人生とは楽しむことである。
新潟高校の同窓会に呼ばれた。同窓会には「何かを成し遂げた人だけが行ける」というイメージがあったので、俺の出る幕ではないと思っていた。だが、実際に参加して強く感じた。何かを成し遂げていると思っている人間は、あの空間には一人もいなかった。医者でも弁護士でも経営者でも、結婚していても家を買っていても子供がいても、自分は別に何も成し遂げていないと思っていた。根本的にみんないい人たちだった。汚れていたのは、私だった。私が思う以上に人は優しかった。
ミニトークライブが開催され、強制的に登壇させられた。必死に抵抗したが「お前は金を払っていないだろ。体で払え」と言われたため、ぐうの音も出ず、晒し者になった。壇上には元クラスメイトの男が四人いた。一人は二億の借金がある男。一人は六浪して藝大に行った男。一人はとんでもない社会的地位があるのに全然幸せになれなかった男。一人はホームをレスした男(俺)。トークライブと言うか、受難ボーイグランプリだった。こんな馬鹿な男たちでも楽しそうに生きているから、元気を出してくださいね的な時間になった。
二億の借金がある男は「いつ死んでもいいと思っているから傾いて傾いて傾きまくりたい」と言った。六浪して藝大に行った男は「不倫をしたい」と言った。幸せになれなかった男は「幸せになりたい」と言った。私は「霊魂の話がしたい」と言った。同窓会でガヤガヤしている中、私たちが話しても別に誰も聞かないだろうなと思っていた。だが、参加者たちは真面目に話を聞いてくれた。私は「もしかしたら」と思った。もしかしたら、楽しいはずなのに虚しくなるのは自分だけではないのかもしれないと思った。楽しいとされている時間を過ごしても虚しさを覚える。金や女や名誉を得ても「So what?(だから何?)」と思ってしまう。だから、私は「So what?(だから何?)」と思わないで済むものを見つける必要があった。
同窓会で「霊魂の話がしたい」と丹羽哲郎みたいなことを言うのは、私なりの賭けであった。無難なことを言っても仕方がない。ちゃんとやれる人は素晴らしい。だが、壇上の男たちは「ちゃんとしないをちゃんとやる」男たちだった。君子は危うきに近寄らない。だが、名人は危うきに遊ぶ。どう稼ぐかとか、どうモテるかとか、どう健康になるかとか、この世的なお役立ち情報は無限にある。だが、それらは肉体の話であり心理の話である。肉体でも心理でもない、その奥にある霊魂や霊性や精神性の話がしたい。だが、そんな話を日常的にできる人なんて滅多にいないから、占いやスピリチュアルがこれだけ流行る。笑える話や泣ける話はたくさんある。だが、何かが足りない。どうしても虚しさを覚える。永遠(悟り)に触れた衝撃を叩きつける。それが、真骨頂だと思う。
自分が本当に愛するものを見つけること。それが人生の中心であり、人生のすべてだと思う。何かを成し遂げている人なんて一人もいなかった。誰もが途中だった。元気でもいいし、元気じゃなくてもいい。生きている姿を見たいのだと思った。楽しそうにしてくれているのが一番嬉しいのだと思った。神様的なものがいるのだとしたら、それは「こうしなさい」とか「ああしなさい」とか、私たちをルールでガチガチに縛るものではなく、この世の中はひとつのプレイランドみたいなもので、閉園の時間までできるだけエンジョイするために私たちは生まれてきたのだと言うことを認識させるために存在しているのだと思う。神様は、私たちに「生きていることを楽しんで」と言っている。虚しさのない楽しさ。それが愛だと思う。
おおまかな予定
8月17日(日)新潟県新潟市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


コメント
1心が落ちつく凄く素敵なnoteでした。
読めて嬉しい。
坂爪さん、ありがとうございます。