トカゲから恐竜へ…~王位継承ルール、偉大なる進化の歴史~(その4)

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④ 初の譲位と、「皇祖」観の確立(後編)
~権力集中の為の、群臣推戴脱出の試み~

皇極天皇が即位した7世紀中頃、シナ及び朝鮮半島は、激動の時代を迎えていました。

百済義慈王による新羅侵攻、高句麗における泉蓋蘇文によるクーデター、そして新羅に対する唐による政治介入と、善徳女王に対する反乱etc…

そんな最中で倭国もまた、厩戸皇子の子で、舒明天皇と王位を巡って争った事もある山背大兄王が、蘇我入鹿によって排除された上宮王家滅亡事件や、有名な「乙巳の変」等、内乱や政変を繰り返します。

有力豪族である蘇我本宗家が「乙巳の変」によって排除された事で、王位継承の主導権も、群臣ではなく王権自らが握る事になります。

思えば推古も舒明も、即位に当たっては同世代の複数候補の中から、群臣達の合議によって選ばれるというシステムは相変わらずでした。

そんな継承システムを塗り替え、皇極天皇自らの意志で、弟である軽皇子(孝徳天皇)に「王位を譲る」という事が当時どれ程画期的な事だったか、想像出来るかと思います。

日本史上初の譲位は、豪族達による介入を排除し、「王権主導の権力集中」を目指すという形で行われたのです。

軽皇子=孝徳天皇即位の当日、前天皇・皇極は、前回ブログで言及した「皇祖母尊」の号を奉呈されます。

同じ血族内での、複数の王統で王位を争うのが一般的だった当時において、皇極天皇と血縁的に連なる者こそが真の「王統」であると定める事で、盤石な権力基盤を築こうとした象徴的な尊称が、「皇祖」だったのではないでしょうか。

舒明天皇が「皇祖」として扱われなかった事も、『日本書紀』編纂者があくまで皇極=斉明を、当時の王統の中心的立場と捉えていた事の現れでしょう。

文責 北海道 突撃一番

参考文献
佐藤信 編『古代史講義【戦乱編】』ちくま新書2019年3月10日

 有富純也 「第3講 乙巳の変」

3 件のコメント

    突撃一番

    2025年8月8日

    掲載&コメントありがとうございます!

    ある意味、選挙で権力者を選ぶという民主主義のシステムも、今の日本を見る限り、古代の群臣推戴同様、かなり不安定化していると言えそうですね。

    同じ経験を、「皇統の歴史」は既に1300年以上前には経験しているからこそ、「天皇の子」が優先して継承する、という形がいかに安定的なルールなのか、身をもって理解しておられるのが、他ならぬ天皇陛下なのかも知れません。
    (もっとも今の制度には、男子限定という欠陥はあるものの。)

    権力の上位に、そういった歴史感覚を宿した天皇が君臨しておられるからこそ、たとえ権力が多党乱立状態に陥っても、国民が左程切迫した危機感を抱かず、鈍感なドレイのままでいられるんですよね。

    皇統消滅の危機が、間近に迫っている事にも気づかない程に。

    基礎医学研究者

    2025年8月8日

    (編集者からの割り込みコメント)自分は安易に傍系に以降させることが、いろいろな問題を引き起こしてきたと思いますが、それ以前に、豪族間の合議制というのは非常に不安定だと、改めて思いますね。実力主義なる”権力争い”というものいかに立場を不安定にさせるのかは、歴史の教訓ということでしょうね。次回も、期待しています。

    京都のS

    2025年8月8日

     大陸や半島がグローバルにキナ臭くなる情勢では、内乱勃発や権力の空白期間を生むリスクのある群臣推戴システムは改めざるを得ません。そういう過渡期に現れた「英雄的変革者」こそ皇極・斉明帝だったのでしょうね。彼女は中大兄皇子(天智帝)への女系継承も成し遂げました。もちろん「元明→元正」という女系継承の先例です。付け加えるなら皇極・斉明の重祚は孝謙・称徳の重祚への先例です。

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