見える私と認識阻害型彼女   作:廃棄された提言

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発狂者 狂信者 狂人

 漂っている。何かの目的があるわけではないから、その浮遊は漂流だった。

 

 何かに任せ、風の吹くまま、水の流れるまま、時の過ぎるまま、―――偶然か必然か、そうしていれば軈て何処かに辿り着くものだ。

 

 瞳を開く。こじ開けられる。自分の意思で。

 

 そうやって視界に映るのは、やはり死に行く何かだった。

 

 そうだ。

 

 ―――死体が、燃えている。

 

 

 

 

 

 


 

あぁああああああああッ!!!!!!

 

 拒絶の本質とは、何だろうか。

 

「――押さえて!!」

 

「いッ!? 噛んだ!!」

 

 ただの癇癪で、目的など無い? それはあまりに表面的な見方ではないだろうか。

 

 目的、原因―――どうして?何の為に?

 

ア゛ァッ!!

 

「クソ、鋏を持って――」

 

 攻撃……確かに。

 

 では何故、攻撃を手段として用いる?

 

 肉食動物なら、食べる為に他の動物を攻撃する。それと同じく、攻撃という結果の発露には目的ないし原因があるのではないだろうか。

 

「新島が刺された!!」

 

「押さえ込め!!」

 

 接触を拒絶し、理解を拒絶し、殻に籠る。

 

 ……やはり、それは防御なのではないだろうか?

 

「この…ッ!!」

 

ギャァアアアアアアアッ!!!

 

 暗闇で誰かが手を伸ばしてきたとして、それを救済と捉えるか侵襲と捉えるか。

 

 夜道で声を掛けられる。昼間に声を掛けられる。

 

 “分からない”は容易く恐怖を生む。恐怖は自信と他者への信頼、総合的な判断力を侵す。

 

「足りない!! もっと鎮痛剤持って来い!!!」

 

アァアアアッ!!!アァアアアアアアアッ!!!

 

 その少年の場合は、分かりたくなくて(・・・・・・・・)―――

 

「もっとだ!! さっさと眠らせろ!!!」

 

 周囲の人々は、分かろうとしなかったんだろう。

 

 

 分からないモノを分からないまま、未知として遠ざけておくことは確かに一つの解決策ではある。

 だけど、それが目の前に出てきてしまっているなら、理解しようとする姿勢を放棄することは許されない。

 

「―――化け物(・・・)め…ッ!!!」

 

 間違った結論が、とんでもない結果を招くこともあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 


 

 只野澄香はギプスの嵌った左腕を撫でながら、ヒラタマンション507号室のベランダから外の景色を眺めていた。その顔は半分ほど包帯に巻かれている。

 

「すまない。蛇が出た」

 

 彼女の隣で“家主”はそう言い、何も入っていないバケツを逆さにして柵の外に向け振っていた。あたかも、その中に入っている何かを地上に捨てるように。

 

また(・・)ですか?」

 

 好奇心。

 

 退魔師として(現在は活動履歴を失ったが)幾らかの狂気や怪異に触れてきた澄香であっても、そこには何も見出せない。

 

 霊と魔であるなら、澄香にも見える。だが、そうでない全く別の何かや必要な手順を踏んで呼び込まねばならない神仏のようなモノは知覚できない。

 

 例えば、澄香はこの部屋に居着く3体の家族の霊については見えているし、祓い対処することも出来るだろう。だが、玄関口での“家主”の奇行の理由を知ることは出来ていない。

 

「限られた人々しか知らぬ物事は、その限られた人々によってのみ管轄されるべきであるというのは君たち退魔師の理念では無かったか?」

 

「要は、教える気は無いと」

 

「いつものようにね。私を火を扱う術を知らない者に火を譲る事が齎す結果を知っている。

 私にとってコレらが現実であったとしても、君らにとって妄想の産物である内は敢えてその境界を乱そうとは思わない。尤も、自力で辿り着いた責任については私は何も言うつもりは無いが」

 

 ……世界が違う。

 

 一般人と退魔師がそうであるように、“家主”は退魔師からも理解し難い部分が多くある。無論、重なる部分もある。だけど恐らく、知ることのできない部分の方が広い。

 

 空。

 

 雲だけが浮かぶ何も無い空間をそれとなく流し見て、部屋の中に戻っていく“家主”。

 一瞬で、違和感を覚えるには足りない。けれど澄香は“家主”の視線を辿るように、注意を凝らして空を見た。

 

「………むぅ」

 

 やはり、何もない。

 

 果たして、何が見えていたのか。何が潜んでいたのか。そもそも、本当に何かを見ていたのか。

 

 分からない。自分はまだ、その視座に立つことが出来ていない。それは手を伸ばせば届くような物なのかさえ、分からない。

 

 深入りは厳禁だと分かってはいる。協会でさえ、現世に流出した怪異には積極的に対応するが、その元凶に近いと思しき幾つかについては慎重な態度を取る。

 

 それが穴なのか、泉なのか、扉なのか、ポータルなのか、巣なのか―――それに干渉した場合、何が起こるのかという結果がはっきりしない内は下手な手出しが出来ない。

 

 それと同じだ。

 

「……ですが、いつかは」

 

 “家主”の視点、“家主”だけが負う立場。いつまでも任せっきりであって良いわけが無い。

 

 いつかは、そこに誰かが辿り着く必要がある。いや、“誰か”では駄目だ。そんな気概ではいけない。

 

 自分が―――。

 

 

 

 

 

 


 

 二週間後、左腕以外は凡そ完治し顔の包帯の取れた澄香は復学の手続きを行っていた。まあ、実態は編入となる。そこは彼女の母校だが、もう同級生ですら彼女を知らないのだから。

 

 犀慶(セイケイ)学園高等部3年―――出席番号すら以前と同じ身分が程なくして手に入る。どういうわけか1クラスだけ、誰も理由を知らない空席があったらしい。無論、そこが澄香本来の居場所であったことは言うまでもない。

 

 このスムーズな事の推移には、関係をある程度復旧(・・)した協会との伝手がある。

 

 流石に全て元通りとはいかなかったが、不自然な記録や記憶の欠落は違和を唱えるのに十分である。そこから状況の輪郭を解析出来ないほど、国内の魑魅魍魎を相手にする組織は無能ではない。

 

 行方不明だの身元不明だの、協会(彼ら)はそういう事には慣れていた。

 

 何より、澄香にとってもこういったことは初めてでは無かった。

 

 もう何度もしている。

 

