人間がいかにしてこうした性質を獲得したかというのは、進化理論において未だ解決されていない重要な問題だが、社会生活のあらゆる領域で、人々が他人の話に首を突っ込む傾向を強く持っていることは明らかだ。これは、社会規範を実効化するために即席の協力関係を築くことを可能にするため、社会的安定性を大きく増大させることが多い(例えば、行列に割り込もうとする人や、弱かったり傷つけられやすかったりする人を虐待している人に対して第三者がどんな行動をとるか考えてみよ)。しかし、これが対立をエスカレートさせる場合もある。命を脅かすような暴力の多くはこの第三者効果、つまり、当初の当事者ではなく、当事者によって巻き込まれた「協力者」たちによって生じている。協力者の介入が対立を緩和したり悪化させたりする理由の解明は、犯罪学や紛争研究における大きなテーマである(この点で、マーク・クーニーの“Warriors and Peacemakers: How Third Parties Shape Violence”『戦士と仲裁者:第三者はいかに暴力を形作るか』は推薦してもしきれない)。 久野 津田氏は戦前は、儒教の規範主義、儒教的な抽象的概念主義に対して砲口を向けていた。あるいは日本主義の俗流化された形態に砲口を向けていた。それが、戦後ぐるっと変って、抽象的概念主義の模範はマルクス主義、社会主義、進歩的インテリになった。ルサンチマン(遺恨の立場)はいけないというのが「心」の立場なんだが、戦後のどさくさまぎれに、愚衆を煽動して、学界および論壇を占拠したと思われている進歩的インテリに対する憎悪にみちた攻撃は、ルサンチマンとしか考えられない。
藤田 しかも、ルサンチマンを恥ずべきものと思って隠すでしょう。だから自分のルサンチマンを客観化してその意味を探ることが出来ない。そこから自己発展のエネルギーを汲み出せない。大体「心」同人は病的なものに対する理解力がゼロでしょう。「科学」によって考えれば、病的というのは健全な状態の極限形態でしょう。ある環境の変化に適応して、それを切り抜けるために起る有機体の健全な反応が病的症状ですから、それ自体健全なんだ。このことはおわかりでない。病的なことは全部不健康だと考えている。だから憎悪もいけない。それからファナティック(狂信的)なことは全然いけない。ミトス(神話)が大嫌い。だから修身教科書的になるんです。マルクス主義は法則を歴史社会の中へ持ち込んで、憎悪の正当性を証明することによって、それを客観化する。そこで自分の内側を見詰める余裕を与えてくれる。そこで自己発展のエネルギーが出てくる。この意味が「心」にはわからない。
久野収、鶴見俊輔、藤田省三『戦後日本の思想』岩波現代文庫
clnmn国民は全体に奉仕しなければならないとか、自分の言い分ばかり言うのはあやまりだとか、愛国心とか、クッションになっているものは、やはり共同体的愛とか、あるいは分裂とか対立をこえた日本型共同体の考え方であるわけです。これが「心」グループを政治上日本型保守主義にするところだと思います。日本型共同体では対立が本来ない、あってはならないわけですから、本当のトレランス(寛容)は必要がない。寛容とは、対立する相手に対してこそ意味をもつ。逆に本当の専制、ファシズムも必要ではない。なぜならファシズムとは、対立する相手に寛容出来ず、権力によって圧殺する。いずれにしても対立する相手を予想する。だから専制も必要でないし、寛容も必要でないような以心伝心的日本型共同体の一国一家水いらず意識が、進歩主義と反動主義とのバランスを取るクッションとしてある。そういうクッション、共同体意識は過去からの伝統としてとらえられている場合もあるし、無の場所としてとらえられている場合もある。いずれにしろ、この考え方は、存在として過去は有だ、観念として未来は無だ、そして現在の場所でそれを融合する。過去の立場である反動と、未来の立場である革命を現在の生活の場で融合する、現在の生活が非常に大切だ。現在の場で融合できないものは、固定的ドグマか、抽象的観念だ。そういうものはたてまえだけにしておけという考えで、わりに日本人の考え方を、集中的に表現しているんじゃないかと思うんです。つまりイデーとダーザインの緊張を解除した共同体主義ですね。だから経済上政治上の対立ばかりを主張する立場に強い嫌悪をもつわけです。久野収、鶴見俊輔、藤田省三『戦後日本の思想』岩波現代文庫#quotes
