③ 初の譲位と、「皇祖」観の確立(前編)
~先帝意志による次帝指名と、「4人の皇祖」!?~
西暦にして628年、次世代の天皇に敏達天皇の孫・田村を推す事を匂わせるような遺言を遺し、カリスマ女帝・推古天皇は亡くなります。
元々、群臣の支持を得た年長者が即位するというのが慣例だった当時において、「先帝が、次の王を指名する」という萌芽が見られたのは、この時のようです。
一方の豪族達の間では、厩戸皇子(聖徳太子)の子・山背大兄王を推す声も根強くあり、群臣会議の紛糾を経て田村は即位します(舒明天皇)。
そんな舒明天皇ですが、実は父母共に、天皇ではありません。
にもかかわらず、舒明が亡くなってから大体80年くらい後になって完成した『日本書紀』の記述では、舒明の父・彦人そして母・糠手共に、なんと「皇祖」という尊称が与えられています。
ひょっとして両親とも、アマテラスなのか!?
また、今回ブログの主役であり、舒明天皇のキサキでもあった皇極=斉明天皇も、日本書紀上で「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)、その母・吉備も「吉備嶋皇祖母命」(キビノシマノスメミオヤノミコト)という尊称を送られています。
これでなんと、「皇祖」は4人に増えてしまいました。
まさか全員、アマテラスなのか!?
ちなみに舒明の父・彦人は、書紀の記述では舒明の「皇后」とされた皇極天皇の、祖父でもあります。
ところが一方で、当の舒明天皇本人には、「皇祖」という記述はありません。
これは一体、どういう事でしょうか?
加えて、まさに斉明を「皇祖母尊」と書いた日本書紀の、編纂を命じた張本人である天武天皇も、実母である斉明天皇陵には参拝しても、父・舒明天皇陵に参拝した記録はありません。
また、次の持統天皇代になってから、先帝陵を守る為の「陵戸」の制度も確立されますが、斉明の陵戸は5戸であるのに対し、舒明の陵戸は3戸。
天武・持統というカリスマ夫婦が、斉明天皇をいかに「皇祖母尊」として厚遇していたかがわかると思います。
皇極=斉明天皇が、如何なる経緯で「皇祖母尊」と呼ばれるようになったのか、次回ブログで考察してみましょう。
文責 北海道 突撃一番
参考文献
義江明子『女帝の古代王権史』ちくま新書2021年3月10日
「第四章 皇極=斉明 ー 『皇祖』観の確立」
4 件のコメント
京都のS
2025年8月7日
一説では、記紀では持統帝が自身をアマテラスに見立てたのでは?という考え方があり、それゆえ自身より前の帝を皇祖神(イザナミとか?)としたのかもしれません。
突撃一番
2025年8月7日
掲載&コメントありがとうございます!
ここの皇極天皇回は、なかなか話をまとめるのが難しくて、前後編になってしまいました。
天武天皇の存命中に、日本書紀の編纂作業がどこまで進んでいたのかは分かりませんが、皇極=斉明、及び血統的に彼女に近い王族を執拗に「皇祖」と記録している事自体、天武天皇がそれだけ彼女を重んじていた事の現れだと、今のところは思っています。
これを天孫降臨神話成立の走りと捉えるなら、斉明天皇も「太陽神」の一歩手前って事だから、マザームーンよりは格上って事かね?
くりんぐ
2025年8月6日
アマテラスさまがいっぱいですね!
推古天皇から指名を受けて即位し、両親・キサキの皇極=斉明天皇とその母が「皇祖」という尊称を送られているのに、舒明天皇には「皇祖」の尊称がない理由も気になります。
京都のS
2025年8月6日
何度も何度も「アマテラスなのか!?」と問い直すテンドンにやられましたわ(笑)。聖徳太子は仏教に関する逸話が多く残っているので、きっと仏教導入に熱心な文化的な存在だったのでしょう。つまり太子は名ばかり摂政で、きっと推古帝の方が政治権力を掌握していたのでしょうね。