 最初は悪戯か間違い電話かとのらりくらりと相手にしない協会の仲介人を本気(・・)にするキーワードや話題の運び方なんかも、もう手慣れたものだった。

 

 彼女の能力による情報消失は、物理的にではなく概念的に彼女に近い部分から始まる。

 

 まず肉声、次に顔、更に名、姓、そして性別。

 

 誰かが、そこに人間がいたのだという事実はその次の段階から失われていく。

 

 外部の記録と他者の記憶は虫食い塗れになり、やがて完全に澄香の存在は消え去る。誰かに何かを書き残そうとしても、その紙は白紙となり何も書かれていなかったことになる。

 

 そして何も無くなる。

 

 取り戻すことは出来ない。協会が把握出来るのも“空白”だけ、失われたという事実を認識するだけであり、失われた物は戻らない。

 

「―――転校生を紹介します」

 

 ―――死んだモノが、蘇らないように。

 

 担任教師に呼ばれ、廊下から馴染みがあってそうではない教室に入る。物珍し気な顔で此方を見つめる、一方的に見知った顔触れ。

 

「只野澄香です。―――初めまして(・・・・・)

 

 自然な表情を繕う。これから席の位置を指示され、初めてのようにそこに座り、初めてのように隣席のあの子と話すのだろう。

 

 だって交友関係のある全員に送ったメールは、“家主”にしか届かなかったのだから。

 

 今更絶望するほど軟弱ではないが、何も思えなくなるほど感情が枯れたわけでもなかった。

 

 

 

 

 

 


 

 久々の正式な同居人のいる暮らしは、適格に表現するなら夏休みのような平穏を私に与えた。

 

 存在しない同居人たちも、彼女が自分たちの天敵であることを理解しているのだろう。3人の霊は形を潜め、我が家の問題は押し入れと天井と扉とキッチンと玄関と…………“だけ”と形容するには依然としてやはり多過ぎる。

 

 やはり、全てに対処することは私が言うのも何だが現実味が無い。

 

 ……現実味。

 

 これほど、私の日常にそぐわない言葉もやはり存在しないだろう。

 

《prrrrrrr……》

 

 電話が鳴る。固定電話は撤去した。前回と同じくそれは携帯に来た。

 

 以前に言ったかもしれないが、私の連絡先を知る者は限られている。それは澄香か、協会内の伝手か、あるいは―――

 

 受信ボタンを押す。

 

《協会からの指名です》

 

 女性にしては若干低いその声の中には、確かな畏敬が込められている。対して私はただ淡々と返すだけだ。

 

「場所」

 

《██県██市》

 

「状況」

 

《5歳の男児。症状は発狂。市立病院へ搬送後、協会が介入しましたが死者を出し、周辺を封鎖》

 

 短く要約された言葉は、余計な物を削ぎ落としている。一切の先入観や誤解を生ませず、ただ事実のみを述べる。肉付けのない、骨格のみで構成されたような文言。

 

「迎えを。そのまま向かおう」

 

《了解》

 

 そしてこれが、事故物件ながら私がマンションと契約出来ている理由でもある。

 

 要は稼業だ。人は自身の才を生かせる職を“天職”と呼んだりするのだろう?

 

 

 

 

 

 10分と経たず、1台のタクシーがマンション前に現れる。私は呼び止めるように手を挙げたが、実際のところその車両が私の前で止まるのは初めから決まっている。

 

 マスクをと帽子を付けた運転手の姿を、それでも私が見間違えることはない。

 

「―――どちらまで?」

 

 さっきまで電話越しに聞いていた声。そこに白々しさなど一切無い。

 

「██県██市、市立病院」

 

「分かりました」

 

 行き先を伝え、空調が快適温度を保つ車内に足を踏み込めば自動で左の扉は閉まった。

 

 車の内外が完全に遮断されるまで、彼女は完全なタクシー運転手としてのエミュレーションを崩さなかった。

 

 ―――陶島(スエジマ)明夏羽(あげは)

 

 私の運転手であり、連絡の仲介人であり、部下であり―――まぁ、役割の多い人間である。

 

 特にこれといって霊感だのが無い反面、様々な技能を身に着けている。何らかの仕事を頼めば、それがどんな業種であれ熟してしまうほどに。

 

 だから運転中だろうと、彼女は聞けば私の欲しい情報を問題なく掲示してくれる。

 

「子供は孤児なのか、それとも親がいるのか」

 

「父親は自殺したそうです。母親は現在心神喪失。そして子供が移送された病院で問題が起きました」

 

 運転しながら明夏羽は器用に後部座席の私にファイルを手渡してくる。

 

 事件記録。

 

 患者名は野田(ノダ)一樹(かずき)、身体には異常が確認されないが常識では説明できない奇行を繰り返す5歳児の診断書、子供を殺そうとして鎮圧された看護師、主治医の失踪、男児に対して鎮静剤の過剰投与を病院側が意図的に引き起こし………

 

「その結果、関わった医療関係者5名と近くにいた患者の3名が発狂、内7名は既に死亡、その異様さから協会の知るところとなりました」

 

 怪異認定が為された事件に対しては、その程度にもよるが協会は強権を発揮して介入することが出来る。

 

 協会は悪霊や神道、仏教などに明るい専門の祓い屋を送り込んだ。

 

「そして大半が何も見つけられなかったばかりか、逆に見つけられて持って行かれた(・・・・・・・)らしいです」

 

 添付画像を見る。そこには随分と鮮烈な末路が浮かんでいた。事件発生からそう時間は経っていないが、この短時間でよく纏められた資料だ。

 

 眼球を喪失した祈祷師、護摩の炎に飛び込んだ坊主、内臓を口から吐いた霊能者―――

 

「良い趣味をしている」

 

「そうなんですか?」

 

 私の呟きに、彼女は冷静に疑問を返す。

 

 社会的道徳に当て嵌めれば、忌避されるべき冒涜とも言うべき私の発言自体はすっかり受け入れてしまっていて、それはそれでと単純に発言の意図に興味を抱いている。

 

「さて、君にとって合うかは分からない。感性は常に人それぞれだ」

 

 死はいつだって人を惹きつけるが、その人間独自の印象深い死に様というものがある。

 

 磔刑であり、斬首であり、火炙りであり、切腹。

 

 結末は変わらない。死は死だ。しかし、その過程によって結末を装飾することが出来る。

 

 これらには努力の痕跡がある。

 

「……そうですか」

 

 不満気に明夏羽は引き下がる。

 

 私に対する不満ではない。自分の至らなさであると判断した物事に反省しているのだ。

 