clnmnところが、文学的な方法に頼るためにそれ自身いろんなまずい点を生みだした。文学的な方法はまずくいくと、動機の過剰というか動機の洪水を起して容器からあふれる。動機自身が流失してくる。この点が『近代文学』にも見られる。しばしば『近代文学』の論者は、ゴシップに等しい素材を使って人を叩く。久野収、鶴見俊輔、藤田省三『戦後日本の思想』岩波現代文庫#quotes
clnmnまえにわたしは、転向とはとくに再転向を意味するといった。つまり、はじめに共産主義への転向(第一の否定)があり、つぎに共産主義からの再転向(第二の否定)があって、この後者が一般に「転向」という名でよばれるという意味である。そしてわたしがいいたかったのは、第一の否定のなかに第二の否定(再転向としてのいわゆる転向)の秘密が多少ともひそんでいるということだった。ある人がどのような動機や経過によって共産主義へ接近したかという過程のなかにこそ、なぜその人がそこから離脱したかという事情の秘密のひとつがかくされているということだった。(…)しかしここでは個々の場合にふれることはできない。なぜ大量的な転向がわが国におこったかという問題の基本点だけにふれておく。この現象のかげにはひとつの特殊な事情がある。戦前の共産主義者たちのおおくは非合法下の「職業的革命家」だった。そしてその政党は少数精鋭の人々から成立する集団だった。戦前の革命的な労働組合についてもほぼおなじようなことがいえるだろう。この点は、戦後の党や革新的な大衆団体とくらべての、おおきなちがいである。かつて小林多喜二の作品、『党生活者』の登場人物について、主人公の共産主義者が助力者の一女性にたいしてとった態度が論議にのぼったことがあった。要するに、市民的(あるいは民主主義的といってもいい)モラルの問題である。いまその論議は別としても、一般に戦前のぱあいには一種の「滅私奉公」が不可避だったといっていい。そこには自他の私生活を犠牲にして一種の公生活ともいうべき党生活に献身するという身がまえがあったし、これは当時の状勢のもとではある程度までやむをえなかったといえよう。わが国における民主主義的伝統のよわさとともに、絶対主義のもとでは個人としての、私人としての全面的な思想改革、思想改造をなしとげる条件にとぼしかった。したがって、しばしばあわただしい過程をとって運動への突進がなされたため、ひとたび自己のまえに意外な困難がたちはだかり、自己の全身をささげていた組織がくずれさるとき、大量的な転向がおこったのはむしろ必然だった。こうして、かつて一度はあっさり否定しさったはずの自己の個人的生活、市民的環境のなかへふたたびおちこんでしまう。そして直接には自己の家族のなかへたちもどってしまう。当時の支配権力が転向へみちびくためこの家族制度の力をかりたのは、偶然ではない。絶対主義的な天皇制と家父長的な家族制度。かつての日本帝国の憲法と民法、そして「家族国家」というイデオロギー。戦前の天皇制がこの家族制度というものをわが国の「淳風美俗」として大切にしたのは、もっともである。家族はけっして政治的に中立な休息所ではなかったのだから。古在由重『思想とはなにか』岩波新書、1960年、pp. 148-150#quotes
clnmnわれわれのもとには「転向」という独特な用語がある。もともとこの語は、ひろい意味では、あるひとつの思想から他の思想への方向転換を意味したのであろう。しかしわが国ではこのような一般的な意味のほかに、ひとつの歴史的な意味をもっている。すなわちそれは、たんに個人の思想上のできごとをさすだけではなくて、むしろ社会主義(共産主義)運動につらなる特定な歴史的現象をさしている。はじめ(一九二○年代の後半ごろ)は、おもにそれはブルジョア思想から左翼的思想への転換を意味したのであって、当時はこのような思想の転換がすぐなからぬインテリゲンチャをとらえた時期だった。この意味での転向というのは中国語のいわゆる「翻身」であり、キリスト教徒のいわゆる「回心」(コンヴェルシオ)に相当するといえよう。しかしやがて(一九三○年代のはじめごろから)この語は逆に社会主義(共産主義)からの転向を意味するようになる。この意味での転向というのは、満州戦争前後の弾圧の強化につれて大量的にみられたひとつの社会現象であり、かつて否定したはずの天皇制と侵略戦争への屈伏、同意、協力をふくむものだった。それはまた多少ともみじめな敗北感、脱落感、屈辱感にいろどられていた。今日、われわれが「転向」とよぶのはもっぱら過去の日本におけるこの「再転向」の思想現象をさしている。たとえ戦後におけるいくつかの思想現象にこの語が転用されるにしても、その原形はすでに戦前および戦中のこの歴史的事実のうちにあるといえよう。