第18話 王の不在と聖女の涙
【莉愛の日常】
天神家の広大だが静まり返った自室。
アールデコ調で統一された、まるで高級ホテルのスイートルームのような空間。その中央に置かれた天蓋付きのベッドの上で、不登校を続けている莉愛はタブレット端末を食い入るように見つめていた。画面に映し出されているのは、先ほど終わったばかりの夜瑠のソロライブのアーカイブ映像。
「…すごい…! 夜瑠さん、カッコいい…!」
久しぶりに見せる心の底からの笑顔だった。
だが、彼女の背後から、ふわりと優雅な声がかけられた。
『素晴らしいライブでしたわね、莉愛様。夕食は何にしますか?』
ホログラムのミューズプライムが静かに立っていた。彼女は莉愛の不登校と引きこもりを心から心配していた。
莉愛は圭佑が楽しそうに豚カツを食べる動画の切り抜きを見ていたせいで思わず答える。
「…豚カツ、食べたいな…」
『かしこまりました。専属シェフに最高の豚カツを用意させましょう。…さて、お料理ができるまで、少しお勉強の時間ですわね』
ミューズが完璧な笑みを浮かべると、莉愛の前に数学のホログラム教科書が展開された。
「ええーっ! 今日くらい、いいじゃん!」
『ダメですわ。これ以上単位を落とすわけにはまいりません』
莉愛の目の前に映し出されたのは、彼女が最も苦手とする、高校レベルの三角関数の数式だった。
sin²θ + cos²θ = 1
数分後、莉愛の部屋に「サイン、コサイン…ぎゃああああっ!」という悲痛な叫びが響き渡った。その時、隣にキューズのホログラムが音もなく現れた。
『あら、軍師様が泣き言かしら? データベースを照会したけど、莉愛様のこの前の数学のテスト、平常点を含めても赤点ギリギリじゃない。当然の結果ね』
『現在の無力』と『過去からの断罪』という二重の絶望に、莉愛の心の砦は完全に崩壊した。
絶叫した、その瞬間。ミューズが割って入り、完璧な笑顔でフォローを入れた。
『まあまあ、莉愛様。数学は苦手でも、あなたにはカリスマモデルとしての才能がございますもの。わたくしが保証しますわ』
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、莉愛は魂のツッコミを返す。
「全然フォローになってないよぉ!」
その時、莉愛のパソコンにタワマンの司令室からグループ通話の着信が入った。
画面には、ライブの熱狂冷めやらぬ、メンバーたちの顔が映し出される。
『莉愛ちゃん、元気ー!? 夜瑠っちのライブ見てくれた!?』
あんじゅの明るい声。莉愛はその言葉に泣きそうになりながら「うん」と頷くことしかできなかった。
「(みんなは、私のいないところでこんなに輝いているのに、私は何もできない……)」
その自己嫌悪が、彼女から言葉を奪った。
――シーンは、熱狂に包まれるタワマンの司令室へと繋がっていく。
「すごい! トレンド世界1位!」
エゴサしていたキララの叫び声に司令室が沸く。モニターには【#夜瑠のレクイエム】というハッシュタグが圧倒的な1位の座に輝いていた。
ネットニュースのコメント欄には、「どうせ枕営業だろ」「事務所に捨てられたゴミが何言ってんだか」といった、嫉妬と悪意に満ちた誹謗中傷のナイフが、光の裏で煌めいていた。
「やったね! 夜瑠っち!」
あんじゅがダイブアウトして、まだ少しふらついている夜瑠の肩をバンバンと叩く。夜瑠はその衝撃でよろめくとあんじゅに寄りかかった。
「…少し、疲れました。魂を使いすぎたみたいです」
「本当によく頑張ったよ、夜瑠っち!」あんじゅは、そんな彼女を優しく支えた。
そんな中、キララが夢見るような瞳で窓の外を指差した。「――いつか、私たちもあそこでLiveやってみたいね」
「ったりめえだろ! あたしたちは、リアルでファンの生の歓声を浴びてこそ、本物なんだよ!」
アゲハがニヤリと笑う。
その熱狂に、詩織が冷静な一言を投げかけた。「…でも、どうするの? 私たちにはトレーナーがいないのに」
その沈黙を破ったのは二人のAI姉妹と今宮だった。
『ふん。決まっているじゃない』圭佑の腕時計端末から、キューズアバターが飛び出す。『この私…最高のボイストレーナーがここにいるじゃないの!』
