アニメ『全修。』と「推し活」について
1.「全修。について」
2.「作家主義」と「推し活(キャラ萌え)」の対決としての「全修。」
3.「全修。」と「推し活」の勝利の意味論‐戦後アニメーションとメディアの視座から
4.「全修。」が残したもの
1.「全修。」について
1-3月期に公開されたアニメーション作品ではMAPPAが制作したオリジナルアニメ「全修。」が一番面白かった。日本のアニメ史への自己言及的な側面が強いこともあってかなり批評の対象になっているようだった。いくつか目を通したところ、この作品にはそこで論じられているよりも、まだまだポテンシャルがあるように感じた。そこで、そのポテンシャルについてラフスケッチしながら考えを整理してみたい。
ストーリーについて簡単に触れておこう。主人公は人気アニメーターのナツ子という若い女性。第1話で創作に行き詰まったナツ子は、ふとした出来事がきっかけで自分が子供の頃から大好きだったアニメーション作品「滅びゆく物語」の世界に転生する。「滅びゆく物語」はナインソルジャーという勇者たちが世界の終わりを食い止めるために奮闘するという内容だ。だが、その勇者たちは一人また一人と戦死と精神の崩壊を続ける。いわゆる「うつ展開」を見せバッドエンドを迎える。ナツ子はこの転生した作品中で、召喚魔法によって日本の過去のアニメーション作品のキャラを召喚させ危機をくぐり抜ける。そうしてこのバッドエンドの作品を修整しハッピーエンドへと「全修整」を目論む。「全修。」というタイトルはそこからきている。
本作にはアニメーション表現の面で優れている点がとてもたくさんあるのだが、まずすぐに気づくところでは、ナツ子が召喚する過去作のキャラと各エピソードの世界観のリンクの度合いの高さがある。第1話では「ナウシカ」の巨神兵(庵野作画の)、第2話では板野サーカス作画のミサイル集中爆撃が召喚される。エピソードとどうリンクしているのかは、本作の大きな見どころなので詳述はやめておこう。ぜひご覧になってみてほしい。筆者は家族が寝静まった深夜に叫びそうになった。
第4話ではナインソルジャーの一人のメメルンにスポットが当たる。メメルンはいわゆるエルフで数千年の寿命を持っている。彼女は、社会を改善するための人間たちの戦いが何度も破滅を呼び続ける現実に絶望して、カルト宗教に入信しこの世界を終わらせようとしている。このエピソードでメメルンをその絶望から救うためにナツ子が召喚するのは、なんと「うたプリ」のイケメンキャラなのだ。「うたプリ」のキャラへの「推し活」に目覚めたメメルンは世界への絶望から救い出される。実はこの第4話で一度みるのをやめようかと思った。メメルンの深い絶望を救うのが「推し活」?そんな気晴らしで?こう過る人は多いエピソードだと思う。だがこの第4話こそが本作が提示する2つの世界観が反転する分岐点となっていると解釈できるのだ。第4話はいわばその支点である。順にみてゆこう。
ちなみにメメルンが入信したカルト宗教のモデルはオウム真理教だろう。人間は生きているかぎり必ず悪をなす。そうであれば悪の貯金がより少ないうちに殺してあげることはその人にとって救済なのだ(=ポア)。これがオウムの思想だった。95年に起きたオウム事件をこの第四話にぶち込んだところに本作のキモがある。おそらく。
この第4話以降、ナツ子が召喚するキャラクターとストーリーのリンクの度合いが急に下がる。なんだかよく分からないけど大好きなキャラが出てきて楽しいな~程度の密度に下がってゆく。信頼している批評家の一人もここが本作の惜しいところだと論じていた。だが筆者の見方は異なる。メメルンが推し活に目覚める第4話以降、急に召喚されるキャラが世界観を代表するものから、キャラ萌え的な位置付けに変化しているのだ。その転回点となっているのがオウムの95年。これがミソだ。
2.「作家主義」と「推し活(キャラ萌え)」の対決としての「全修。」
おそらく、本作には95年以前の(主には70年代~80年代)の作家性の要素が強く、何より作家が提示する「世界観」が問われる時代のアニメーション作品と、「推し活」の素材として消費される前提で制作されている現代のアニメーション作品の<対決>という問題意識が背景にあると思われる(他にもそう論じている批評家が何人かおり、筆者独自の説ではない)。「全修。」の前半は「作家主義」が強く、後半は「推し活」の要素が強い。推し活によるメメルンの救済がそのターニングポイントになっているのだ。