 もし私が、彼女の疑問を素直に肯定していたなら、彼女はそれに順応出来るように自身の趣味趣向を調整してしまえるだろう。それは一種の人格の改造である。

 

 私はそれを望まない。それを許せば、私は最終的に明夏羽を無意味な死へと追いやることになるだろうから。

 

「宗教家に原子炉の修理は出来ないというだけの話だね、今回の惨状は」

 

「なるほど」

 

 ……陶島明夏羽という数奇な人間を敢えて一言で表すなら、

 

「勉強になります」

 

 ―――狂信者、というが一番しっくり当て嵌まることだろう。

 

 

 

 

 

 


 

 バイオテロでも起きたのかという様相の市立病院に、1台のタクシーが検問をパスして入場してくる。

 

 実際、そこでは無関係な周辺住民や、真実を知る必要が無いとされた道路封鎖のみを担当する警官などには“未知のウイルスの蔓延”というカバーストーリーが流布されていた。

 

 当たり前だがタクシーから運転手は降りず、乗客のみがその黄泉路の入口に足を踏み込む。

 

「先輩!!先輩ッ!!小野田(オノダ)さんッ!!!……クソッ…何で……!!!」

 

 簡易的に整備された屋外の医療テントの中で、血塗れの退魔師の肩に縋る青年。脇の心電図は既に波の無い水平線を描いていた。

 

 遺体は死体袋に詰められると札を貼り付けられ、死体安置所になっている別のテントに運び込まれていった。

 

 全てのテントは此方(・・)彼方(・・)の境界を明確にする注連縄に囲まれ、ペタペタと夥しい枚数の札が貼り付けられ壁としている。

 

「―――心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想……」

 

 大量に汗を流した坊主が円を成すように歩きながら、一心不乱に浄化の経を唱えている。よく見ると目が潰れており、耳からも血を流している。手指についた血から考えて、自分で眼球と鼓膜のどちらも潰したのではないだろうか。

 

 ガシャンッ………グチャ

 

 病院内で行方不明だった神使は、たった今3階の窓ガラスを突き破って頭から地面に落ちた。気のせいでなければ、(はな)から頭部を完全に破壊するために宙へ躍り出たように見える。

 

 もう何も記憶したく無かったのだろうか。

 

 神聖な知識を収めていた筈の頭蓋が砕け、ピンク色の脳髄が地面に飛び散る。誰かが息を呑み、誰かが悲鳴を上げる。

 

「……」

 

 タクシーの乗客は黙して周囲を睥睨した。

 

 赤い。瑞々しい、新鮮で生温かな死で溢れた空間。あからさまに陰惨で、理解し難く、どこか神秘的な美を隠し持つ。一側面から見れば、そこは戦場と呼べる。

 

 近年稀に見る光景だ。だからこそ、“乗客”が呼ばれたという側面もあるだろう。

 

 この場にいる人間は例外なく戦士で、そして敗残兵だった。

 

 此処より確実に悲惨でマズいことになっている最前線の病院内には最早誰も立ち入ることが出来ず、安全であるべき後方でも死者を出している。

 

 一方的だった。

 

 中世ヨーロッパの戦場に現代兵器で武装した軍を飛び込ませるが如く、蹂躙される側は訳も分からない。

 

 実際、本来の怪異と人の関係とはそういうものである。理不尽に神隠しに遭い、理不尽に魂を奪われ、理不尽に亡骸とも呼べない物にされる。

 

 だが、だからこそ退魔師は存在し、彼らはこういった物事に対応できる。……その筈だった。

 

 皆、蹂躙された。ただ、為す術無くその異災に取り込まれた。

 

 誰かが窓から人々を見ている。誰かが本来の白を穢れた赤で染めた病院を楽しそうに駆け回っている。誰かはたくさん。誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か―――!!!!

 

 

ナニカ

 

 

 バンッ

 

 タクシーのフロントガラスに赤い血の手形が付く。興味無さそうに運転手はただワイパーとウォッシャーを起動した。

 

 その辺りで漸く、現場の退魔関係者は新たな増援らしき“乗客”が到着していることに気付く。

 

「(どこの流派が今更…)おいアンタ……これはもうどうしようも―――」

 

「彼らはこれ以上の被害を望まない。只管に死と痛苦を捧げ続けるならば、例外なく全員を下がらせるのが良いだろう」

 

 要は、無駄だし邪魔だからさっさと掃けろ。

 

「……は?」

 

 それは、ここまでの被害を被った当事者らに向けるにはあらゆる配慮が欠けた台詞だった。言われた青年は改めて相手を見る。

 

 体格も貧弱で、霊力や魔力といった“素養”も碌に感じられない。

 

 ほとんど一般人―――部外者。

 

「テメェッ!!!」

 

 頭に血が上る。実際のところ、此処に通された時点でそれが部外者な訳が無いのだが、それすら分からないほどに。

 

 彼の脳裏に浮かぶのは今日までその背を追って来た先輩の退魔師、小野田の凄絶な死に様。青年は数分も経過していないその死を未だに受け入れられていない。

 

 そして文字通りに命を尽くした先輩の行動が、何も知らない部外者によって貶されたと思い込んでそのまま胸倉を掴み上げた。

 

 見掛け通り、軽い。

 

 このまま地面に叩きつけてボコボコに―――

 

「ウゲッ…!?」

 

 ドゴッ バキッ

 

 脇腹に走った鈍痛に体勢を崩した隙に、顎が外れるような二撃目の衝撃を受けて青年は地面に這いつくばる。

 

 それを行ったのは、目の前の“乗客”ではない。何とか起き上がろうとする横目で、青年は犯人を睨む。

 

「何をしているのだろうか、運転手」

 

「いえ、目の前の暴力事件を未然に防いだだけです」

 

 どこか呆れたような反応を見せる“乗客”の隣で、タクシー運転手の女が手を払っていた。否、その手錬は絶対にタクシー運転手などでは無かった。

 

 暴力事件どころではない血みどろの惨状が広がる只中で、タクシー運転手を自称する何者かはいけしゃあしゃあと言ってのける。

 

 仕事柄荒事にも遭遇することのある青年は、攻撃されるまでその接近に気付けなかったことに戦慄を覚えた。

 

「ク…ソ……殺し屋か…なんか…かよ…」

 

「言われているよ、運転手」

 

「さて、私は運輸会社に帰属するドライバーに過ぎません。身分証を確認されますか?」

 

 確実にダミーな社員証を掲示する女の視線は、けれど足元で這いつくばる男を冷酷に捉えている。少しでも青年が下手な動きをすれば即座に追撃を加えてくるだろう。

 