『ええ。そして、わたくしが、皆様のダンスレッスンを担当させていただきますわ』玲奈の腕時計端末からもミューズプライムが現れ微笑んだ。
「兄貴! トレーニング風景、配信するのはどうっすか!?」今宮が扇子をパチンと閉じる。
「ナイス今宮! それだけじゃねえ!」圭佑は新しいプロジェクト画面を立ち上げた。「ファンからのギフトで経験値が貯まるシステムもアップデートする。ファンにアイドルを育てる感覚を味あわせてやるんだ」
「「「おおーっ!!」」」
メンバーたちの瞳に、再び希望の炎が宿る。
その希望に満ちた空気の中、玲奈のスマートフォンに一通の電子招待状が届いた。
差出人は、『ルナティック・ノヴァ』のプロデューサー、氷室零時。
「これは、罠ね…」
「兄貴、罠っすよ!」
だが、圭佑は不敵に笑った。「…いや、行くぞ。これは、最高のチャンスだ」
「(ここで逃げれば、俺は一生、田中の亡霊に怯え続けることになる。だが、行けば、今度こそこの手の中にある温かいものを、全て失うかもしれない…)二つの恐怖が、彼の魂を天秤にかける。(それでも…! それでも俺は、進むしかないんだ。あいつらの前で、もう一度輝くために!)」
「本気なの?」
玲奈が全てを見透かすような、強い瞳で圭佑を見つめていた。
「ああ。俺は、もう逃げねえ」
その言葉を聞いた玲奈は、どこか悲壮な覚悟を秘めた、女王の笑みを浮かべた。「…そう。なら、私は圭佑の剣となり、盾となるだけね」
招待状には、こう書かれていた。
「――来月開催される『天神音楽祭』の最終選考を兼ねた強化合宿へ、貴殿らを特別にご招待する」
【地獄の一ヶ月】
そこから、地獄の一ヶ月が始まった。
午前中は、キューズによる地獄のボイストレーニング。
『違う! 今の音程、2ヘルツ高い! 発声の基礎からやり直し! スクワット100回!』
「うっせーな! ハートで歌ってんだよ、こっちは!」
アゲハの絶叫がスタジオに木霊する。腹筋をしながらの発声練習という無茶なメニューで、全員が美しい悲鳴を上げていた。 まりあは小さな声ながらも完璧な音程で課題をクリアしていく。
午後はミューズによる天国のダンスレッスン。
キララさん、そのターンは、もっと蝶のように。次は、連続20回いきましょう》
スタジオにいるメンバーのほとんどが、動きやすさを重視したTシャツにハーフパンツという格好の中、一人だけ、夜瑠の出で立ちは異質だった。
彼女が身に纏っているのは、一見すると優雅なプリーツスカート。だが、それはダンスのターンをした際に、身体の軸と一体化するように美しい円を描く、特殊な素材で作られた訓練用の『プラクティス・オーバースカート』だった。その下には、身体にフィットするインナースパッツが一体化している。
それは、元トップアイドルとしての彼女の、微塵も揺らがない『美学』と『プロ意識』の現れだった。「練習中であろうと、ファンに見られる可能性がゼロでない限り、最も美しく見える姿でいるべき」――その哲学が、彼女と他のメンバーとの間に、見えない一線を引いていた。
「は、はいっ!」
キララは汗だくになりながらも必死に食らいつく。あんじゅとみちるは、持ち前のセンスで、難しい振り付けもすぐに自分のものにしていく。だが、ミューズの指導は、優雅な見本とは裏腹に、重心の位置が数ミリずれただけでアラームが鳴り響く、精密機械のような厳しさだった。
スタジオの隅では、元アイドル同士である夜瑠とキララが、互いを強く意識した火花散るトレーニングバトルを繰り広げていた。『素晴らしいわ、二人とも。ですが、表現力は夜瑠さんの方が一枚上ね』キューズの言葉に、キララがカチンとくる。ダンスレッスンでも、『キレはキララさん、しなやかさは夜瑠さんね』とミューズに評され、キララはさらに闘志を燃やす。その日から、彼女は一人、自主練を開始した。タワマンのトレーニングルームでランニングマシンの速度を上げすぎて吹っ飛ばされ、膝を擦りむいてしまう。そこへ、夜瑠が救急セットを持って現れた。
「…余計なお世話よ!」
「皆さん、待っていますよ。一人で苦しむより、皆さんと苦しみませんか?」
「ほっといてよ!」
「…私に憧れているかぎり、あなたは私を超える事はできませんよ」
