格闘技(スポーツ全般)詳しくないし、髙田延彦は生きたエロスとしか認知しとらん私でも、髙田延彦のツイッターとブログの面白さ、感じ過ぎて昇天する!(結局エロスの塊)
まさか、ローラと髙田延彦が同じ類の人種とは。。
今日は何をやってても気分が晴れなかったんだけど、以外な人に元気づけられたな。そういうこともあるんやね。覚えとこ。
と言うわけで、ツイッターでも報告しましたが、今日はとっても体調悪くてリリカル閉店し、帰宅。
来店を考えてくれてた方には本当に申し訳ない。ふがいないやいや。
体を休めるため、布団に入ったものの、眠いわけではなく。ただ、"フランダースの犬"のネロが大聖堂で天に召される時のあのセリフを素で呟いちゃうくらいになんだか疲れてる。
これじゃイカン!ので、ずっと書き損じていた大分の『予科練資料館』について長々と書き綴ろうと思う。
ついこないだあげた、鹿児島『軍国酒場』の記事を読んでくれた方はご存知の通り、私は所謂"戦争モノ"が大好きで、各地の資料館・名所は必ずと言っていいほど立ち寄っている。
その中でも『軍国酒場』をかつてない衝撃と説明したけれど、実は去年の2月に訪れた大分『予科練資料館』が私の中での1番の場所。
なのに、思いがつまり過ぎて、書いては消し書いては消しを繰り返してた。私の心が真っ暗闇にある今だからこそ、書けるような気がする。
『予科練資料館』は、河野さんという方が私物や身の回りのものを集めて自宅の一部で公開・運営されている手作りの資料館。
その想いに賛同した全国の同志からたくさんの遺品や記念品が送られてきて、ちっちゃな資料館のスペースに所狭しと飾られている。
入館料は確か200円(くらい)とHPには書いてあったけど、河野さんはいらないからゆっくり観て行って下さいと和やかに言った。
『予科練』は、特攻隊の訓練所。(と言うより、結果的に特攻することになったというだけで、飛行訓練を含めた普通の訓練所だったのだそう。)
資料館入口には、寄せ書きした日の丸の国旗がいくつも飾られている。
色は茶にくすんでるし、虫か焼けてか穴があいていてボロボロ。滲んだ文字は、近い日に敵陣に散る特攻隊へのメッセージ。
友達からかもしれないし、恋人からかもしれないし、お母さんからかもしれない。
書きながら何を思ったんだろう。お国のためと書きながら、どんな気持ちだったんだろう。
この寄せ書きが読めないのは、時間が経ち劣化しただけじゃなく、きっとたくさんの涙で滲んだからなんじゃないかなと思う。
部屋をぐるりする様に、軍人さん達の写真が飾られている。爽やかで、キリッとして、皆男前。
「この方々は?」と尋ねると、「これは同級生。こっちは教官。これが二つ下の後輩・・・」と説明してくれる河野さん。
そして続けて、「皆、敵の船に飛び込んで死にました。」とアッケラカン(私にはそう見えた)と話した。
写真を撮ったのは特攻する直前で、皆15・16・17歳(上は20代前半)くらいだと言う。
「明日飛行機で突っ込んで死んで下さい」という状況で、私ならこんな風に笑えないや。
そんな友人達の写真を眺めながら、思い出の品を指差しながら、河野さんは嬉しそうに、懐かしそうに話してくれる。青春だったんだな。
一角に、戦友達が残した手紙が多数展示してある。読むと「先に逝く事をお許し下さい。」「娘○○(名前)をよろしく。」と別れの言葉が書いてある。
中には、「皆、晴れやかな顔をしています。」「遠足に行くかのような気持ちです。」と書いてあるものもある。それが見栄か本心かはわからないけど、そう決心していたならそれも切ない。
手紙達はどれも文章は端的にまとめられているけど、きっと書ききらなかった、書けなかったことがたくさんあったんだろうな。
空母から飛び立った後、モールス信号で電報を打つのだそう。その電報も読むことができる。
「モールス信号が途絶えた時、ああ今逝ったな。とわかるんです。」と言う河野さんの声に背を向けて、我慢しながらやっぱりちょっと泣いた。