 青年にはその確信があった。

 

 殺意も悪意もない。ただ障害物を撤去するかのような目的意識のみを宿した無機質な瞳。人を人とも思わない女の目は、口で説明せずとも男の未来を明瞭に語っていた。

 

「ク…ソ…が………!!」

 

 それがどうした。

 

 青年は一発でも“乗客”に食らわせなければ気が済まない。なんとしても、土下座させて「ごめんなさい」を言わせてやる。そしてそれでも絶対に許してはやらない。

 

 ガッ

 

 意地でも立ち上がろうと青年が肩に力を込めた瞬間、無防備に浮き上がった腹に女の足が突き刺さる。

 

「げほッ……!?」

 

 肺と腹の中の空気がそれで全部押し出される。流れるような追撃が首筋の真後ろを捉える。圧し折れるような衝撃が走り、青年は再び地面に叩きつけられ今度こそ動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 暫く男のうなじを踏みつけにして地面に押し付けていた明夏羽は、ピクリとも反応しない彼を確認して漸く足を離す。

 

「殺してはいないだろうね」

 

「望まれるのであれば、今からでも」

 

「いや、十分だ。この人間も、怒りをぶつけるべき先を見失うほどに気が動転していたのだろう。

 ―――よくあることだ。普通、人は狂気を馴染みとしないから、狂気にまた侵されやすい」

 

 “乗客”の前で、明夏羽がミスを犯すことはない。多少(・・)乱暴だが、適切の範疇に収まる対処だった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 期待通り、直に全体の撤収が始まる。

 

 ついさっきまで渦中にいた人々も、今度は例外なく蚊帳の外に送られる。遺体だか怪我人だかを運ぶ車は、積み込む過程をよく観察していても何方がそう(・・)だったか分からなくなりそうだ。

 

 それだけ怪我人と死者の区別、生と死の境界が希薄だ。負傷者らは今晩という峠を超えることが出来ないだろうと確信できる程に。

 

「君も下がっておけ。帰りの足が無いと不便だ」

 

「了解です」

 

 私の指示を受け、最後まで残っていた明夏羽も素直にタクシーに乗り込んで撤収の波に乗っていく。

 

 

 

「……さて」

 

 やっと1人だ。

 

 病院。

 

 白く巨大な人工物は、今や得体の知れない化け物となって人を食らう。

 

 そんな代物に1人で立ち向かおうとしている私を嘲笑うかのように、既に余人の掃け切っている筈のこの場所で誰かの足音と笑い声が響き出す。幼い声が駆け回る。

 

 

 アハハハハハ

 

 

 無邪気。

 

 一切の罪悪を持たない子供こそ、何をするか分からない恐ろしさを秘めている。

 

「恐怖、か。やはりそれを感じない為の現実的な方法は、忘れ、呆け、何物にも気付かず気付かれずにいることなのだろう」

 

 空を見る。当たり前のような顔をして、さも自ら正常であると喧伝し、そうであると認められている白い月が夜空に浮かんでいた。

 

 月が何故、人を狂わせてきたか知っているだろうか。彼らはそこで悟った真実を忘れて二度と考えないようにする為に、敢えて自分自身を破壊したのだ。

 

 それは同時に、彼ら自身の口から月に関する真実が周囲に語られることを防ぐことでもあった。―――時代や場所に関係なく、その“真実”に突き当たった者は例外なくそれに殉じた。

 

 ……だが、そうであってもやはり月は綺麗なものだ。

 

 太陽の昇らぬ夜間、月光はか細くも暗がりを照らしてくれる。

 

 人間を死に誘うこの場所で、私は半ばお月見に興じそうになっていた。

 

 

 パリンッ

 

 

「……」

 

 そうやって相手にされていないことに気付いたのか、癇癪を起したように近場のガラスが破裂し破片が頬を切り裂いた。

 

 血が流れる。

 

 

 フフフフフフ……

 

 

 再び、子供の笑い声。

 

 子供は自分の行動の責任など持てないし、それが齎す結果も予測できないから、遊びで簡単に何かを傷つけてしまう。

 

 要は無知なのだ。自身の行為が何を引き起こすか知らない。自分のしていることが何なのか理解するための経験が足りていない。

 

 イタズラ。

 

 善悪どころか生や死の認識も曖昧だから、悪戯に様々な物を弄んでしまう。もしも子供が親が守る必要が無いほど強大ならば、そこには地獄が広がるだろう。

 

 嗚呼、それが丁度こういう感じか。

 

 

 イッショニアソボ?

 

 

 遊び………。邪気なんてモノは、相変わらず感じない。

 

 

 ジャア!カクレンボシヨウ!!

 

 

 パタパタと何人かが駆けて散らばる。

 

 当然、屋外には隠れ場所なんてほとんど無くてすぐに見つかってしまうから、病院の中に行くべきだろう。

 

 

 イーチ…ニーイ…

 

 

 割れて血の付いた玄関のガラス扉を開き、中へ。非常ランプの穏やかな光源は院内に何があるのか知るには十分だ。

 

 

 サーン…シーイ…

 

 

 床は血でぬるついている。()は病室にでも隠れたのだろう。

 

 試しに幾つか開けようとしたが、内側から鍵を掛けられている。誰かがそこにいる。

 

 

 ゴーオ…ローク…

 

 

 床に転がっている看護師を辿る。出口を目指して事切れたそれらの頭と足先の向きが示す方向を、逆に辿るように。

 

 事前に避難は済ませていたし、医療関係者から出た遺体は全て回収されている筈だ。では、これは何であろうか。

 

 3人に1人ほど、同じ顔に見える死体が転がる。

 

 

 ナーナ…ハーチ…

 

 

 …………今更になるが、天井から聞こえる足音は上階のモノではなく文字通り天井を床として駆け回るものであるらしい。

 

 子供の発想は柔軟だ。

 

 

 キューウ…ジュウ!!!!!

 

 

 全ての窓は割れているか、あるいは血に汚れている。無事なものは1枚もない。ガラスや箱、どうにも、子供には壊せるかもしれない物を全部一度は壊そうとすることがあるらしい。

 

 追い詰められた神使は、自分から頭を潰したのだったか。

 

 

 キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!!

 

 

 ピシッ バキッ

 

 

 天井と床が軋み、壁に罅が入る。何かが病院の中に入り込んで、滅茶苦茶に駆け回ったり病室の鍵をこじ開けたりしている。

 

 

 ………ドコォ…?