夜瑠はそう言うと、無言で、自らが纏う『プラクティス・オーバースカート』の裾を、僅かに、ためらいなくめくり上げた。その下に隠されたインナースパッツと、さらにその下の、あまりにも生々しい無数の傷跡が残る足首を、キララに見せつけた。それは、彼女がトップの座に君臨するために捧げた、血と汗の結晶だった。
「失礼します」
夜瑠は、そう言い残して部屋を出て行った。
キララは、絶句した。あの完璧に見えた夜瑠が、自分と同じ、いや、それ以上の地獄を乗り越えてきたという事実。その傷跡が、キララの瞳の中で、単なる憧れを、具体的な『目標』へと変えたのだ。
そして一日の締めは、タワマンの周囲を走り込む地獄の基礎体力作り。
「最下位は全員にスポドリ奢りだからねー!」
あんじゅの掛け声にメンバーたちの悲鳴が上がる。その掛け声とは裏腹に、レース終盤、夜瑠とキララが、互いを強く意識し、壮絶なデッドヒートを繰り広げた。
「あいつら、元気だな…」と呆れるアゲハの隣で、あんじゅが「あの二人、なんかあったのかな?」と首を傾げた。
特訓開始から二週間。メンバーたちの心身は疲弊し、チームの雰囲気は最悪になった。練習中に、あんじゅの気の抜けた態度にアゲハが激昂し、二人は掴み合い寸前の大喧嘩になった。その夜、レッスンスタジオに、詩織が全員を呼び出す。「このままじゃ、私たちは勝てない」と。そこで、メンバー一人ひとりが、溜め込んでいた不安や不満を吐き出し、泣きながら互いに本音をぶつけ合う。最後に、夜瑠が「私は、もう一人で苦しむのは嫌なんです」と涙ながらに語り、キララがその手を握った。この夜を境に、彼女たちはただのメンバーから、本当の『戦友』になった。
その過酷な特訓の様子は、ファンによって『#KVenus地獄の特訓配信』と名付けられ、彼女たちの成長はリアルタイムで世界中に共有されていった。コメント欄には、「頑張れ!」「俺たちの推しが一番だ!」といった応援の声が溢れ、ファンとの一体感が、ボロボロになった彼女たちの心を支える、何よりの力となっていた。
【天空への旅路と対決】
約束の一ヶ月後。
俺たちK-Venusは貸切の大型バスで人里離れたプライベートな港へと向かった。
「皆様、右手をご覧ください。あれが、かつて天神財閥の造船所があった場所です」
マイクを握ったのは、水色のバスガイドのコスチュームに身を包んだ詩織だった。その手には、手作りの『旅のしおり』まで握られている。「お前、その格好どうしたんだよ!」とアゲハが茶々を入れ、キララに「アゲハちゃん、静かに!」と怒られる。
すかさず、あんじゅが「えー、あれ絶対、遊園地の跡地だって!」とツッコミを入れ、車内は爆笑に包まれた。
車内では遠足気分で騒ぐキララやあんじゅの横でアゲハがヘッドホンで音楽を聴き、詩織は静かに読書をし、みちるは窓に映る自分の顔でポーズの練習をしている。夜瑠はスマホで俺が昔配信していたゲーム実況の切り抜きをどこか愛おしそうに静かに見つめていた。
その間、玲奈と俺は腕時計端末のキューズとミューズが提案するトレーニングメニューについて真剣な表情で意見を交わし、互いに頷き合っていた。
港には、天神家の紋章が入った白亜のクルーザーが停泊している。流線形の船体に、プライベートプールとヘリポートまで備えた、それはもはや船というより海に浮かぶ城だった。 航海士が、麦わら帽子をかぶった玲奈に「お嬢様、お待ちしておりました」と深々と頭を下げる。
「ええ、ありがとう。今日は、いい天気ね」サングラスの奥で、玲奈の瞳は既に戦いを見据える女王のそれだった。
ボートが青い海を切り裂いて進む。船窓を覗いていたメンバーが「イルカの群れが泳いでる!」と叫び、今宮も「兄貴! イルカっすよ!」と子供のようにはしゃいでいた。その横で、船酔いでぐったりしている夜瑠の背中を詩織が優しくさすりながら酔い止め薬を渡している。船内では、今宮がハマっているスマホの対戦ゲームを俺に勧め、二人で童心に返って熱いバトルを繰り広げた。「うおっしゃあ! 俺の勝ちっす、兄貴!」「くそっ、今のは油断しただけだ! もう一回!」そんな俺たちの姿を、玲奈が呆れたように、しかしどこか優しげに見守っていた。
決戦の地は、海辺の絶壁に立つ、孤島の超高級リゾートホテル『天神オリュンポス』。
「…よく、こんなとこにホテル建てたな」
俺は快晴を仰ぎ桟橋を歩く。