河野さんに終戦時のことを聞いた。「調度ある部隊が敵の空母に向かう途中で、終戦したと放送があったんです。でも、彼らは帰って来ませんでした。」
私「え、、何故です?」
「さぁ・・・きっとショックで身投げしてしまったのではないでしょうか。」
やっと戦争が終わったのに。もう死ななくていいのに。幸せなことのはずなのに、それでも命を絶つなんて、信じられない。
けど、当時の彼らは戦争に勝つことを生き甲斐にしていたし、そこに全情熱を捧げていたし、そういう教育を受けていたから仕方ないかもしれない。
河野さんが予科練から自宅に帰った時は、「何故生きて帰ってきた!恥さらしめ!」と叔父さんに殴られたんだそう。
「母は泣いて喜んでくれましたけど、私自身、何故(戦場で)死ななかったのか、何故生きて帰ってしまったのか後悔し、恥ずかしかったです。」
今じゃ考えられない価値観。1人の人間の寿命にも満たない間のこと。100年も経たない前のこと。
マネキンは軍服を着て立っている。実際に着られていた軍服で、他の資料館ならガラスケースに入れられるものだけど、河野さんのところでは触ることができる。
銃撃戦にて穴があいた鉄板も、触ることができる。それが河野さんの想いやと思う。
河野さんは、この資料館を「生き残ってしまった罪滅ぼし」「残されたモノの義務」と言っていた。
生きてることが罪なのは、生きてるのに何も頑張れない人。生きてるのに耐えられない人。生きてるのに心が死んでる人。生きてるのに人や自分を大切にできない人。私なのにな。
河野さんは、当然だけどご高齢だ。資料館に行ったのは去年。こないだ大分行った時には寄れなかったので、次は会いに行きたい。
ああいう人こそ、長く生きて欲しい。
大分に行ったら『予科練資料館』にぜひ行ってみて。広島や長崎の国際的な資料館とはまた違うことが学べるよ。
私は、世界一の戦争資料館だと思ってる。
写真たくさん撮ったけど、前の携帯だから文字だけになって読みづらかったかな。最後までよー読んだね。じゃあね。
まさか、ローラと髙田延彦が同じ類の人種とは。。
今日は何をやってても気分が晴れなかったんだけど、以外な人に元気づけられたな。そういうこともあるんやね。覚えとこ。
と言うわけで、ツイッターでも報告しましたが、今日はとっても体調悪くてリリカル閉店し、帰宅。
来店を考えてくれてた方には本当に申し訳ない。ふがいないやいや。
体を休めるため、布団に入ったものの、眠いわけではなく。ただ、"フランダースの犬"のネロが大聖堂で天に召される時のあのセリフを素で呟いちゃうくらいになんだか疲れてる。
これじゃイカン!ので、ずっと書き損じていた大分の『予科練資料館』について長々と書き綴ろうと思う。
ついこないだあげた、鹿児島『軍国酒場』の記事を読んでくれた方はご存知の通り、私は所謂"戦争モノ"が大好きで、各地の資料館・名所は必ずと言っていいほど立ち寄っている。
その中でも『軍国酒場』をかつてない衝撃と説明したけれど、実は去年の2月に訪れた大分『予科練資料館』が私の中での1番の場所。
なのに、思いがつまり過ぎて、書いては消し書いては消しを繰り返してた。私の心が真っ暗闇にある今だからこそ、書けるような気がする。
『予科練資料館』は、河野さんという方が私物や身の回りのものを集めて自宅の一部で公開・運営されている手作りの資料館。
その想いに賛同した全国の同志からたくさんの遺品や記念品が送られてきて、ちっちゃな資料館のスペースに所狭しと飾られている。
入館料は確か200円(くらい)とHPには書いてあったけど、河野さんはいらないからゆっくり観て行って下さいと和やかに言った。
『予科練』は、特攻隊の訓練所。(と言うより、結果的に特攻することになったというだけで、飛行訓練を含めた普通の訓練所だったのだそう。)
資料館入口には、寄せ書きした日の丸の国旗がいくつも飾られている。