 

 

 アハハハハハハハハハハッ!!!!

 

 

「………」

 

 ……いい加減、うんざりする。協会関係者の死に様を見た時は、少しは期待もしたのだ。

 

 だが、結局アレらは彼ら自身が選び取った最期だった。そこに追いやったにせよ、コイツそのものが付加価値を与えたなんてことはやはり無いらしい。

 

 もうずっと前から、私の視界にはくだらない真実とやらも見えていた。

 

 普通、病院なんかは霊の類で溢れている。無念に死臭。救われた事実より、そういう物の方が現実には染み付きやすい。だが、今の此処にはもう誰もいない。

 

 静かで、足音だけがする。

 

 病室の場所は知っていた。

 

 

 

 

 

 


 

 ソレは楽しい。ソレは恐ろしい。ソレは強い。

 

 玩具はみーんな壊れてしまった。誰もいない。

 

 違う。まだ一人いる。

 

 遊ぼ。遊ぼう。遊ぼ。

 

 壊れるまで、壊すまで、バラバラに。

 

 魂こねこね、心ぐちゃぐちゃ。

 

 脳みそ、ぴちゃぴちゃ。

 

 ソレは自由で素晴らしく、強くて誰にもどうにも出来ない。

 

 

 みーつけた。

 

 

 

 

「―――あぁ、私も見つけたよ」

 

 ソレは無敵だ。もう遅い。さっさとオマエは泣き喚け。

 

 

 

 

 

 


 

 ミーツケタ

 

 

「……あぁ、私も見つけたよ」

 

 問題となった男児の収容された病室に私はいた。

 

 振り返る。開け放たれた病室の扉の前に、子供の影が立っている。

 

 影が笑う。

 

 

 ミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタ……

 

 

 頭の中に直接流し込まれるような声。いつか、脳に直接電極を刺すような時代になれば、その時代の致死的なコンピューターウイルスはこんな感じで人脳を侵すのではなかろうか。

 

 それは私の思考を塗り潰すことを試みている。

 

「滑稽極まる。だが、結局お前は本当の意味でそれを理解もしていない」

 

 

 …………

 

 

 シンと病室は静まり返る。

 

 軈て、私が本心から言っていることに気付いたのかベッドだとか椅子だとかがガタガタ揺れ始める。

 

 頭上の蛍光灯が破裂し破片が降り注ぐが、別に死ぬようなものではない。

 

「お前は誰一人、直接には殺せなかった。ただ彼らは自分の意思で彼岸に身を投げただけだ。お前はお前を勘違いした哀れな犠牲者がそうだと認識したほど強力な存在ではない」

 

 ガチャン、と引き出しの中身が飛び出し、鉛筆や鋏の鋭利な先端が身体に突き刺さる。

 

 否定しようと言うのだろう。指摘を恐怖で有耶無耶にしようと言うのだろう。

 

 だが、此方には“証拠”もある。

 

「野田一樹は、鎮静剤の過剰摂取により逝った。消えている。

 そもそも、お前は狂気に染まった幼子の思念としては理性と悪意をやけに有している」

 

 私が欲しかった最後の事実、最後のピース、確証。―――原因と見なされた子供は、とっくにただの死体になっている。

 

 死体が生者を害することはない。死体に潜む生きた毒素が生者を蝕むことはあるが、これは清潔だ。

 

 元凶ではない。そもそも、男児は何かに取り憑かれていたわけではなかった。

 

 病室のベッドに横たわる男児は呪いでも何でもない。

 

 私は青白い肌の死体を見下ろしながら、自分の身体に刺さった諸々を抜いて床に捨てる。

 

 その腕を、小さな手が掴んだ。

 

………イッショニ…キテッ!!!

 

「…死体で操り人形か。生き人の劣化を演出するだけに何の価値がある。それを行うなら、徹底して生者を穢し貶すことにこそ価値が見出せる。

 私の知る者は、64人の身体を外科的に癒着させ理論上はそれぞれの生存を可能にしていた。お前の人形劇は、現状ではB級以上の評価をあげることが出来ない」

 

 死亡した6歳の男児の瞳を無視し、それの置かれたベッドに腰を下ろす。背後からしがみ付かれるが、別に死体に抱き締められることは初めての経験では無かった。

 

 ドタドタと病室の外が騒がしい。

 

 軈て姿を現したのは、廊下に転がっていた医師や看護師。死体の彼ら彼女らは虚ろな瞳を浮かべて喉から何かを呻く。

 

 30人ほどの幽鬼が私を取り囲む。だが、それはよく見れば死んだ5人の医療関係者の姿をコピー&ペーストして寄せ集めただけだった。

 

「…………」

 

 無言。待ってやったが、結局この程度かという感想しか浮かばない。

 

 芳しくないその反応に業を煮やしたのだろう。続けて、ただでさえ狭い病室内に死んだ退魔関係者の写し身が追加で送り込まれる。

 

………見たくない……恐ろしい…

 

…触れるな!触れるなァッ!!!熱い熱い熱い!!

 

…ゴブッ…オエッ……腹ん中に虫がァアアアアアッ!!!

 

 眼窩から血を垂れ流す男、全身の皮膚を焼け焦がして皮膚感覚を殺した坊主、喉の奥に手を突っ込んで自分で食道と胃を引っ張り出そうとする霊能者。

 

 死の再現、それの誇示。……あぁ、それなら確かに生者を怯えさせ、死に追いやることも出来るだろう。

 

 自分で自分の首を掻き切って死んだ、あの小野田という退魔師の姿も人形の中にあった。

 

 だが、駄目だ。私には意味が無い。

 

 元も子も無い話だが、私は日常生活においてもっと恐るべきとされるものに触れている。

 

 さっきの月などその代表例だ。月は太古の地球に火星クラスの天体が衝突した結果、崩壊した両者の残骸が集合し生じたというのがセオリーである。

 

 だが、本来ならアレは再び地球に降り注がなければならなかった。何故、現在も浮いたままなのか。

 

 何故、近傍の火星の衛星とは異なり、月はあそこまで綺麗に球体を成しているのか。

 

 

 ……完全に思考が逸れた。それだけ、この事件の真相がくだらない物であるのが悪い。とんだペテンだ。

 

「………既に死体の回収された者、確実にこの場に実体として存在していない者を寄こした事は悪手だったな。幻覚でしかないことが検証せずとも分かる」

 

 全てを無視し、病室の前で動かない子供の影に近づこうとすれば、周囲を取り囲む亡者たちがそれを阻もうとしてくる。

 