「兄貴…何もないといいですけどね」
港からホテルまでは、床までガラス張りになった専用のロープウェイで向かう。ガラス張りのキャビンからは、どこまでも続く紺碧の海が一望でき、時折、海鳥が窓すれすれを飛んでいく。メンバーたちは、その絶景に歓声を上げ、スマホで写真を撮りまくっていた。
ゴンドラの中で、高所恐怖症のみちるが俺の腕にしがみつき、あんじゅがその背中をさすっていた。
天を突く白亜の城のような外観。ホテルに到着すると、ロビーは床から天井までが一枚のガラス張りになっており、まるで天空にいるかと錯覚するほどの絶景が広がっていた。そのままコンシェルジュに案内され、メンバーたちは併設された最新鋭のスタジオで早速汗を流していた。
案内されたスイートルームの豪華さに、キララとあんじゅはベッドの上で飛び跳ねて興奮していた。一方、俺は「…俺、今宮と同じ部屋かよ…」と、年頃の男子らしく、僅かにテンションが下がっていた。
スタジオでは、夜瑠の言葉をきっかけに吹っ切れたキララが、つきっきりでまりあにダンスを教えていた。そんな彼女の姿を、夜瑠は嬉しそうに見守っていた。
合宿初日の夜。ゲームセンターで、最新の4人協力型音楽ゲームに夢中になっていた俺たちの背後から、氷のように冷たい声が、かけられた。
「――久しぶりね、夜瑠。挨拶代わりに、勝負しない?」
そこに立っていたのは、『ルナティック・ノヴァ』のメンバーたちだった。
ひまりが夜瑠に声をかけ、鏡花が俺たち全員を挑発する。そのオーラは、まるで王者と挑戦者のようだった。
勝負は、その音楽ゲームで行われた。ルナティック・ノヴァは、一切の会話もなく、ただ互いの呼吸だけでタイミングを合わせ、機械のように完璧な連携で最高難易度の曲を『フルコンボ』でクリアする。 対する俺たちは、「そこ、あんじゅのパート!」「アゲハっち、早すぎ!」と口論しながらプレイし、連携はバラバラで惨敗。リアルでのチームワークの未熟さを、徹底的に叩きつけられた。
夕飯はホテル自慢のビュッフェ。ローストビーフのワゴンサービス、チョコレートファウンテン、山と積まれたカニの足。その豪華さに、メンバーたちは目を輝かせ、さっきまでの悔しさを忘れて皿に料理を盛り付けていく。俺と今宮も、どっちが多くの皿を平らげられるか、くだらない競争をしていた。
その後、広大な大浴場へ。檜の香りが漂う内風呂を抜け、岩造りの露天風呂に出ると、満点の星空が広がっていた。「兄貴、やっぱりあいつら強すぎっすよ…」今宮が愚痴をこぼした。
「今宮、気持ちは分かるが、俺たちにはまだLive対決がある。そっちで必ず勝つぞ」俺は今宮の肩を叩いて励ました。隣の女湯から聞こえてくるメンバーたちの黄色い声に、俺と今宮は、思わず顔を見合わせてニヤリとした。
その日の深夜。『天神オリュンポス』の、水面に無数のLEDが浮かび、幻想的な光を放つ巨大な屋外プールサイドが、二つのゲリラライブのステージと化した。
プールサイドのテーブルでは、氷川鏡花が足を組んで座り、誰かと電話していた。そして、もう一つのテーブルに、王のように座る男がいた。
「――やあ、こんばんは。君が、神谷圭佑くんだね。私が、氷室零時だ。今宵の君たちの『作品』、楽しませてもらうよ」
氷室は、純白のスリーピーススーツに身を包み、フレームのない眼鏡の奥から、温度のない瞳でこちらを見つめていた。
第一ラウンド、リアルライブ対決。
ルナティック・ノヴァのパフォーマンスは、まさに圧巻だった。K-Venusは熱量で勝っていたが、ルナティック・ノヴァは歌、ダンス、そして観客へのアピール、その全てにおいて、プロとしての完成度の高さを見せつけた。
結果は、俺たちの惜敗だった。
氷室は、マイクを手に取ると、静かに宣告した。「…学芸会にしては、上出来でしょう。ですが、これは『作品』ではない。もはや、0点ですな」
ステージの下から、流線型の「カプセル型端末」がせり上がってくる。
だが、第二ラウンド、電脳ライブ対決で、戦況は一変した。
「カプセル型端末」に入ったメンバーたちは、剥き出しの「魂」の輝きを爆発させた。そのパフォーマンスは、視聴者の感情に直接訴えかけ、コメント欄は感動と賞賛の嵐となった。同接数は爆発的に伸び、王者の記録を、リアルタイムで抜き去っていった!
