こわれるまでは #1
【劇的な死】
われるです。
「こわれるまでは」は私の話です。ふわふわとした気持ちで書いてます。
いま、私は地下鉄のゴオゴオとした音に囲まれている。
目が悪いくせに、似合わない気がするという理由で極力めがねをかけない。いまがどこの駅なのか分からない。感覚と車内に響くアナウンスで自分の居場所を探っている。
雨だからなのかいつもはまばらな人々が、今日はいつもより多く身を寄せ合っているように感じる。それでも座れたから私は安心して独特の揺れに、身を委ねている。
冒頭で触れたが私は地下鉄のゴオゴオに包まれている。けれどそれは包まれたり囲まれたりしているだけで、実際はイヤホンをして、その音から逃れている。
まだ覚えられてない、おぼろげな曲を聴いている。掴めそうで掴めない曲調。なんと言っているのかまだ分からない歌詞。真剣に聴いていれば手に入るのだろうか。ただひとつわかるのは、好きな声が私の好きそうな言葉を紡いでいること。それが心地いい。いつかきちんと全てを理解したいと思う。
いま私は、帰りの電車を駅で待っている。電車に乗っている間は文章を書けないだろう。帰宅ラッシュ。その地獄が私を待っている。いや、私がその地獄を待っている。
地獄。死ななければ行けないはずの場所。死ぬということ。
私はたまに考える。
自分の死は劇的なものであると、考える。
おそらくテレビのニュースやアニメ、漫画、小説。それらに影響された思考だと思う。
誰かに突然刺されたり、交通事故だったり、突き落とされたり、言ってしまえば、他者から突然殺される。
そういう想像をする。
私にはいつか劇的な死が訪れると思っている。それは、しにたいとかではなくて、自分が死ぬという想像がそれでしかできないということだ。
私は平和に生きている。確実に。
それなのに、なぜか私は劇的な死を。
待っている。
そのときがくるのを、虎視眈々と。
自分の死はさぞ劇的なものに違いないと信じている。
私は死ぬということへの解像度が低いから、このように、死には劇的なものしかないように感じている。夢のように過ぎ去りそうな。ずっとフィクションの世界。
生きている。いつかは死ぬ。
それを、どこか遠くでみているような。
暖かな日差しに目をふさいでもらって。風鳴りに耳をとらわれて。
そんなことは忘れて踊ろうよと、優しい存在に手を取られたい。そのままいちばん遠い草原に連れて行かれたい。踊り疲れたら草原に倒れ込んでしまいたい。
私は私の愛する人たちが、もし、死ぬのなら、私がしにたい。それがいちばん遠い場所だ。いちばん遠くへ連れて行ってくれる、その手が私を殺すのだ。
だからきっと、私の手を取り踊るのは死神だろう。
死神は優しい手をしているだろうか。
死神は私を遠い草原までゆっくりと連れて行ってくれるだろうか。
死神は草原で寝転び、ケラケラ笑う私の肺が動くのをみるだろうか。
それは突然私の手を取るのだろう。それとも。
私がその手を取ればいいのだろうか。
私は手を引っ込める。その手は汗ばんでいる。
ふん。腕を組む。急に意地悪な気持ちになる。
この手を取ってみろ。踊れない私を踊らせてみろ。草原で草まみれにしてみせろ。
そんなことをしなくても、私はいつか君を抱きしめることになるのだ。
そうしたら目一杯、君を愛でたい。
電車がきた。
何も轢き殺していない電車がきた。
電車に乗る。ゴオゴオと鳴る。感覚で自分の居場所を探る。帰宅ラッシュという地獄におちる。
私が今日も生きている。
コメント