 緊張に溜息を吐きたくなる澄香を、向かい合う席の怜南はどこか楽し気に見つめている。

 

「むふふ…♪」

 

「……何です?」

 

「ううん。何でもなーい」

 

「『何でもない』と言っている顔と視線ではありませんでしたよ」

 

 含みの有る笑みと視線、それは決して不快なものではない。不快ではないが、気にはなる。

 

「う~ん…教えて欲しい?」

 

「教えなさい」

 

「あはは、澄香ってばホントに気付いてないんだね!」

 

 カシャリと鳴るシャッター音、見れば怜南の手元で端末のカメラがフラッシュを焚いていた。

 

 訝しむ澄香に、怜南は今撮ったばかりの写真の写る画面を見せる。

 

「―――澄香、すっごい嬉しそうにソワソワしてて可愛いんだもん!!」

 

 そこには落ち着きのない様子を見せながらも、隠し切れず口角の上がった少女の姿が―――

 

「見つけた」

 

「ひゃい!?」

 

「あ、おはようございまーす!」

 

 それが自身のモノであると思い至ると同時に、澄香たちの背後から1トーン低い声が響く。気の抜けていた澄香の喉から変な声が漏れ、位置的に相手の接近に気が付いていた怜南は元気よく挨拶する。

 

「初めまして、私は澄香のバイト仲間であり個人的な“友人”だ。今日の立場は後者の意味が色濃いだろうね」

 

「神坂怜南です! 今日は運転よろしくお願いします!」

 

「君が神坂君か。澄香から聞いていた通り、元気な子だ」

 

 白い肌に艶の無い黒い髪、灰色のトレンチコートの麗人―――“友人”。一応は初めて会ったことになる何処か独特な雰囲気を漂わせる相手に、怜南は物怖じせずに話しかける。

 

 一方で澄香は動揺している所に想定外の衝撃が加わったことで、一時的に思考がショートしていた。

 

「お、おはようござい、ます……」

 

「おはよう、澄香。……顔を押さえていることについては、指摘しない方が?」

 

「既に指摘してるようなものじゃないですか…うう…」

 

 自分の表情のコントロールに自信が無くなった澄香はただ顔を俯かせる。

 

 その頬に少しの熱を感じていたこともまた、相手に見せたくない点であったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


 

「―――午後までは水族館で、帰り際に綺麗な砂浜に寄り道出来るルートなんだよ! それじゃ、今日一日よろしくお願いします!!」

 

「はいはい、シートベルトは締めるように」

 

キュー…?

 

 若干警戒しているのか、コユキはコートに備え付けられたフードの中で丸くなって不思議そうに初対面の少女のことを見ている。首の後ろに重みが有る。

 お蔭で、下手に背もたれに体を任せる訳にはいかなくなった。

 

 やはりと言うべきか、今日の件は神坂怜南により主導された物だった。目的地は、この場所から車で20分ほどの場所にある水族館である。

 

 澄香は彼女と良い友人関係を結んでいるらしい。

 

 同乗者二人がシートベルトを着用した事を確認し、ドアをロックして車を発進させる。

 

「……あの、直前になってしまったのですが、水族館は嫌いとかではないですよね?」

 

「嫌いではないね。熱烈に好きというわけでも無いが、好ましいと言って良いだろう」

 

「……良かった」

 

 私の応答に澄香は安堵の息を漏らす。

 

 私の趣味は読書と散策だ。頁の上を這い回る文字を捉える事は良い脳トレになるし、瞳を閉じて行き当たりばったりの旅に出てみることも中々に刺激的だ。

 

 だが、各地の水域を切り取り集めたあの空間も面白いことには変わらない。

 

 ベチャッ

 

 反対車線を走るトラックの回転するタイヤから淡い肉片がフロントガラスに少し飛び散って来た。暫し考え、何とはなしにワイパーを一度だけ起動する。

 

「……!」

 

 澄香は何かに気付いたようだが、一般人の同乗者もいる手前敢えて指摘することも無かった。そもそも、訓練により鍛えられているが彼女のベースラインから外れた物事を知覚する素養はあまり高くない。明確に、何が起きたのかは分かっていないようだった。

 

 頭の無いカラスが道路の上の死んでいない残骸を気に掛けて静かに集まって来ている。

 鳴く喉が無く、考える頭が無く、見る眼が無く、嗅ぐ鼻が無く、聞く耳が無い。

 そういう存在は、他の感覚が際立って発達するか全く違う能力―――所謂“第六感”を芽生えさせることが多い。

 普通なら見落とされるべきあの低い等級の霊たちを、あのカラスたちは確かに知覚している。

 