はたしてこのような含蓄をもった用語が外国語にあるかどうか、わたしは知らない。レーニンに『プロレタリア革命と背教者カウッキー』という著作があるが、ここに「背教者」(レネガート)というのは変節者、裏切者、脱落者などの意味である。もともとこれはキリスト教的な用語だった。そしてとくに、キリスト教徒に改宗したイスラム教徒がふたたびイスラム教徒に逆もどりすることについていわれたものらしい。語源からいえば、この「背教者」すなわち英語の“re-negade”も“re-negare”であって、「ふたたび否定する」ことにほかならない。つまり、かつて自己の思想(信仰)を否定して到達したはずのひとつの思想(信仰)を、ふたたび否定しさることである。この意味においては「背教」はすなわち再否定であり、日本語のいわゆる「転向」がむしろ「再転向」をさす事実もそれに照応するとみてもいい。古在由重『思想とはなにか』岩波新書、1960年、pp. 128-129#quotes
clnmn 十年程前にわたしは、『〈在日〉という根拠』という在日朝鮮人作家論を書いた。これにはいきさつがある。青年の頃わたしは、普通「在日」が多く通るような「民族的」アイデンティティを確立するという道をたどらなかった。といって日本人たろうとしていたわけでもない。「朝鮮人」にも「日本人」にもアイデンティファイできなかったわたしにとって、この問題はうまく解けない謎だった。
そのときたまたまぶつかったのが金鶴泳という作家である。金鶴泳は「在日」という問題をまったく新しい相で表現していた。「在日」の生の問題は〝いかに民族的アイデンティティを獲得するか〟ということに還元できない。むしろ差別される人間は、〝いかに自分のマイナスの存在規定を打ち消すことができるか〟という実存上の課題に必ずぶつかる。民族的アイデンティティとは、この課題の中で現れるさまざまな道のひとつにすぎない。これがわたしが金鶴泳から受け取った声の核心だった。金鶴泳を読んで、はじめてわたしは、自分もまた紛れもなく「在日」という存在規定を受けている者であること、そればかりかむしろ、自分のような〝中途半端〟な「在日」の中に、むしろ「在日」であることの現代的な普遍性があるかも知れないということをも理解したのである。
およそマイナーなエスニシティの一員であること、なんらかの「印付き」として差別されつつ存在していること、このことは、「共同体」という原理それ自身に対して心理的に反発したり、それを否認することとはまったく違ったことだ。ここに「在日」日本人という言葉における「在日」と「在日」朝鮮人、韓国人たちのそれとの隔たりがある。
わたしたちはまず自分の存在を「うしろめたいもの」、「マイナス価値」として生きはじめる。そしてこれを、どういうかたちであるにせよ「プラス価値」へと転換できなければ、自分の生を肯定する可能性をほとんど失ってしまうのだ。
金鶴泳は、それまでの「在日」の「民族主義」を、このような実存条件を持つ人間の、アイデンティティ獲得のための「物語」形成として照らし出した。つまり、マイノリティのエスニシズムの本質を、各人の実存の条件の問題として〝普遍的に〟捉えたと言っていい。それが〝普遍的〟であるとは、このようなプロセスを、どんなマイノリティあるいは「印付き」の人間も必ずたどらなくてはならないということだ。
わたしの見るところでは、このようなモチーフをはっきりと結実させた文学は、日本の文学にも他の「在日」文学の中にもほとんどない。そして金鶴泳の仕事は、いわば「在日」という言葉のレベルを一段高めたのである。
ある意味では、現在「在日」という言葉は、「国際化」や「均質的なナショナリティの解体」といった現代的問題に深くかかわっている。つまり、「在日」という言葉は、積極的には、「多様性を認めあう社会」を生み出すためのキーワードとなりつつあるだろう。しかし、わたしはもう一度作家金鶴泳が文学的に表現した「在日」ということの意味に、日本人の注意を喚起したい。
それは、被差別集団のアイデンティティを尊重したり、共同体相互のアイデンティティを認め合うといった現代的な理念に通じているのではない。また一切のアイデンティティを嫌悪するという新しい「物語」にも寄り添わない。それはただ、どんなアイデンティティ(物語)からも〝見放され〟てしまう不遇な生の喩としてだけ受け取ることができる。このことに対する感度を欠けば、わたしたちは人間の生の条件に対する重要な想像力を枯渇させることになるだろう。竹田青嗣『〈在日〉という根拠 増補新版』創元社、2024年#quotes