 だが、それは霊ですらない幻影だ。感覚にこそ触れる物はあったが、結局は突き抜ける。この場に死体すら持たない者たちは、実体を持つ私を捉えられない。

 

 そもそも存在していない。

 

 初めからそうだ。

 

 アルマゲドン(神の裁き)チャイナシンドローム(炉心融解)

 

 宗教家に原子炉の修理は出来ない―――これは似ているようで、畑が違う。

 

「お前は“嘘”で出来ている」

 

 病院の惨状を見る中で、当然私には他者とは違うものが見えていた。

 

 持ち出され、空になって無造作に捨てられた輸血パック。割れたガラスの傍には、子供ではない人影が立っていた。

 

 壁に罅などない。建物も震えたり軋んだりなどしていなかった。それは単なる幻覚だった。

 

 本当の意味で私以外に存在していた足音はたった一つで、それは子供の物ではなかった。

 

 硬いヒールが床をコツコツと鳴らす、明らかに大人の女性の物。

 

「―――お前は空白だ。

 空白、故に中身を注がれ決定された。

 意識に共有され、仮初の自我さえ得た。退魔師が強敵であると感じればそのように、お前は手の付けられない虚構の怪物を、立ち向かう者たちの想像力を糧に膨らませていけばいい。

 ……嗚呼、何故人はただ消え行く摂理を、“死”をさも恐ろし気な怪物に仕立て上げてしまうのだろうね」

 

 欺瞞と誤解のヴェールを身に纏い、不幸と不運を虚飾と積み重ねてソレは実像を得るに至った。

 

 始まりは、単なる気狂いだったのだろう。

 

 父親の自殺に基準から外れた物事は関わっていない。母親の心神喪失は、ただ伴侶の死に動転しただけ。男児はただ、変わり果てた両親に打ちのめされていただけ。

 

 ―――それだけのことが、何故か大げさに囃し立てられてここまでに拡大した。

 

 これはもう一種の信仰、カルトの儀式に近い。

 

 医者が男児の状態を異常と判断してしまったこと、介入した退魔師がウンともスンとも言わない状況に「自分たちの力が通じていないのではないか?」と考えてしまったこと―――以上を以て、仮想の神格らしきモノが顕現しつつあった。

 

 元から、病院という場所は生と死が渦巻くことで神秘性を得て、現実的に他よりも不安定になりやすい。そういう土壌も作用していたのだろう。

 

 

 認識出来ないなら、ソレは存在していないも同義である。

 けれど、例え存在してしなくても大勢がソレを認識してしまえば、ソレは存在していることと相違無い。

 

 

 得体の知れない、そもそも存在していなかった正体を全員が感じ取って理解しようとしてしまい、その存在を補強する贄を無自覚に捧げた。

 

 

 普段から死と生に接する医者や、異常な物事に接する退魔師の思索はさぞかしソレを満たす餌となったことだろう。

 

 “―――ソレは医者が患者ごと殺そうとする程のものであり、それを逆に返り討ちにするものであり、名うての退魔師でも対処が出来ず、協会を敗走させた”

 

 人々に認識を強制するには十分な実績だ。そして誤解でもある。ソレは初めからそうだったのではない。関わった者たちが膨れ上がらせたイメージそのものだ。

 

 事実というものは、実のところあまり大きな力を持たない。平凡な事実とセンセーショナルなデマなら、人は後者に流される。

 

 膨れ上がった虚構は事実を覆い隠すには十分だ。いずれコレが市街に進出し、好き勝手に暴れ始めたのであれば、それこそもう誰にも存在の否定のしようが無くなっていたかもしれない。

 

 ―――だが、私にヴェールは通用しない。

 

「お前は神道の荒御魂でも、仏教の悪魔でもない」

 

 子供の影。

 

 そんな欺瞞を素通りに、その首を掴み取る。捉え、逆しまに奪い取る。

 

 それは唯一存在していて、存在を失われた者。突き詰めれば集団ヒステリーでしかない一連の事件で、物理的な現象を引き起こして虚構の証明に一役買っていた者。

 

 血に塗れた白衣、素手でガラスを割ったことにより拳に突き刺さった破片、剥がれた爪、焦点の合わない瞳。

 

 行方不明だった野田一樹の主治医、傀儡とされた生者がそこにいた。

 

「これでもう、お前は何も出来ないのだろう?」

 

 全てのタネは出揃った。

 

 影の中から医者を引き抜く。影を暴く。影が散らばる。

 

 私は荒らされた病室を見ている。何のことはない、人間の手によるもの。ポルターガイストなどではない。

 

 幻覚が非現実的な根拠を示そうと足掻くが、生憎と観測者はもう私一人だ。

 

 時計を見る。事前の打ち合わせ通り、退魔師を含めた関係者全ての記憶が消された頃合いだ。

 

 この事件は、そもそも起こっていなかったことになる。関係者の死は、全て単なる不慮の事故となる。

 

 私はお前を解釈しない。

 

 

 お前は神ではなく、魔でなく、霊でなく、人でなく―――

 

 

 チガウ!!!!

 

 

 ―――“何物でもない”

 

 化け物として振る舞おうとしたアイディアの大半は根拠の無い陰謀で構成されている。恐怖と不可解で覆い隠しているだけの脆弱さ。

 

 信仰を失った神の末路よりも徹底し、力を失うどころかその存在が忘れ去られ、消えていく。

 

 何せ、初めからそこには何も無い。生まれた場所に帰るだけだ。虚無の中へと。

 

 ソレは本来、何も無い穴だった。ソレに中身を与え、存在を定義し立証しかけたのは関係者だ。そして今、穴の中から全てが消えようとしている。

 

 だが、穴を見つけるアンカーポイントになった野田一樹はもういない。

 

 穴という疑問があったことを、人々は忘れる。人は忘れることが出来る。

 

「う……うん………?」

 

 掴んでいた医者が身動ぎする。完全に目覚めてしまう前に、私はその首に浮き出た静脈に携帯していた忘却剤のシリンジを注射した。

 

「うっ……」

 

 思考と記憶を消し飛ばす主作用と副作用により、医者は再び意識を失う。

 

 忘却は一つの死。私は穴を埋めないから、これで全ては終わる。私は穴にこれ以上何もしてやらない。放置する。

 

 ただそれだけで、空白の事など誰も気に留めなくなる。

 ソレは特異なモノと認識されず、ただ背景として白く塗り潰されるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 経験有る者なら分かると思うが、意識の無い人間を人力で運搬するのは意識の有る人間を運ぶより遥かに難しい。