 頭の無いカラスたちは、一般に認知されないだけで歴とした炭素生命である。霊素を摂取する素養は無い筈だから、新鮮な血肉の気配に思わず集まってしまっているのだろう。

 

 それが食用に適さないと理解すれば、アレらは散開していく。

 

 

 そんな、いつも通りの道路の上を車は流れ続けた。

 

 

 

 

 

 


 

 鈍色の瞳が水槽を静かに見つめている。

 

 “友人”が水族館に関心が有るというのは気遣いではない確かな事実であったようだ、と澄香は改めて安堵する。だが、その一方で“友人”が展示物に奇妙な関心を抱く瞬間もまた見逃さなかった。

 

「……」

 

 近くも遠いその人の視線の先には、気ままに水槽を漂うクラゲの姿があった。澄香は相手が見ている対象よりも、寧ろ“友人”のその姿を気に掛けていた。

 

 ……此処ではない何処か、あるいは自分にしか見えない何かを見ているような瞳。

 

 いつもの如く、尋ねてもその内情が全て明かされるとは限らない。だが、やはりいつものように聞かずにはいられなかった。

 

「…クラゲ、お好きなんですか?」

 

「クラゲに限ったことではないけどね。私は、大抵の物事に嫌悪を抱くことが無い。

 ―――ただ、特に印象深い思い出のある対象もあるという話かな」

 

 それ以上のことを相手は打ち明けることは無かった。

 

 似たような事は他にも幾つか起こった。

 

 オオカミウオ、チンアナゴ、ウツボ、オウムガイ、イセエビ、カワウソ、アザラシ…。

 

 一見して繋がりは見出せない。

 

 特に水槽内を回遊するアザラシと20分近く話し込む(・・・・)ような素振りを見せたことは特筆に値するだろう。

 

「――、―――」

 

 音にもならない吐息のような発声で鰭脚類と向かい合う“友人”、その姿を不思議そうに怜南が眺めていたのには少しヒヤッとした。

 

 今更過ぎるが、友人に対して忘却剤を使うような真似はなるべくなら澄香はしたくなかった。

 

 

 

 昼時、3人は館内のやたら単価の高いレストランに入っていた。鯨カレーやクラゲアイスなど、水族館らしいラインナップがメニューに並んでいたが、やはりどれも高い。

 

 少し悩んでいる未成年2人に向けて、ひらひらと残る1人が白い手を振った。

 

「―――好きな物を食べるといいよ。流石にこればかりは年長者として奢らせておくれ」

 

「やった!! ごちになります!」

 

「…ありがとうございます」

 

 相手の隠れた財力を知っている澄香はそれでも遠慮してパスタを一品頼んだだけだったが、怜南はちゃっかりデザートまで頼んでいた。

 澄香が机の下で彼女を咎めるように小突くと、反撃に転じた怜南は澄香の耳元で囁く。

 

「今なら“あ~ん”が出来るよ?」

 

「………」

 

 澄香は今度こそ色ボケの頬を抓った。

 

 

 

 

 


 

 食事後、イルカショーがあると言うことで私は若い2人に先導されてその後を付いて行っていた。

 

「……」

 

 改めて水族館のパンフレットを見ても、イルカを飼育するスペースもショーを披露するステージも存在していないことを指摘するのは、この場合野暮になるだろうか。

 

 ……まぁ、危険はない。指摘するのはやはり野暮だろう。

 

 悪意、敵意、殺意、憎悪、恐怖、死臭。加害者ないし被害者の痕跡はそこには無い。

 

 スタッフも他の来館者も、存在する筈の無い区画が発生していることに気付いていない。だが、改めてそこに危険は無いのだ。

 

 施設が未知の材質で作られているわけでも、悪意の有る構造を為しているわけでもない。

 

 試しに現れたステージの壁をコンコンと叩く。しっかりとした基準に適う素材で、石膏のようにボロボロ零れていくようなこともない。

 

 ステージに入場する際に配布されていた個別のパンフレットを見る。登場するイルカの種類とそれぞれの名前や性格などが載っているソレの表紙に名称が綴られていた。

 

 ―――“放浪滞在イルカショー!! あなたの街にもイルカが来る!?”