clnmn私たちは、まず第一に、一般的なカテゴリーとしての転向そのものが悪であるとは考えない。むしろ、転向の仕方、その個々の例における個性的な展開の中に、より善い方向、より悪い方向が選ばれるものと考える。したがって、転向をきっかけとして、重大な問題が提出され、新しい思想の分野がひらけることも多くあると考える。もともと、転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。非転向の稜線に規準をおいて、そこから現代の諸思想を裁くことは、子供の思想によって大人の思想を裁くこっけいをあえてすることになりかねない。思想の科学研究会編『共同研究 転向 1』東洋文庫、2013年、p. 25#quotes
clnmn久野 (…)転向現象には、本来あまり政治的でない人間が、非常に感激し、相当気持の上での無理を押しきって 、革命運動にコミットし、さまざまな圧力をうけて、地金の非政治的世界へ立ちかえるという側面も、私のよ うな体験からすると 、かなり強かったように思うのです。思想の科学研究会編『共同研究 転向 6』東洋文庫、2013年、p. 85#quotes
clnmn時代に対する不適応をわらうのが、今日の日本に優勢な思想である。吉本には偏執狂的性格に特有の視野のせまさがあるが、このようなせまい視野をたもつことをとおしてくっきりと映しだされる日本の側面がある。戦後十五年間だけとってみても、日本思想の各流派内部で根拠なき移動が見られる。このかわりやすさに対立しようとすることは、日本思想全体と対立することにほかならない。この大それた位置のとり方を可能にしたのは敗戦による国策変更によってまじめな下層大衆と少年たちとが、天皇・重臣・支配層・知的指導者に 一時とりのこされてしまった状況に対する私怨である。思想の科学研究会編『共同研究 転向 6』東洋文庫、2013年、p. 56#quotes
clnmnReblogged sociologbookeverythingfoxFollowAt least somebody’s dog enjoys themSource: instagram.com
clnmn▼五十嵐彰著『可視化される差別』が、興味深い実験を紹介している。日本人に「外国人労働者の受け入れ制限の賛否」を問うと、他者に回答内容が見られる時に、より排外的な回答をしたという。本心は排外的でも、罪悪感から他者には隠す傾向が強い欧米とは逆の結果だ▼著者は、日本社会には排外的にふるまわなければならないと錯覚させる「規範」があると分析する。排外主義が多数派だと思い込み、自分も合わせなければと感じてしまう。背景には、芸能人や政治家が排外的な発言をしても他国のように批判されない状況があると(天声人語)日本と排外主義:朝日新聞(天声人語)日本と排外主義:朝日新聞 排外主義に関する海外の事例を調べていて、英語にはさまざまな言い回しがあることに気づいた。最も強烈なのは「外国人嫌悪」だが、「反外国人感情」や「移民蔑視」もよく使われている。排除や排斥を意味する表現の…朝日新聞#quotes
clnmn実存主義者による仕事が文学の領域にかぎられていることによっても分るように、日本の実存主義者は、サルトルやカミユとちがって、実存の中に美学的に安住する型の人々が多い。実存の中に安住する結果、「科学なんかで人生の本当のことがわかるか」というようなひとりごとを言って、科学による本質的把握を拒否するという態度をとる。このことが、実存主義の成果を貧しいものにし、伝承不可能のものとするのだ。実存主義者は「実存は本質にさきだつ」ことを言うのであって、「実存は本質的把握を排除する」とは言わない。本質による把握を徹底的にすすめることにも、実存主義者は面倒がらず、恐れず参加しなくてはならぬ。自己の実存を、あらゆる種類の本質的把握の方法にさらして、ゆすぶるだけゆすぶって見ることが必要である。 実存の中に美学的に安住することは、日本の実存主義者の多くを社会的・集団的行動から切りはなしている場合がある。だが、ぎまんを排することを第一の原則とする実存主義者に最も期待されることは、天皇制下にそだてられた各種のぎまん的・だせい的しきたりと日常的実践の中で戦いつづけることなのだ。日本がふたたび戦前的秩序の中にずりおちてしまわないために、戦後派の実存主義者たちが、今後は時代の所産としてでなく、時代をつくる力として活動することを望みたい。久野収、鶴見俊輔『現代日本の思想 その五つの渦』岩波新書#quotes0 notes