 

 かと言って、このまま放棄された病院内に唯一の生存者を置いて私だけ出ていくというのは、流石に人の心が欠けている。

 

 結局、私は正常に回帰した病院内から台車を見つけて来なければならなかった。あの正体無き虚構の穴は、あれでいて強力で手の付けられないモノになりつつあったから、縄張りとして蝕み始めた病院内から他の基準外事象を追い出し、新たに発生することを抑えていた。

 

 正常に戻ったということは、至極有り触れた非現実もまた湧き出したという事であり―――

 

「……」

 

 ガラガラと台車を押していく刹那、楽しそうな、何かから解放されたような子供の後ろ姿が遠くに走り去っていくのが見えた気がした。病院の外で、そこで待っていた誰かに手を振って消えて行ったように思える。

 

 ……意外かもしれないが、私は霊を信じていない。正確には、霊が人間の魂であるとは思っていない。

 

 身体も無いのに大気を振動させて声を出し、脳も無いのにある程度の知性や記憶の痕跡を見せる。

 

 そんな生き物は、間違っても霊長類ヒト科ではない。

 

 それはよく似た、生前とされる人間とは別の生き物だ。声帯を必要とせず、脳を必要としない非実体の生物。

 

 意識は脳に宿る。脳が無く自律する意識が本当に存在しているなら、人間は肉体に縛られてなどいない。

 

 人魂が自律するよりも、何らかの形で死に際の意識を映し取った白紙の非実体生物が元々存在していたと考える方が妥当だ。

 

 現世を電子の海に例えるなら、霊はそこにアップロードされた人格と記憶と容姿のデータだ。さて、それは仮に全く同じ物であっても本人だと言えるだろうか?

 

 人は死の先を観測することが出来ない。当然だ。不可逆の終点からは誰も情報を持ち帰ることが出来ないから。そもそも、死に先など無い。

 

 では今の子供が真実何者であったかなど、解釈のしようは幾らでもある。

 

 ただ―――

 

「……おやすみ」

 

 散々引っ掻き回されたのだ。死後に静かな安息を人々が期待するように、彼にもそれを願うくらいの権利は有るだろう。

 

 叶おうが叶わまいが、願うことだけなら万人に許されている。

 

 

 

 

 

 


 

 ―――子供になって遊ぶ夢を見た。誰かに、帰るように言われて、嫌だって答えたら腕を引かれて………それで、どうなったのだったか。

 

 小児科医、荒木(アラキ)曙美(あけみ)は勤めている物ではない病院で目を覚ました。全体的に身体が重く、筋肉痛に苛まれている。腕は包帯でグルグル巻きになっていて、点滴のチューブが刺さっていた。

 

 意識が段々はっきりしてくる。

 

「―――あの子は!? ッ―――!」

 

 起き上がろうとして頭に鈍痛が走って額を押さえる。

 

 やや遅れて、咄嗟に飛び出た自分の言葉に困惑した。

 

 “あの子”……?

 

 自分の担当していた患者の顔を全て思い浮かべてみても、“あの子”だと思える顔には出会えなかった。

 

 ………何かが、欠け落ちて。もうとっくに手遅れであるかのような焦燥に駆られる。

 

 届かない。無くなった。……何を?

 

「―――目覚めたか」

 

 頭を抱える曙美の脇から声が掛かる。見知らぬ人物が病床の椅子に腰掛けていた。

 

 黒い。まず目を引いたのはその髪だ。塗り潰したように黒く、一切の艶がない長い髪。

 次に肌、それは逆に白い。メラニンの存在が皆無で、抜け落ちている。無色というイメージが脳裏に浮かぶ。

 

 開かれた白い文庫本を鈍色の瞳が睥睨している。

 

「あのッ……患、者……」

 

「その前にお悔やみを。君の同僚が5人死んだ」

 

 手元の頁から視線を外さぬまま、質の悪い冗談のような台詞を目の前の人物は吐く。

 

「は――あ?」

 

 あまりにも現実味がない。いきなりそんなことを言われたところで、実感など湧くわけが無い。ガツンと頭を殴られたような衝撃に曙美が狼狽えている間に、相手は続ける。

 

「田宮信二、高坂棗、新島五郎、富山寛太、和晃晴その他収容されていた患者2名が不慮の事故により病院内で死亡した。一週間後に合同追悼式が予定されている。体力が戻っているなら赴くといい」

 

 同僚の医師と看護師の名前が読み上げられ、追悼式に関する案内状が手渡される。

 

「死んだって……どういうことですか!? 一体何が……ッ!!?」

 

「さて、私は後始末屋ではないから、どうなっているかはよく知らない。そんな事より、野田一樹という名前に心当たりは?」

 

「無いです!! 何なんですか!?」

 

「ならいい。私はここまでだ。―――もう二度と会う事もないだろう」

 

 止める間もなく相手は出て行って、入れ代わりにこの病院の看護師がコップに入った水と錠剤を渡しに来た。

 

 情報の暴力でどうにかなりそうな頭を落ち着かせる為に受け取る。何もかもが釈然としない。何かが大きく欠けている。

 

「あ…れ……?」

 

 錠剤を水で流し込んだ途端、頭がふらついた。その動きで偶然、案内状に記載されていた一週間後の日付が目に入る。

 

 ―――そこには曙美が認識しているモノとは半月近いズレがあった。

 

「ムグッ…」

 

 意識が朦朧とする曙美は看護師に助けを求めようとしたが、目の前の看護師は逆に淡々と彼女を病床に寝かしつけようとする。異様な気配を察して何とか叫ぼうとすると、先回りするかのように口を塞がれた。

 

「(苦しい   息が   頭  白   )……」

 

 やがて女医は、藻掻くことを止めた。

 

 

 

 

 

 


 

「これで本当に終わった」

 

 彼女は唯一残された逆転の芽だった。本来なら人が自力で見つけ、摘出しなければならない。だが、今回は依頼として来ているから、それも見逃す訳にはいかなかった。

 

 経口摂取の忘却剤で眠りについた荒木曙美は、目覚めれば何一つ覚えてはいないだろう。既に一度目覚めていたことも、私に会っていたことも、私に聞かれた再思の切っ掛けに成り得る名前すら。

 

 彼女は唯一、野田一樹を真っ当に治療しようと試みた医師だった。周囲が異常だと騒ぐ中、何とか正常の範疇で事を理解しようとしていた。

 

 奇行を繰り返す男児に恐怖した看護師が彼を殺そうとした現場に居合わせ、自ら取り押さえに行くなど信念に見合うガッツもある。

 

