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328日目 通常業務(水やりあり)

328日目


 疲れが取れない。若干目がかすんで微妙な倦怠感がある。まあ、誤差の範囲だろう。熱はないし風邪の諸症状もないから大丈夫だ。


 冷水で顔を洗って気合を入れてから下に降りる。いまだ薄暗い中、例の連中は昨日と変わらない姿勢でいすに座り続けていた。こちらの足音が聞こえたのか、許されている範囲で首を曲げ、泣きそうな顔で見つめてくる。なんかみていて哀れだった。


 とりあえずスルーしてマデラさんの元へ。いつも通りに今日の方針を聞いたところ、『今日は夕方以降の仕事はやらなくていい。躾をせにゃならんから、魔法を使って済ませる。とりあえず水やりだけはおねがいね』と言われた。


 そんなわけで、水差しとコップをもって水やりに。宿屋を考え得る限りの最悪な方法で侮辱したこいつらだけど、いくら俺だって頭から水をぶっかけるような真似はしない。不本意ながら、コップに水を入れて飲ませてやった。女はともかく、なぜこうもむさくるしいおっさんにこんなことをせねばならぬのか。


 連中はようやく水を飲めると思ったのか、すごくホッとした顔をしていた。本当は一杯だけのつもりだったのに、視線だけで哀れになるレベルで訴えてくるので、心行くまで飲ませてやる。


 動かないし騒がないから何ともないと思ったけど、なんかアレ逆に良心が痛むね。俺みたいな善良で心優しい人がアレやられたら、どんなお願いでも聞いちゃうよ絶対。


 水やりを済ませた後は風呂掃除を行う。特筆するべきことは特になし。毎日掃除をしているから常に清潔で、割かれる労力も一般的なそれに比べて少ないのだ。


 その後は野菜の皮むきタイム。今日の朝餉は実にうまそうなどっしりオニオンスープらしく、非常に素晴らしい香りが食堂を包んでいた。思わずお腹が鳴るレベル。どんなねぼすけでもこの匂いにつられて起きだすくらい。チットゥや二日酔いのはずのヴァルヴァレッドのおっさんも起きてきた。


 バタバタとあわただしくしながらも冒険者連中に朝食を持っていく。『ほっほう! 実にいい香りじゃ! これでもってきたのが女の子だったら最高だったんじゃが!』、『お前、何のための使い魔だ? こういう時に使うためのものだろう?』ってルフ老とおっさんに言われたけど、こいつらはいつになったら懲りるのだろうか。


 もちろん、椅子に座り続けている連中の前にも持っていく。が、連中は動くことができない。人が朝早くから汗水たらして作ったものをほったらかすとか、こいつら頭の中どうなってんだろう?


 なお、連中に提供したオニオンスープは寝起きのちゃっぴぃ、リア、ナターシャがおいしくいただいていた。飲みやすいからいくらでもいけるらしい。『宴会後の朝はこれに限る』ってナターシャは言ってた。毒ジュースと一緒に飲むやつが味を語っても信用できない。


 あ、ヒナたちとエッグ婦人も連中の前でケツをフリフリしながら飲んでいたよ。宿屋の衛生的にちょっとどうかと思わなくもないけど、冒険者だって泥だらけの使い魔を連れてくるし、そこら中にゲロをぶちまけるからそれに比べればマシだ。


 朝食を済ませた後は洗濯物に取り掛かり、パパッと洗ってパパッと干す。今日は修繕するものはなし。油染みっぽいのと血の染みを抜くのが何点かあったくらい。落ち難さ的に考えてオークとかオーガとかそっち系の奴だと思う。


 さて、そのほか朝の業務をこなした後は宿帳や帳簿類、その他書類仕事と受付を行う。例の四人組は『とってもゆっくりできました! ごはん、すっごくおいしかったです!』、『お菓子もありがとう! お土産までもらっちゃって……!』、『お金の問題さえなければ、もっと泊まっていたかったけど……いつか、ここを当たり前のように使えるようになってみせますよ』、『あの人たち……まだ座っている……?』っていい笑顔をして旅立っていった。


 どうやら、思う存分ゆっくりできたようだ。宿屋として、あの笑顔を向けられた時ほどうれしい時はない。飯もお菓子もおいしいって言ってくれたし、きっとベッドの寝心地も気に入ってくれたんだと思う。


 なんだかんだでそんな感じで一日を過ごす。夕方ごろにちょっとしたイベントが。


 例の連中は今日も一日中食堂で座っていたんだけど、夕方になってマデラさんが『ちったぁ反省したか?』ってドスを利かせた声でそれはもうめちゃくちゃうまそうなディナーを運んできた。


 当然、連中は動けないから、配膳されて『さぁ、早く食べてください!』とでも言ってそうなそいつらを食べることはできない。昨日の昼から何も喰わず、かつマデラさんの素晴らしい料理を昨日の夜、今日の朝、昼と三回も目の前でお預け喰らっていたからか、みんな泣きそうになっていた。