もう予想がついていることと思うが、「全修。」は作家主義の作品であった「滅びゆく物語」がナツ子の召喚魔法によって「推し活」の素材へと「全修整」されるという流れで整理することもできるのだ。もうアニメは、世の中について考えるためのものではない。刹那的な推し活の快楽を提供できればそれでいい。もうその流れに抗うことはできないのだ。そんな思想が本作の深い底には、かすかに、だが脈々と流れている。「全修。」というタイトル中の「。」、つまり「ピリオド」は、作者側の意図としては「全修整」の指示、そしてそれの完了の「。」、それにナツ子の人生のリテイクの「。」が重ねられた「。」だ。がしかし、この文脈から改めて眺めると、この「。」は、作家主義の終わり、すなわち世界観重視の作家主義アニメはもう終わったのだ、誰もそんなものアニメに期待していないのだ、そんな価値観はもう「全修整されてしまったのだ「。」」、という意思表示の意味を帯びてくるようにさえ思えてくる(典拠はありません)。
思えば、ナツ子は子供の頃にこの「滅びゆく物語」に感動してアニメーターを志しているのに、「滅びゆく物語」の世界観に「まったく」共感していない。ナツ子が夢中になったのは、あくまでもルークをはじめとするナインソルジャーのキャラクターなのだ。ナツ子はルークなら目を瞑っていても描けると豪語しているが、それはナツ子が物語の世界観ではなく、はじめからキャラに惹かれていたことを意味するのだろう。だから、子供の頃から大好きだった作品のストーリーを全修整することにも躊躇がないのだ(鳥監督とも終始すれ違う)。
アニメ「全修。」はアニメーション作品が「推し活」の素材として消費されることを肯定的に描いている。推し活の全面化によって主人公たちは救われバッドエンドはハッピーエンドへと全修整される。だが、観終わった後に、作家主義の敗北、そしてそれが失ったものの大きさが痛切に突き刺さってくる。制作者がどこまでそれを意識しているかは分からない。だが、この作品からその痛切さを読み取らなかったとしたら、それは本作の魅力を半分も味わっていないことになるのではないかと筆者は感じる。
3.「全修。」と「推し活」の勝利の意味論‐戦後アニメーションとメディアの視座から
さて、日本の戦後アニメーションの商業的成功とは「ヤマト」と「うる星」によって不動のものとなったものだ(諸説あります)。ヤマトは太平洋戦争の「やり直し」、「うる星」は大戦の敗北によって招き入れざるをえなかった日本の政治的状況の「忘却」(目を逸らすこと)によって成り立っている。ヤマトは捏造、うる星は忘却。この捏造と忘却という歴史への態度へ介入したのが80年代の作家主義のアニメーション群ということになる。宮崎、富野、そして押井守。彼らはなんらかの度合いで現実へと目覚めるよう呼びかけていた。
だがその闘いも95年でいったん終了する。山本寛がいうアニメ・イズ・デッドである。オウム事件で創作物は現実に完全に追い抜かれて描くべきものを失った。もう世界観は問われない。いや必要とされない。対象を「所有」する快楽を提供できれば役割を果たす。そんな時代の到来をヤマカンはアニメ・イズ・デッドと表現したのだ。「全修。」第4話でナツ子は、メメルンの絶望に推し活の快楽を与えることによって、メメルンの心を救済する。そのメメルンが入信していたカルト宗教の思想がオウム真理教にそっくりで、オウム事件が95年であったことはよくできた偶然ではないか。さらに95年はWindows95が発売されインターネットが一気に普及した年だ。メディアは一方向のメディアであるテレビから双方向のインターネットへと転換期を迎えた。そこから画面の前で受け取るだけではなく、推し活のようなインタラクティブな要素がないとアテンションを集めるのが難しい時代に突入した。この「95年」を境に世界観アニメは死に、推し活の波に圧倒されることになってゆくのだ。
推し活にはポジティブな面も多々ある。その喜びは人を強く支えることにもつながる。だが、推し活が「他者の所有によって成り立つ」という側面の弊害は簡単には無視できないところがあるように思う。この所有の論理は、なんらかの度合いで宮崎や富野、押井たちがそこから距離をとるために格闘してきたものだ。
