動物園の動物は可哀そうなのか
こんにちは、アフリカと子どもが大好きな19歳のハセガワトアです。
最近は心も体も結構調子が良く、趣味にバイトに、のらりくらりかつ忙しく生きています。
もちろん波はありますが、割と楽しく過ごせています。
突然ですが、私は動物園や水族館が大好きです。
受験期に心が壊れそうだった時、よく動物園に行っていました。
なんとかそれで心を満たして、また勉強に励むことができていました。
ルワンダではサファリに行って、野生の動物たちにも会いに行きました。
動物の絵を描くのも大好きです。
自分にはない何かを体現している動物への憧れからなのか、それともどこかで動物に自分の存在を重ねているからなのか、私が動物にたいして心を躍らせる理由は自分でも分かりません。
でもとにかく、動物という存在は私を元気づけてくれます。
でも、動物園や水族館に関しては、様々な意見があるのも事実です。
私自身も、動物園などに対して良くないイメージを持つ時期もありました。
「動物が可哀そう」
「人間のエゴ」
このような意見もたくさん見受けられます。
今回は、そんな意見に対して、サファリや様々な動物園をめぐることで私が考えたことをお話ししていきたいと思います。
動物園の動物は不幸なのか
動物園の動物は可哀そう、野生の方が絶対幸せだ、など、、、
これについては本当に動物園によるなと思います。
これまで私は10か所くらいの動物園しか訪れたことはありませんが、その少ない母数の中でも、あまりにも動物の生活の質が考えられていないなと思うところもありました。
例えば、檻があまりにも小さかったり、日陰や人の目につきにくいところで休める場所がなかったり小さかったり、、。
自分がここに閉じ込められたら辛いなと思うところもありました。
でも逆に、最高だなと思う動物園もありました。
隠れられる場所やゆっくり休める場所が確保されていたり、自然に近い環境をつくってあったり、バックヤードと常に行き来できるようにしてあったりと、本当に動物のことを第一優先に考えられている動物園もたくさんあります。
だから私は、そのような動物園に住む動物は可哀そうとはあまり思いません。
もちろん、本当に動物たちが幸せだと思っているかということは分からないです。
それでも動物にとっての幸せを追求する責任は、人間にあるとは思います。
だから私は、その責任を全うしておられる飼育員さんや動物園の管理に携わる人のことを心から尊敬しています。
生きるのは場所がどこであってもある程度の困難はあるはずです。
野生の動物が、自由で必ず幸せなのかってなるとそうでもないかもしれません。
他の動物や群れの縄張りに入ったら命はありませんし、狩りがうまくいかないと食べていくこともできません。
それに比べて、動物園の動物は命は守られ、愛される権利すら持っているわけです。
これでどっちが幸せかって人間は判断できません。
どの動物も必死に生きて、少しの不幸となんとか折り合いをつけて頑張っています。
だから私は、こっちは不幸であっちは幸せとか、この動物は動物園に入れられて可哀そうだとか、大きな主語で決めつけない方が良いと思うんです。
人間でも生まれた家庭によって大きく人生が変わります。
大企業の社長の子どもとして全員が生まれるわけがないので、それぞれ全く違う環境で生きていきます。
ただ彼らが必ず幸せなのかなんて、彼らではない私には分かりません。
きっとそれぞれに幸せではない一面があります。
私は小学生のころに精神疾患を発症してから、所謂普通の人生のレールからは脱線してしまいました。
人によってはそれを不幸だと捉えられるかもしれません。
でも、私はそんなことは思っていません。
たくさんの良い人に恵まれて、病気になったことで新しい視点も獲得できました。
だから、傍から見て不幸だな、可哀そうだなと思っても、実際はそんなことないなんて例いくらでもあると思います。
それぞれの人生に幸不幸があって、それを本人がどう思ってるかなんて他人には決められないわけです。
病気になって先が長くない動物
先日ある動物園(上の画像は関係ありません)に行ったところ、病気でもう先が長くない動物が一匹いました。
その動物は飼育員さんたちの配慮により、常にバックヤードと展示室を行き来できるようになっていました。
でも私が見に行った時も含めて、その動物は展示の方の部屋で多くの時間を過ごしていました。
なるべくストレスがかからないようにとなされた配慮でしたが、その動物は人目につくところの方が好きだったようです。
私はこの動物を通して、一つのことを学びました。
それは自分の価値観を人に当てはめてすべてを考えてはいけないということです。
私がその動物ならどうしようと考えたとき、恐らく大半の時間をバックヤードで過ごすと思います。
でもその動物は違いました。
これと同じようなことが人間同士でもよくあると思います。
自分の価値観がほかの人の価値観と同じだと思ったら問題が生じてきます。
自分だったらどうだろうという視点はもちろん大切だと思います。
自分がされて嫌なことは人にしないと、小さいころから教わってきたように、その視点が無駄だということは決してないと思います。
でも、自分が嫌いだからと言ってみんなも嫌いとは限らないです。
私は野菜が嫌いですが、野菜が好きな人もいるわけです。
私が言いたいのは、野菜が好きな人の前で、野菜の嫌いなところを挙げていくのはどうなのかということです。
ぶっとんだ話で言うと、動物側は人間が可哀そうだと思っているかもしれません。
人間関係とか大変そうだし、勉強もしないといけない、あんなビルばっかりのところに閉じ込められて緑もあまり見れずに、しかもルールもたくさんあるみたいで可哀そうだよね、あー人間になんてなりたくない!とか思ってる可能性だってありますよね。
動物にこう言われてるとしたらみなさんはどう返しますか?
私だったら、いやいや確かに人間界も大変だけど人間に生まれてよかったって思うことだっていっぱいあるんだぞ!?ってなると思います。
それでも動物に、人間として生まれることが嫌な理由を言われ続けたら何となく嫌な感じがしますよね?
それは、別に望んで人間になったわけではなくとも、人間としてあるていど幸せは感じて、人間として頑張ってきたからだと思います。
自分の好きなものや、自分が信念をもってしていることを否定されるのは誰でもよい気持ちはしないものです。
もちろん反対の例もあります。
自分にとっての憧れが、その当事者にとってのコンプレックスの可能性もあるということです。
私は背が高い人に憧れますが、そうでない人もいるかもしれません。
要は自分の価値観が他人にも当てはまるわけではないということです。
もしかしたら、野生の動物からしたら、命が保障されている動物園の動物は憧れの対象かもしれません。
精神疾患でも私は自分のことを不幸だとは思っていませんし、動物園の動物も彼ら自身では不幸だと思っていないかもしれません。
だから、動物園はひどい存在だと決めつけて、その飼育員さんや管理人の方々を批判するのは違うと私は思います。
あまりにも動物のことが考えられてない場所ならまだしも、大きな愛情をもって動物のために努力をしている方々に対しても、大きな主語で批判するのは良くないのかな、と私は思います。
大変長くなってしまいましたが、動物園に救われてきた私が動物園に対して思うことはこんな感じです。
人間同士でも価値観の違いを忘れるとたくさんの問題が生じるので、つねに人と自分は違う人間だということを忘れずに生きていきたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回の投稿も読んでいただけたら嬉しいです


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