 空腹がつらいのってよくわかる。食べたいのに食べられないことほど悲しいことはない。それは俺が一番よく知っている。


 まあ、たかだか三食抜いているだけの奴がそれを語ったらブチ切れるけど。空腹と餓えは違うのだ。


 『食べたいかい?』とマデラさん。連中はものすごい勢いで頷こう……としたけどできないから視線だけで訴える。『じゃあ、たべな』ってマデラさんは魔法を解いた。


 『う、ぇ……?』って呆然する荒くれ者ども。何が起こった分からず、信じられないことのように体を少しずつ動かす。やがて、自分の体が動くことを認識すると、ナイフとフォークをつかんで一気にディナーをがっつきだした。


 なんか、泣きながら食っていた。『うう……うめえよぉ……!』、『……ッ! ……ッ!』って、基本的には無言でガッついている。カチャカチャとした食器の音と、形容しがたい咀嚼音がすごかったけど、言葉的な意味でうるさく食べてるって印象はなかった。


 『うまいかい?』とマデラさん。頷く連中。もちろん手は止まらない。


 そして、マデラさんは『あんたたちは、これを踏みにじったんだ』と事実だけを告げた。


 『飯一つ作るのにも苦労する。朝早くから野菜の皮をむいて、スープの出汁を取って。肉の筋を柔らかくする工夫や、魚の小骨を取る工夫だってしなきゃならない。出来立ての温かいものを食わせるってだけでも大変なのに、それを短い時間で大量に、質に差が出ないように作らなきゃいけない。うまいものをちょっとでも安く食べてもらうためには、いろんな市場を駆けずり回って質も値段もいいものを探さなきゃいけない。──もっと言えば、野菜を作るのだって簡単じゃあないんだ』


 マデラさんがそういうと、連中の手は止まった。


 『どうした? 食べればいいじゃあないか。私のおごりだ。いくらでもお代わりしてくれたっていい。腹が減ってるんだろう? ほら、食えよ』


 正直に言おう。マデラさんちょっと怖かった。


 『うまいか? なあ、働かずにして喰う飯はうまいか? 人様が汗水たらしてようやく作った飯を──お客様のためを思って精いっぱい努力して作った飯を、ぶちまけるのは楽しかったか?』


 グランマに言葉で攻められるのってなんかすごく心に来るよね。俺が怒られているわけじゃないのに、なんかすごく申し訳ない気分になった。


 『喰えないってつらいだろう? 腹が減ってるのに、目の前に料理があるのに食べられないってつらいだろう? ──だけどね、せっかく作ったものを目の前でぶちまけられるのだって同じくらいつらいんだ』


 連中、なんかまた泣きだした。根性がないと思う。


 『あんたらがやった事は、つまりはそういうことだ』


 そういってマデラさんは、荒くれ者どもの頭にゲンコツを落としていった。すんげえ痛そうな音がしたけど、いつもみたいに机をぶっ壊すやつじゃない。あれたぶん喰らうと心が痛むやつだ。


 『私の話は以上だ。今の拳骨をもって私からは手打ちとする。飯は好きなだけ食べてよろしい。値段のことも気にしないでよろしい。今晩だけ泊まっていいから、夜明けとともに出ていきな。その後どうするのかはあんたたち次第だ』


 そういってマデラさんは厨房に戻った。『もしまた何かをしたら、次は息の根を止めるよ』って呟いていたのを俺は聞いた。マデラさんだと本当にやりかねないから困る。


 結局、荒くれ者どもはその後すっかりじめじめした感じで飯を食っていた。途中、『おかわり……くれねえかな……?』って全員が申し出てきたけど、意外なことにあんな無駄にデカい体をしているくせに一回だけしかしなかった。しかも全体的に空気がシケている。泣きながら喰う姿も怖い。


 ちょっと離れたところではテッドやアレクシスがぎゃあぎゃあ騒ぎながら飯を食っていたのに、こっちはまるで葬式かのように暗かった。飯くらい楽しく食べてほしいものである。


 風呂を済ませて夜の見回りをして今に至る。書いていて改めて思ったけど、やっぱりマデラさんは甘い。なんであんな連中に慈悲をかけてやるのか俺にはよくわからない。あんな連中、全裸に剥いて路地裏にでも放り込んでいいと思うけど。


 少なくとも、俺にはそうする権利があると思う。食えるのがどれだけありがたいのか、あいつらは一度身をもって知るべきだ。


 腐りかけた残飯をごちそうと思ったことなんて、あいつらにはないんだろう。


 なんか情緒不安定な感じになってきたかもしれない。あれらのことなんてさっさと忘れよう。地味に倦怠感は取れないし、宿屋モードが切れかけている感じもする。微妙に手が震えているのは疲れているからだろうか。


 さっさと寝よう。目のかすみが酷くなってきた。おやすみなさい。

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