⑤ 天皇御子のランク付けと、「皇太子」成立(?)
毎週のようにワクワクしながら読んでる、泉美木蓮先生の『持統天皇』物語、血湧き肉躍る「壬申の乱」編もいよいよ、怒涛のクライマックスを迎えた所でありますが、乱の勝利者となった大海人皇子=天武天皇も、兄である天智天皇同様、母親は斉明天皇です。
その天武天皇の命令で作成された『日本書紀』に、「万世一系」的な潤色がなされた事も、シナ向けアピールもさることながら、斉明天皇の権力集中への意志を継ぎ、「複数の王統間で継承資格を争う」という戦乱の原因を、再発させない為だったのかも知れませんね。
「正しい王統は一つしかないぞ!」という認識を群臣達の間でも統一する事で、権力基盤の安定化を図ったというのも、歴史書編纂の動機としては十分あり得るんじゃないかと、ここまでのブログを書いていて思いました。
実際、天智天皇治世以降も、「天智の弟」と「天智の子」という、血統的に近い有資格者の間での、王位継承を巡る実力抗争という形で、壬申の乱は勃発しています。
そうした争いを2度と起こさない為には、当時大勢いた天武天皇の御子達に、それぞれ「ランク付け」をせねばなりません。
冷たい言い方ですが、母親の違う皇兄弟全員に、平等にチャンスが与えられているからこそ、かえって戦乱の原因となってしまうんですね。
まず天武天皇が手を付けたのが、卑母に対する拝礼の禁止です。
王族である御子が非王族の母を拝む事や、自分より出自の低い母を拝む事が禁じられたのです。
たとえ実の母親であっても、自分より身分が低かったら拝んではいけない、というのも人情に欠けた話ですが、「天皇のキサキの序列」をハッキリさせる事も、戦乱を防ぐ為には必要だったのでしょう。
王位の継承資格に、母親の身分も重要視されていた事が、よくわかる事例ですね。
その年の五月、天皇の吉野行幸の際に行われた「吉野の盟約」は有名ですが、これも天武天皇・鵜野皇后(のちの持統天皇)、そして6名の御子との間で、将来の継承争いを未然に防ぐ為の誓いだったのです。
まず、鵜野皇后の実子である草壁皇子が進み出て、「私達兄弟は、母は異なりますが、ともに天皇の仰せに従って助け合います」と誓い、他の5人も同様の誓いを行います。
これに対して天武は、「それぞれの母は異なるが、一人の母から生まれたのと同様に慈しもう」と、6人の御子を懐に抱いて誓い、皇后・鵜野も、天武と同様の誓いを行います。
鵜野の実子・草壁を筆頭に、「皇后・鵜野」を御子すべての母として擬制する事が「吉野の盟約」の狙いだったようです。
正妻である私だけが、みんなのママよ!
というわけです。
どっかの極右政党のタレント議員もビックリの、歌舞伎っぷりですねwww
その後、歴史学上の疑義は呈されているものの、日本書紀上では、盟約の2年後に草壁皇子は立太子したとされます。
「皇后」「皇太子」という称号はともに、吉野盟約の10年後、689年の飛鳥浄御原令において制度的に確立されたというのが通説です。従って、盟約時点での鵜野「皇后」と、681年の草壁「皇太子」という記述は共に、後世の潤色だった可能性が非常に高いのです。
ただし、吉野盟約の時点では既に、「正妻格のキサキ(鵜野)と、その実子(草壁)」を、その他の王族とは別格扱いにする事で、継承争いの芽を摘もうという動きがなされていた事は確かでしょう。
「直系長子優先継承」模索の走りとみる事も出来ますが、そこまでの期待を背負った草壁皇子はその後、わずか28歳で亡くなります。
「継承争いの芽を摘む」という天武の望みを引き継いだのが、皇后・鵜野改め、どっかのマザームーンも裸足で逃げ出すスーパー女帝・持統天皇だったというわけです。
文責 北海道 突撃一番
※ あと、泉美先生の持統天皇シリーズは、永久にコレクションしときたいんで是非、書籍化お願いしま〜す!
参考文献
義江明子『天武天皇と持統天皇』山川出版社2014年6月25日
義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書2021年3月20日「第五章 持統ー律令国家の君主へ」
3 件のコメント
突撃一番
2025年8月11日
掲載&コメントありがとうございます!
基礎医さんおっしゃるように、確かにこの頃の天武&持統の狙いは、男系を重んじたというより、「時の天皇と、血縁的に最も近い直系」こそが重んじられた、というのが正確なようですね。
ただ最も肝心なのは、その「直系継承優先」というシステムが、1300年近く経った令和の日本でもまだ、実現していないという事なのですが。
これは結言で、詳述します。
基礎医学研究者
2025年8月11日
(編集者からの割り込みコメント)今回も、楽しく読めました。皇統を維持するための苦闘の歴史が語られているのがよくわかりますが、ここは、男系維持という感覚は見えてきませんね。むしろ、皇統を安定に維持するために継承候補者をいたずらに増やさないための努力の跡が感じられる、ということですかね(これをみていると、戦国時代にも、戦国武将が同じ苦労が繰り返されているわけが、よくわかりますわ)。
京都のS(サタンのSじゃねーし)
2025年8月11日
今回は前回で紹介された欽明王統への統一に至るまでの前史ですね。まさに今ライジングで連載中の「持統天皇列伝」ですね。
今回もチョイチョイ笑えるネタをブッ込んでくれてます(笑)。「どっかのマザームーン」は、麻生(男系固執派のドン)を脅して「旧宮家系養子案を外した合意を卓袱台返し」ぐらいしか出来てませんが(笑)。