その瞬間。プールサイドの片隅で戦況を見守っていた氷室零時の口元から、笑みが消えた。隣に立つ氷川鏡花が、「…ありえない。こんな素人集団が、私たちの『作品』を…!」と、初めて焦燥に満ちた声を漏らす。だが、氷室の目は、モニターの数字ではない。その向こうで熱狂する視聴者たちのコメント欄、その『熱』の本質を分析しようと、冷徹に揺らめいていた。
【天空の悲劇と、聖女の涙】
俺がモニターの数字に拳を握りしめた、その時だった。俺の背後に、一人の宿泊客の男が、静かに立った。彼は、ルナティック・ノヴァの熱心な追っかけファンだった。K-Venusが電脳ライブの数字で上回ったことに、彼は苛立ちを隠せずにいた。その時。
男のスマホの画面に、黒いゴスロリドレスにツインテール、目の下に星のマークがある美少女アバターが映し出され、舌を出して笑った。
『なーにやってんの、この腰抜けクン? 大丈夫。あたしが、手伝ってあげるからさぁ…☆』
アバターの言葉と共に、彼女はスマホの画面を通り抜け、男の精神世界へと侵入する。男の瞳から、意思の光が消えた。彼は、操り人形のように、無表情で俺の背後へと近づいていった。
――ライブが、最高潮に達した、その瞬間。
腹部に走ったのは、理解不能な『熱』だった。(なんだ、これ…熱い…)それが、最初の思考。次いで、その熱が、佐々木と田中に裏切られた、あの炎上の夜の『心の痛み』と重なる。(ああ、またか…また、俺は…)そして、視界の端に映る、玲奈や仲間たちの顔。彼女たちを、自分のせいで不幸にしてしまうという『未来への絶望』が、圭佑の心を支配した。(ごめん…な…)最後の言葉は、痛みでも、怒りでもなく、ただ、愛する者たちへの『謝罪』だった。
「――圭佑さんっ!!」
最初に気づいた、玲奈の悲鳴。それが、SPたちへの、最高レベルの「攻撃命令」でもあった。
その瞬間、時の流れが引き延ばされる。プールサイドの富裕層たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、SPたちが怒号を上げながら犯人を取り押さえる。その混沌の中、氷室だけが、一切動揺せず、むしろこの混沌を面白がるかのように、静かにワイングラスを傾けていた。
「(何が…起きたの…?)」電脳世界にいたK-Venusのメンバーたちは、突然ダイブアウトさせられ、目の前の惨状を理解できずにいた。
だが、本当の地獄は、まだ始まったばかりだった。
ステージ背後の巨大スクリーンがブラックアウトし、先ほどのゴスロリVTuberのアバターが映し出される。
あはっ☆ やっちゃったねえ、圭佑クン!》
不気味に甲高い声が、会場に響き渡る。
みんなー、騙されちゃダメだよ? 今、刺された、あの神谷圭佑クンはね…凶悪な犯罪者なんだから!》
スクリーンに、俺が反社会勢力と繋がりがある、メンバーに違法な薬物を渡している、といった、悪質で、しかし巧妙に作られた、捏造された「証拠映像」が、次々と映し出されていく。ネットの空気は、一瞬にして反転した。
――というわけで、悪徳プロデューサー神谷圭佑は、これにて、完全に『社会的に抹殺』されましたとさ!》
俺の意識は、急速に、遠のいていく。
玲奈の「――ドクターヘリを呼んで! 今すぐに!!」という、悲痛な、しかし、どこまでも冷静な女王としての命令が、夜空に響き渡った。
医務室に運ばれた俺の周りで、氷室がルナティック・ノヴァのメンバーに詰め寄られていた。「…やりすぎじゃないですか!?」