 

「…何かありましたか?」

 

「先輩さーん? どうかしたのー?」

 

「……いいや、何でもないよ」

 

 これは無視しても問題ない物だ。敢えて流れに逆らいそれを阻むことはせず、そのまま流されていくことにした。

 

 

 

 

 バンドウイルカがビーチボールでハットトリックを決めた光景には流石に満足するしかなかった。

 

 

 

 

 

 


 

 ―――日が傾き始め、そろそろ帰ろうかという時刻

 

「ごめん! 急に用事が入っちゃった! 私はここから自力で帰るけど、2人はちゃんと海岸も楽しんでね!」

 

 怜南は一足早くに離脱する。だが、これは予定通りだった。

 

 グッと親指を立てた拳を小さく突き出す怜南を前に、澄香はいよいよ覚悟を決めなければならないのかと焦りと緊張を高めていく。

 

 帰りの車は2人きりだ。たった1人の空白が、それがこの状況を仕組んだ相手だとしても今の澄香からは少し心細かった。

 

 何かを話そうかと考えて、結局何も出て来ないまま水族館近くの海岸に到着する。だが、そんな内心は車を降りて西の空を見ると平静を取り戻した。

 

「あぁ……これは確かに、綺麗、ですね」

 

 ちょうどオレンジ色の夕日が沈んでいく水平線から、光で出来た橋のような輝きが海面を伸びている。

 

 遠くに見える黒い船影もまた、風景の中の一要素としてよくマッチしていた。

 

 それは晴れていれば、この時期なら、この場所なら、この時間なら―――そんな、決して難しくない条件さえ揃えば幾らでも目にすることの出来る風景だ。

 

「……」

 

 だからこそ、この日常を脅かす存在を多く知っている澄香はこの景色が儚く尊い物に見えてしまうのだろうか。

 彼女は暫くその風景に見入る。

 

 そんな澄香の隣から声が掛かった。

 

「今日はありがとう。私も楽しめた」

 

「!…いえ、計画は怜南が立てましたから」

 

「だが、彼女は君の為に計画を立てたのだろう? なら、それに肖った私はやはり君に感謝しなければならない」

 

「そう……ですか」

 

 傍らに立った白い横顔は夕日に照らされても無色を保っている。長い黒髪に光が介入する余地はない。鈍色の瞳は沈みゆく陽光を睨んでいた。

 

 澄香は改めてそれと向き合う。

 

「あの……」

 

「ん?」

 

 言わなければならないと思っていたことはある。それは謝罪を筆頭とした幾つかの文言の連なりで、でも結局それは独り善がりで、そんな物を相手は求めていない。

 

 だから―――

 

「……これからも、よろしくお願いします」

 

「…嗚呼、此方こそ」

 

 やっと元の位置に収まったような安心感が澄香の胸に宿る。波の打ち付ける音が鳴る中、夕焼け色に照らされた彼女の表情は気負いなく綻んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以下は余談である。

 

 

 

 ―――夕暮れに背を向けた2人の帰路の途中

 

「……気付いてますか?」

 

「君が気付くかどうか、様子を見ていたと言うべきだろうね」

 

 40km毎時で固定された車はトンネルを走り続けている。かれこれ45分もだ。

 

「往路では確実にここまで長大なトンネルはありませんでした。それに―――」

 

「対向車も後続車も先行車もいない。私たちだけを現実から切り離した異空間系の基準外事象だろう」

 

「……怜南が先に帰っていたことが幸いですね」

 

 澄香が助手席から車のナビを操作するが、やはり地図も信号も全く機能していない。

 

 トンネルに終わりは見えない。

 

 一般人であれば、どうして良いか分からずパニックになり始める頃合いだろう。だが、此処にいるのはいずれもそういった異変に対するエキスパートである。

 

 まず、退魔師である澄香が協会本部との連絡を試みて繋がらないことを確認する。隠し持っていたナイフと拳銃を取り出した彼女は前方を相方に任せて主な注意を後方へ向けた。

 

「……どうしますか? 何か出てくるなら兎も角、このまま何の変化も無くただこの空間に閉じ込められたら」

 

「何某かが出てきても、それはそれで厄介な物だと思うがね。取り敢えず、此方の時計が夜明けを刻むまではアクセルを緩めるつもりは無いかな。

 捕食性領域なら、車を停めて降りたタイミングを狙ってくるだろう」

 

「……分かりました。判断は任せます」

 

 弾倉内の弾を確認し、スライドを引いて初弾を装填する。当然、弾丸は特別性だ。協会から支給されている黒色のそれの原理は澄香にもよく分かっていないが、幽霊のような非実体に対しても透過を許さず貫通による破壊を齎すことが出来るのだと言う。

 

 非常事態……休日の帰り道でまた碌でもないことに遭遇してしまったと澄香はしみじみ思う。

 

「ですが―――」

 

「だが―――」

 

 トンネル内の照明が明滅し、やがてショートしたように落ちる。暗闇の中で前照灯が自動で起動し、何かの影が照らし出され始める。

 

「「問題は無いでしょう/だろう」」

 

 車内には怪異の期待する恐怖や絶望など存在していない。

 

 退魔師とその“友人”にとって、非日常とは単なる日常の一部でしかないのだ。

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