他者の所有欲とは、他者の一部しか見ないということを含む。推し活に夢中になっている人はその対象を絶対視する。人間なのだから様々な面があるはずだが、そのごく一面だけを見て絶対視する。こうして他者を簡単に「理想化」する人は、同じ論理によって他者を「悪魔化」もする。いずれも他者のごく一面以外を切り捨てる発想がある。やっかいなのは、以前自分が理想化していた相手をほんのささいな出来事をきっかけに次の瞬間には悪魔化することが、ままあるということだ。
自他の境界が融解していて自我があやふやだと、自分の理想化したい面と、自分のなかの眼を逸らしたい面を他者に投影することがよくあるのだそうだ。心理学に詳しい知人から最近聞かされた。推し活にそういう面があるのは否定できないだろう。もちろん創作物のなかだけで完結していればなんの問題もないのだが、現実の人間に対しても激しく極端な理想化と悪魔化を実行するところがある。現実の人間には様々なグラデーションがあるが、こうなると中間が一切なくなりがちだ。理由なく自分を理想化されたときの居心地の悪さもここからくるのだろう。ちょっと話が逸れた。他者の所有欲に戻ろう。
筆者がいま考えていることの一つに、他者の所有欲の背景には「父になること」の欲望が隠されているのではないかということだ。コミュニティの中で中心に近くて、忖度され気を使われる立場になることの欲望だ。だがそれが叶わないと、せめて自分の理想化した対象が「父」という絶対的な存在であることを願い、それに自己を同一化することで癒されようとするのではないか。だから「推し活」に夢中になる人は、自分が信じているものの価値を下げられるような言説(批評とか)に出会うと激しい拒否反応を起こすことが、ままある。自分が信じている対象が称賛されるのであればその言説がいかに内容が拙くても全肯定するし、反対にその対象を批判するものはいかに鋭くても全否定。よくあることだろう。内容に反論できなければ著者の人格批判にさえ平気で及ぶ。自己と他者の境界が曖昧だから自分を他者に投影している自覚が生じずらいのだろう。
先ほど述べた作家主義の強かった時代のアニメーション作家の宮崎や富野や押井らは、こうした他者の所有欲、そして父になることの他に夢が持てない状況を全力で解毒しようとしていた(宮崎は飲まれたように思うが)。だが95年以降アニメのその役割は終わった。つまり「全修整」された。アニメ「全修。」はこの状況をどう受け止めるべきかという、「問いの投げかけ」の作品なのではないか。推し活は楽しい。それはいい。だがあらゆる創作物が推し活の素材として消費されるとしたらそれはどうなのか。19世紀には文学が、20世紀には劇映画が、社会と個人(政治と文学)をどう繋ぐかを考えるための媒体であった。では今その役割は「何が」果たすのか。もういらないのか。そんな問いの投げかけだ。筆者は作品に妙に惹かれるものを感じて、珍しく何周か観たのだが3周めにそう思い至った。
4.「全修。」が残したもの
だが、この見方もまだ浅いところがあるように思っている。「全修。」の後半にナツ子が召喚するキャラはストーリーとの接点を失っている。たんなるキャラ萌えに甘んじている。推し活の素材に耽溺している。深さがなくなっている。たしかに、深さを失った世界とどう対峙するかという問いは、ぎりぎりのところで読みとることは可能ではあるが。だが、もう少し考えたい。「深さを失った」からこそ「推し活」は深く物事を考えずに耽溺できる逃避先を提供することができるのだという論理を、たんなる恥ずべき幼児性として退けることも、やはり簡単にはできない。「安っぽさ」には「安っぽさ」の洗練がある。そうした要素が果たす役割についても一度真剣に考えなくてはいけない。どちらかというと筆者はそうした「安っぽさ」の役割りを、乗り越えるべき幼児性と考えすぎていたところもあるような気が、最近するようになってきたのだ。安っぽさの洗練、人を支えること。もう少し、そんなことの意味について考えてみたい。「全修。」のラストでナツ子が現実に帰ってきてナインソルジャーの面々とすれ違うシーンを観て、そう思った。ナツ子は、「滅びゆく物語」の「世界観」ではなくナインソルジャーという「キャラ」を人生を捧げるほど愛したからこそ、現実で他者に思いやりをもって接することができるようになり、そして他者の所有を必要としなくなったのだから。あのラストの意味について、しっかり考える価値はある。そのくらいの射程を持っている作品であるように思える。
(多田圭介)
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