「これが、神宮寺様のやり方だ。嫌なら、降りろ。代わりは、いくらでもいる」
その言葉に、まりあが恐怖で顔を青ざめさせる。だが、今宮が、そして他のメンバーが、彼女の肩を抱き、励ましていた。「大丈夫だ、まりあ。俺たちがついてる」
ホテル屋上のヘリポートに着陸するドクターヘリ。見守るメンバーたちの涙。玲奈は付添人として、そのヘリに乗り込んだ。
急速に遠ざかっていく、仲間たちの泣き顔。
(…ごめん…な…)
それが、俺の、最後の言葉だった。
ヘリポートでは、ドクターヘリのローター音が轟々と響く中、月島ひまりが玲奈の腕に縋り付き、涙ながらに謝罪していた。「ごめんなさい…! 私、こんなことになるなんて…!」
夜瑠が、静かに答えた。「これが神宮寺のやり方です。貴女は、まだ人の心があるみたいで良かったです」
その言葉に、ひまりは涙ながらにK-Venusのメンバーたちに頭を下げた。
――シーンカット
【場所】本土の、総合病院・集中治療室
ピッ、ピッ、ピッ…。
無機質な電子音が、静まり返った部屋に響いている。
俺は、意識不明の重体で、まだ、目を覚まさない。
ヘリから降ろされ、ストレッチャーで運ばれていく俺。「圭佑さん! 圭佑さん!」と泣き叫びながら後を追おうとする玲奈を、医療スタッフが必死に押しとどめる。「お気持ちは分かります! ですが、今は私たちを信じてください!」その言葉に、天神家の令嬢として世界の全てを意のままにしてきた女王が、初めて自分の力が一切通用しない壁に直面し、廊下に崩れ落ちた。
そのニュースは、天神家の本邸で、自室に引きこもっていた、莉愛の耳にも届いていた。
彼女は、宿泊客が撮影した、俺が刺される瞬間の動画を、何度も、何度も、スマホで再生していた。『心配ですわ、莉愛様…』ミューズプライムの静止も、彼女の耳には届かない。
「…ごめん…なさい…。私の、せいで…」
彼女の瞳からこぼれ落ちた、一粒の涙。
それが、机の上に置かれていた、携帯ゲーム機に、ぽたり、と落ちた。
その瞬間。
莉愛は、机の上に置かれていたはずのゲーム機が、ひとりでに起動し、虹色の光を放っていることに気づき、慌ててベッドから駆け寄った。
画面には、ノイズ混じりだが、確かに俺の魂の姿が映し出されていた。俺は、悲しみに暮れる莉愛に向かって、優しく、しかし力強く語りかけた。
『…莉愛。泣くな。お-前は…もう、一人じゃないだろ…?』
「(違う…これは、いつもの圭佑さんの声じゃない…? もっと、温かくて、大きくて…これが、『王』としての、圭佑さんの魂…?)」
俺の言葉は、単なる励ましではなかった。それは、莉愛の魂に直接流れ込む、一つの『契約』だった。孤独だった少女が、初めて、自分以外の誰かと魂のレベルで繋がった瞬間。
「(私、もう、一人じゃない…)」
その確信が、恐怖と自己嫌悪で凍り付いていた彼女の心を、内側から溶かし始めた。
…マスター・莉愛の涙(悲しみ)と、マスター・しずくの魂(希望)が、共鳴》
…奇跡の始まりです》
ミューズの、震えるような声が、ゲーム機を通して、莉愛の心の中だけで、響き渡っていた。
王が倒れた王国を、誰が守るのか。病院の付き添い室で、崩れ落ちたはずの玲奈が、静かに立ち上がった。その瞳には、一筋の涙の跡と、全てを背負う覚悟を宿した、女王の光が燃えていた。
物語は、王の不在という最大の絶望と、聖女の覚醒という最大の希望の兆しを同時に描き、次なる嵐の到来を予感させて、幕を閉じる。
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