トカゲから恐竜へ…~王位継承ルール、偉大なる進化の歴史~(その6)

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⑥ 高天原のアキツミカミ、爆誕!!

武人・天武天皇が686年に亡くなった後、鵜野皇后はすぐに即位したというわけではありません。

先帝の殯(もがり)の期間も含め、約3年に渡る称制の最中にライバル・大津皇子を排除し、自らのカリスマ性を群臣に知らしめた上で、それまでの慣例をまるで、星一徹のチャブ台みたいにひっくり返す、驚くべき即位儀式に挑みます。

儀式の次第で、特に重要な部分は以下の3つ。

① 「天神寿詞(あまつかみのよごと)」、つまり天の神々による祝福の言葉を、臣下の者が読み上げる
② 神璽の剣・鏡を、臣下から鵜野皇后に奉上する
③ 鵜野皇后が、天皇位につく

特に②は、今でいう「剣璽等承継の儀」に近いので、皆さんは左程新鮮さを感じないかも知れませんが、当時としてはこれ、非常に画期的な儀式だったんですよ?

式次第①の天神寿詞も、②の剣鏡を「神璽」として奏上する事も、実は持統天皇の即位儀が、史上初の出来事だったのです。

現在でこそ、「天照大神を皇祖神とする、神話からの連続性」が皇位の正当性(のタテマエ)となっている事は常識かと思いますが、持統天皇以前は、そうではありませんでした。

散々述べてきたように、王の正当性はあくまで「群臣からの支持を得た事」によって権威付けされていたに過ぎないので、世襲王権が成立した後も、それぞれの豪族同士が意中の候補者を王に担ぎ上げようとした為に、争乱の元となっていました。

群臣の推挙に頼らず、天皇を「神の子孫」として初めて権威付けする事で、豪族同士の勢力争いの元を断とうとしたのが持統天皇の狙いだったのではないでしょうか。

継体天皇以前には、豪族が王を推挙する為の璽符(みしるし)であった鏡と剣も、持統天皇の即位をもって史上初めて、「神璽(かみのみしるし)」とされたのです!

もし持統天皇が、このような即位儀式の大革命をやってくれなかったら、令和の「剣璽等承継の儀」も、三種の神器も、全く違うスタイルになっていたかも知れませんね。

さらに西暦にして696年、次代の文武天皇即位宣命で、持統の神格化はよりパワーアップします。

「高天原に事始めて」神の依しを受けた、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」が、文武に皇位を譲る、という立て付けになっているのです。

「天の神様から委任された現御神(あきつみかみ)」とは、まさに文鮮明もビックリの歌舞伎っぷりではありませんか!

そうやって、当時まだ天皇としては若年と見られた、若干15歳の軽皇子の即位を、指名者である先帝・持統の権威をもって、どうにかして正当化する必要があったようです。

持統がここまで神格化された背景には、丁度この時代に成立した「天孫降臨神話」があると義江明子氏は分析しています。

※アマテラス〜オシホミミ〜ニニギへの流れがそのまま持統〜草壁〜文武天皇に当てはまるというのは、ゴー宣DOJOでよしりん先生が指摘されるまでは全く気付けなかった視点なので、目からウロコでした。

草壁皇子の忘れ形見・軽皇子への譲位が強行された事も、継承争いの芽を摘む為の、直系継承ルール化への模索だった事は、こちらの過去ブログで分析した通りです。

(⇩)
「正直なウソつき」の、『嘘だらけ』古代史語録⑨ – 愛子天皇への道 ~ Princess Aiko: Path to the Throne ~

文責 北海道 突撃一番

参考文献

義江明子『天武天皇と持統天皇』山川出版社2014年6月25日

5 件のコメント

    nonameyet

    2025年8月15日

    アマテラスと持統天皇の類似性について、私が見たのは井沢元彦氏の『逆説の日本史』においてでしたが、確認してみたら梅原猛氏の説でした。義江さんの著書も読んでみる必要があるかな・・・・?

    つーか『逆説の日本史』久し振りに読み直したけどやっぱ面白れーわ。思わず関係ないところまで読んでしまったではないか。謎が解き明かされていくワクワク感て他の本ではなかなか味わえないんだよな〜。

    突撃一番

    2025年8月13日

    皆さん、コメントありがとうございます!

    持統天皇が強行した、この即位儀式の大転換の話が、今回の
    シリーズのクライマックスとなります。
    「天の神様の子孫である」という、現代まで続く皇統の大義名分が、初めて確立された瞬間だからです。

    それ以前の天武天皇ですら、あくまで軍事的指導者としての実績に基づいた、天武一代限りのカリスマ性によって束ねられていたに過ぎませんから。
    「神の子孫だけが天皇」という事にしておけば、天皇個人の資質にそこまで頼らずに済み、豪族達の支持も必要なくなりますからね。
    頭の良さと豪胆さを、両方兼ね備えた持統天皇だから実現できた、英断でしょう。

    あと、参考文献に付け加えるのを忘れてましたが、このエピソードは

    義江明子『女帝の古代王権史』
    「第五章 持統ー律令国家の君主へ」
    第2節「即位儀の転換」

    に、特に詳しいです。

    SSKA

    2025年8月13日

    幾ら女性が君主として実力で絶対権力を握っても本人の死後後継者が力を得られずに簡単に政敵に滅ぼされてしまい短期で幕を閉じるケースは日本以外で珍しくないのに、皇統の争いを制した持統帝が生涯を捧げて築いた礎はその子孫達に順調に引き継がれて更なる発展を遂げ、1000年以上後の現代まで続いているのだから天皇の歴史が女系から始まったと説明されても何もおかしくありませんね。
    古代日本人にとって、①国内統治を盤石にする女性固有の絶対権威、②海外(シナ王朝)との間に対等を求める関係、を両立させる目的で万世一系的なものが編み出されたと考えるのが自然でしょう。
    ①男が必ず女に勝ると固定化したら集団も国もまとまらないし、②しかし高い文明に近付いて吸収し対等になりたい、ならば一挙両得とも言える方法として男系主義の模倣を継承の道筋として見せかけると同時に実質として女性神や女帝の存在が全体を覆って内包し基礎を成す、そんな形で固有の国家像を創造し切り拓いて現在に伝えてくれた当時の人々に深く感謝するばかりです。

    基礎医学研究者

    2025年8月13日

    (編集者からの割り込みコメント)今回も楽しく読めました。なるほど、いまさらながら、持統天皇のこの振る舞い(天孫降臨神話)は妙に神がかっていると思いましたが、けっして自己都合で直系継承の流れを作ろうとしたわけではなさそうですね。こういうところに、歴史の知恵を感じます。なお、ここをみると少し思うのは、山岡荘八の「徳川家康」の記述がどのくらい史実と較べて正確なのかは定かではありませんが、それでも原則、長子に家督を相続させる流れを作ったのも、「戦国時代の世を安定化させるため」とかんがえると、あながちそんなに大きく外れていないような気がしてきました。

    京都のS

    2025年8月13日

     そうですね。「もし持統天皇が、このような即位儀式の大革命をやってくれなかったら」、第二第三の「○○の乱」が起こったでしょうね。ひょっとすると唐の属国となったかもしれず、19世紀の日本列島は当然ながら清の一部でしょうし、アヘン戦争で英国に割譲されたかもしれませんね。だとしたら21世紀も白人が世界を支配しているはずです。持統帝の始めた新儀がココまで世界史を変えたのかと思うとロマンがありますね。

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