clnmn明治の末に、北が伊藤を批判したという当時は人々の見すごしていた思想史上の一事件が、半世紀をへだてて、現実の歴史上の諸事件の原型となった。われわれの間には思想は本来無力なものだという、それこそ日本の知識人特有のあきらめが成立し、思想は現実にひきずられ現実に適応してゆくだけのものだという、思想軽視を良識とする底流があるが、伊藤にたいする北の思想的対決を見て、その後の日本歴史の動きを見るとき、思想が現代日本においても現実を動かす力となって来たことに確信をもつのである。 北の結論は、花田清輝のいったとおり、ホームランとまちがわれる大ファウルであった。しかし私たちは、北の発想そのものをほんとうに学びきり、克服しきったといいきれるであろうか。私たちは、問題としての北の発想を、これから北と全くちがった仕方で解かなければならないのではないか。久野収、鶴見俊輔『現代日本の思想 その五つの渦』岩波新書#quotes0 notes
Sponsored
clnmnReblogged megane-yarouover-sleepナイス説破www「人が100の称賛より1の批判を気にしてしまうのは、生き残るための防衛本能からくるもの。生物として正しい反応」ていう話を聞いて、めっっちゃ納得した
確かに「あの山で人食い熊を見かけた」よりも「あの山で採れる木の実めっちゃ美味い」が気になっちゃう人 ぜったいすぐ死ぬ
( 由さんのツイート ) 勉強をなぜするのか親に訊いたときに、コップを指して「国語なら『透明なコップに入った濁ったお茶』、算数なら『200mlのコップに半分以下残っているお茶』、社会なら『中国産のコップに入った静岡産のお茶』と色々な視点が持てる。多様な視点や価値観は心を自由にする」というようなことを返され
( レ点🎫6💎90さんのツイート ) 趣味辞めればお金貯まるよ?って死ねば楽になると同じくらい無意味なアドバイスだな
( 社畜OLさんのツイート ) なんで女の子にすっぴんの方が可愛いって言ったら怒るの?ってきいたら お前自分のバイクカスタムしたのにノーマルの方がカッコいいって言われたらムカつくだろ?って返されて納得
( мотоさんのツイート )物理には「単位の違うもの足し引きしちゃダメ」っていう当たり前のルールがあります 8cm-5人とか意味わかんないでしょ? でも文字になるとこういうのやる人がいるので、いかにやばいかを皆さんに理解してもらうためにいい例を見つけました。 これは仕事と私どっちが大事って聞く彼女と同じです
( ひかさんのツイート ) ぶっちゃけ「自分がやられて嫌なことは他人にはするな」という論法はお互いの価値観が一致していないとダメなので意味がない。 突然自宅のポストにマダガスカルゴキブリの標本が入っていたら嫌でしょう? 俺は嬉しい。
( あづさんのツイート ) 大人も目からウロコです!納得のツボをピンポイントで刺激してくる秀逸な例え 6選 ( 笑うメディア クレイジー さんの記事より ) room1038これいちいちふむふむってなるわぁ1,069 notes
clnmn然りおよそ理義の言は皆陳腐なり。これを言ふにおいて陳腐なるも、これを行ふにおいて新奇なり。中江兆民『一年有半』岩波文庫#quotes0 notes
clnmn白樺派の多くにとっては、女中との肉体的な関係をもつことが、最初の深刻な人生問題であった。武者小路、里見、志賀、有島生馬など。久野収、鶴見俊輔『現代日本の思想 その五つの渦』岩波新書#quotes0 notes
clnmn人はほとんどの場合(私自身もだが)、人生を自動操縦のように生きている。その指針となっているのは、早い時期に身につけた自分自身についての自分なりの見方と自分なりの目的を、微調整しただけのものだ。幼い頃からの目的を考えもなしに追求することには──野心の醸成や効率性といった点で──おそらくよい面もあるが、損失もある。思春期、ないしヤングアダルト期に形成した未成熟な世界観によって、人生全体を方向づけられてしまうのだから……こうした状況は(控えめに言っても)見苦しいものだ──あなたが〔神となって〕知的な生物種を創造するとして、幼少期に形成された自己を変えようとせず、感情に半減期というものがなく、時効の発動も極めて困難な、そんな種を設計したいと思うだろうか?ロバート・ノージック『生のなかの螺旋──自己と人生のダイアローグ』井上章子訳、青土社、1993年#quotes