色は茶にくすんでるし、虫か焼けてか穴があいていてボロボロ。滲んだ文字は、近い日に敵陣に散る特攻隊へのメッセージ。
友達からかもしれないし、恋人からかもしれないし、お母さんからかもしれない。
書きながら何を思ったんだろう。お国のためと書きながら、どんな気持ちだったんだろう。
この寄せ書きが読めないのは、時間が経ち劣化しただけじゃなく、きっとたくさんの涙で滲んだからなんじゃないかなと思う。
部屋をぐるりする様に、軍人さん達の写真が飾られている。爽やかで、キリッとして、皆男前。
「この方々は?」と尋ねると、「これは同級生。こっちは教官。これが二つ下の後輩・・・」と説明してくれる河野さん。
そして続けて、「皆、敵の船に飛び込んで死にました。」とアッケラカン(私にはそう見えた)と話した。
写真を撮ったのは特攻する直前で、皆15・16・17歳(上は20代前半)くらいだと言う。
「明日飛行機で突っ込んで死んで下さい」という状況で、私ならこんな風に笑えないや。
そんな友人達の写真を眺めながら、思い出の品を指差しながら、河野さんは嬉しそうに、懐かしそうに話してくれる。青春だったんだな。
一角に、戦友達が残した手紙が多数展示してある。読むと「先に逝く事をお許し下さい。」「娘○○(名前)をよろしく。」と別れの言葉が書いてある。
中には、「皆、晴れやかな顔をしています。」「遠足に行くかのような気持ちです。」と書いてあるものもある。それが見栄か本心かはわからないけど、そう決心していたならそれも切ない。
手紙達はどれも文章は端的にまとめられているけど、きっと書ききらなかった、書けなかったことがたくさんあったんだろうな。
空母から飛び立った後、モールス信号で電報を打つのだそう。その電報も読むことができる。
「モールス信号が途絶えた時、ああ今逝ったな。とわかるんです。」と言う河野さんの声に背を向けて、我慢しながらやっぱりちょっと泣いた。
河野さんに終戦時のことを聞いた。「調度ある部隊が敵の空母に向かう途中で、終戦したと放送があったんです。でも、彼らは帰って来ませんでした。」
私「え、、何故です?」
「さぁ・・・きっとショックで身投げしてしまったのではないでしょうか。」
やっと戦争が終わったのに。もう死ななくていいのに。幸せなことのはずなのに、それでも命を絶つなんて、信じられない。
けど、当時の彼らは戦争に勝つことを生き甲斐にしていたし、そこに全情熱を捧げていたし、そういう教育を受けていたから仕方ないかもしれない。
河野さんが予科練から自宅に帰った時は、「何故生きて帰ってきた!恥さらしめ!」と叔父さんに殴られたんだそう。
「母は泣いて喜んでくれましたけど、私自身、何故(戦場で)死ななかったのか、何故生きて帰ってしまったのか後悔し、恥ずかしかったです。」
今じゃ考えられない価値観。1人の人間の寿命にも満たない間のこと。100年も経たない前のこと。
マネキンは軍服を着て立っている。実際に着られていた軍服で、他の資料館ならガラスケースに入れられるものだけど、河野さんのところでは触ることができる。
銃撃戦にて穴があいた鉄板も、触ることができる。それが河野さんの想いやと思う。
河野さんは、この資料館を「生き残ってしまった罪滅ぼし」「残されたモノの義務」と言っていた。
生きてることが罪なのは、生きてるのに何も頑張れない人。生きてるのに耐えられない人。生きてるのに心が死んでる人。生きてるのに人や自分を大切にできない人。私なのにな。
河野さんは、当然だけどご高齢だ。資料館に行ったのは去年。こないだ大分行った時には寄れなかったので、次は会いに行きたい。
ああいう人こそ、長く生きて欲しい。
大分に行ったら『予科練資料館』にぜひ行ってみて。広島や長崎の国際的な資料館とはまた違うことが学べるよ。
私は、世界一の戦争資料館だと思ってる。
写真たくさん撮ったけど、前の携帯だから文字だけになって読みづらかったかな。最後までよー読んだね。じゃあね。