「しかし、例え自分一人が正しいとしても周囲の全てが間違いを正しさと唱えるなら、異常なのは彼らではなく君になる。“正常”なんてものの本質は多数決で決まるものだ」

 

 異常は排除される。尤も、病院側の判断でチームから外される前に穴に近過ぎた彼女はそこに取り込まれてしまったが。

 

 穴に落ち、穴を埋め、穴になる。

 

 誰にも認識されず、本人も分からないまま輸血用血液をぶちまけて窓に手形を作り、物を投げて窓を割る。院内の各所に残っていた手形は、明らかに大きさが6歳の子供のそれではなかった。

 

 体良く利用された形になるが、結果それで生き残れたのだから御の字だろう。

 

「私たちも良い稼ぎになった」

 

 協会に恩を売るのは悪くない。今回のことで、協会は貴重な人材をまた失った。協会は問題となった怪異が如何なる伝承に属するモノであっても対処できるよう様々な系統の退魔師を集めたが、それが完全なイレギュラーだったことで悲惨な結果を生んだ。

 

 仕方ない。対処しないことが正解というケースもある。それに対応できてしまう私が少々イレギュラーなのだ。

 

 一つの病院とその周辺を永久に彼岸に追放し封印するような事態にならずに済んだことで、今回の報酬については普段にも増して色が付いている。

 

 だが、生憎とパッと思い浮かぶ活用法がない。金は有っても困らないと言うが、有り過ぎると普通に困る。

 

「―――お待たせしました」

 

「ご苦労……何か食べに行こうか?」

 

 看護師に扮していた明夏羽が女子トイレで着替えて出てくる。同時に、口座に入ったばかりの金の使い道を思い付いた。

 

 今の彼女は黒いスーツ姿で、人間社会ならそれでどこにも違和感なく溶け込めるだろう。このまま町に繰り出しても何の問題も無い程度には。

 

 彼女はある理由により今回の存在しない一件の記憶の消去を免除されている。だから全て覚えている。その上で、やはり恐怖も関心もアレには抱かなかったのだから筋金入りといったところか。

 

「そう……ですね」

 

 珍しく彼女は少し悩む素振りを見せる。一見して私情の薄いように見える彼女だが、優先順位の一番に自己ではなく別の物を固定している様は私情以外の何物でもない。

 

「ケーキが、食べたいです」

 

「そうか。確か近場にスイーツレストランがあったか」

 

 意外かもしれないが、明夏羽はコーヒーにミルクとシロップと砂糖の全てを使うタイプだ。

 

 もしかしたら周辺の地理を事前調査で頭に入れている時から目を付けていたのかもしれない。

 

「はい。行きましょう」

 

 声音こそ落ち着いているが、それは彼女らしからぬ期待に満ちた催促である。これは私の知覚する非現実とかではなく単なる幻覚だが、彼女の頭と腰で犬耳と尻尾がブンブン揺れているように見えた。

 

「行こうか」

 

「はい!」

 

 先導と言い訳して明夏羽は私の腕を引いて先を進む。その声は今度こそ隠すことなく弾んでいた。

 

 

 

 

 

 

 此処からそう遠くない位置にある病院で普通ではない惨劇が起こり、野田一樹の母親を初めとして誰かの人生が悪夢に落ちようが、道を行き交う人々は平気な顔で今日も明日もと変わらず生きて行く。

 

 そして私には彼らとギリギリのところで触れ合わないか、触れ合ったところで互いに気付かない基準から外れた世界が見えている。

 

 

 ―――首の無いカラスが電線の上から卵を産み落とす。地面に落ちて砕けた卵の中から生まれつき頭の潰れたヒナが孵化した。母カラスは鳴けないヒナを脚で掴み、どこかへと飛び去る。

 

 ―――ガラスの張られたビルの壁面に目を凝らせば、そこには反射した巨大な何かの像が映り込んでいる。現実における実体は存在しないそれは、ただ鏡面の向こう側で長い腕と鋭く尖った指先を揺らして歩行していた。冗談ではなく鏡は時として神を映す。

 

 ―――偽物の太陽は努力家だ。アレは今、月を目指している。月となれたなら地球を、地球となれたならいよいよ太陽を目指すことだろう。その目的の単なる過程において、誰も気づかないあの能動的な天体はこの星を滅ぼしてしまえる。

 

 ―――月が偽の太陽を警戒して、地上に対するアプローチに消極的になりつつあるのは幸いなことだ。

 

 ―――ウサギ………ただのウサギ。都会に生息し、誰にも存在を認識されないことを除けば強い雑食性以外に通常種のウサギと何も変わらない。飲食店での料理のつまみ食いが奴らの主食である。奴らは結構良い物を食べて肥えている。

 

 

 ただ見回しただけで、それだけのものが目に入る。

 

 正常を認識する社会は正常に属さない異常を排除する。私にとって“正常”とは視界に映るありのままの全てだ。何かを異常と思ったことが無かったから、その対称となる正常を実のところ長らく理解していなかった。

 

 その認識は一般社会の語る正常とは絶望的に異なる。

 

 怪異への対抗策、必要悪として異常を利用する協会がその存在を一般には潜めているのも、受け入れられることがないと理解しているからだ。

 

 どれだけ社会の影で貢献しても、彼らの墓前に一般人による献花が為されることはない。

 

 

 ―――やはり正常こそが単なる欺瞞で、狂っているとされるこの世界こそが正常なのかもしれない。

 

 

 私は時折、一行でそう矛盾する。

 

 

 だが、今は―――

 

「~!!美味しいです!」

 

「そうか。それは良かった」

 

 10年ほど若返り青春を取り戻したような笑みを浮かべる明夏羽を見遣り、絶えず自分を犠牲にし続ける澄香のことを思い浮かべる。

 

 誰かが日常を守るそのヴェールを解かないように奮闘している内は、病院のアレのように私が引っ掻き回す側に回ることはないだろう。

 

 

 ………しれっとテーブルに積まれたケーキに手を出そうとした認識阻害ウサギの首根っこを掴んで遠くに投げ捨てる。

 奴らの警戒心は強い。存在に気付かれたことを悟れば、侵入した店舗から群れごと引き上げる。

 通気口の配管がガタガタ五月蝿いが、明夏羽も含めて店内の誰もそれに気付いていない。

 

 

 普段は絶対に浮かばないイメージであるハムスターのように一口サイズのケーキを頬張る明夏羽を見ながら、私は水しか入っていないグラスを傾けた。

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