clnmnもしこれらすべてのことがこれから起こるのだとしたら、その理由は、はっきりしている。私たちは、幕末期(一八五〇年代)の尊皇攘夷思想を「抑圧」するという明治期の「過ち」に目をつむり続けて来たので、八〇年後(一九二〇年代)、その劣化コピー版としての皇国思想の席巻という苦い目にあったのだった。それと同じく、戦後再び戦前の皇国思想を「抑圧」するという 「過ち」を繰り返したために、やはり八〇年後(二〇一〇年代)、また新たな尊皇攘夷思想がさらに劣化の度合いを進めたかたちでやってくるだろうことを予期しなければならないのである。加藤典洋『増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』岩波現代文庫、2023年、60頁#quotes
clnmnアファーマティブ・アクションは、人種マイノリティを対象とした取り組みとして始まったが、一九七〇年代までには、女性もその対象に含まれるようになった。実際、一九六四年公民権法は、人種だけでなく、性による差別も禁止している。これは、公民権法に反対していたハワード・スミス下院議員が、法案全体の否決をねらって押し込んだ項目であった。性差別を含めることで多くの反対票が集まるというスミスの予測に反して、公民権法は成立し、性差別の禁止が法のなかに書き込まれた。南川文里『アファーマティブ・アクション──平等への切り札か、逆差別か』中公新書#quotes
clnmn科学技術がそうであるように、思想もまた社会のインフラをなしている。水道や高速道路や発電所が、我々がそれなしでは暮らしていけないものであるとともに大量の人々に危害を及ぼしうるものであるのと同様に、思想もまた不可欠にして危険なものである。なにかを観て把握し、判断して行動するとき、そのすべてには、もはや誰から聞いたのかどこで得たのかも覚えていないような思想が関わっている。損得にもとづいて思想から自由に合理的判断を下そうと努めるときにすら、何が損/得であるのかの把握には思想が効いている。その意味で〈 思想の管理〉という課題に無縁な者は、 この世にいない。本章では、筆者が、こうした発想のもとでここ二〇年ほどにわたっておこなってきた活動のうち、研究の支援活動に関するいくつかを記す。酒井泰斗「〈思想の管理〉の部分課題としての研究支援」、荒木優太編『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』明石書店、2019年、203頁#quotes
clnmnもし七夕様への願い事がかなうなら、この際一つだけお願いしておきたいことがある。それは、二人の二〇世紀哲学者が犯した過ち、すなわち自分たちの哲学の最も重要なコアの部分に、歴史に関わる言葉を一言たりとも交えなかったという過誤を、来るべき世代の哲学者の皆さんが 「他山の石」として二度と繰り返されないように、というお願いである。ここで言う二人の哲学者とは、誰あろう、J・L・オ ースティン(私が問題視しているのは、彼の言語行為論ではなく、 日常言語の意味のニュアンスを説明する彼の詳細な分析なのだが)と、 ルートヴィヒ・ヴイトゲ ンシュタインである。イアン・ハッキング「歴史的存在論」『知の歴史学』岩波書店、p.61#quotes
clnmnこの章は、本書の中でも失望感を与えることの、もっとも多い章の一つである。そこで読者の気を引き立てるため、ここに追って書きをつけ加えることにした。悪玉が善玉で、善玉──つまり読者自身──が実は悪玉だったと知るのは、がっくりとくる経験である。まことにお気の毒だが、著者らはこれを、一度はやらざるを得なかったのである。著者らの経験によれば、問題が実は問題解決者自身に起因する割合は53.27%に及ぶ。そうとすればこの主題について、教訓的一章を付け加えることには、意味なしとしない。ともかくお説教はこれで終わりであるから、読者は次の章からはまた、気分を高揚させ精神の健康に資すること保証つきの、ほかの人たちはどんなにバカか、という話に戻ることになろう。D・C・ゴース、G・M・ワインバーグ『ライト、ついてますか──問題発見の人間学』木村泉訳、共立出版、1987年#quotes
clnmn児島青『本なら売るほど』(1)KADOKAWA、2025年、p.157#quotes#晶文社
clnmn児島青『本なら売るほど』(1)KADOKAWA、2025年、p.24#quotes#晶文社
clnmnRebloggedjaguarmen99Follow(via fSsQXEy.jpeg (736×736)) Source: blog-imgs-165.fc2.com