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【つまんない動画論評のお時間です。】 チャンネル名:キクタケ進ch タイトル:「8 15②靖国参拝を終えて」 序論:参拝後の空虚 - パフォーマンスの終着点としての「無」 前回の配信「千鳥ヶ淵戦没者望遠(※墓苑の誤り)」という無知と混乱に満ちた序章を経て、キクタケ氏の終戦の日パフォーマンスは、そのクライマックスであるはずの靖国神社へと舞台を移す。動画タイトル「靖国参拝を終えて」は、一つの神聖な行為が完了した後の、感慨や思索に満ちた報告を期待させる。サムネイルに映るのは、軍服風の帽子を被り、どこか得意げな表情で敬礼のポーズをとる配信者自身の顔のアップだ。この自己中心的な構図は、これから語られる内容が、英霊への追悼ではなく、自己満足の確認作業に過ぎないことを不吉に予感させる。 案の定、わずか6分34秒のこの映像は、前作を遥かに凌駕するほどの空虚さと内容の無さで、視聴者を絶望の淵へと突き落とす。これは、壮大な目的を掲げた旅が、結局何も生み出さなかったことの痛々しい記録である。本稿では、この動画がいかにして「地獄のようにつまらない」アンチクライマックスに至ったのか、そしてその短い尺の中にさえ凝縮された、数々の「明らかに間違えた発言」がいかに彼の「愛国ごっこ」の底の浅さを露呈しているかを、徹底的に解き明かす。 第一部:アンチクライマックスの解剖学 - なぜこの動画は絶望的に空っぽなのか 6分という短い時間は、通常であれば密度の濃いコンテンツで視聴者を引き込むべき尺である。しかしこの動画は、その6分間を持て余し、ただただ無為な時間を垂れ流すことで、一種の芸術的なまでの「つまらなさ」を達成している。 第1章:「参拝報告」に内容が存在しないという衝撃 動画の核心であるはずの「参拝」についての言及は、驚くほど事務的で、感情が欠落している。 感想なき参拝:配信者は冒頭、「今参拝を終えて 参拝はね1時間45分くらい並びました」(00:27)と報告する。以上である。1時間45分という長い時間をかけて本殿にたどり着いた彼が、そこで何を感じ、何を祈り、何を思ったのか。英霊を前にしてどのような心境になったのか。そうした内面的な描写は一切ない。彼にとっての「参拝」とは、精神的な行為ではなく、「1時間45分並ぶ」という物理的なタスクでしかなかったのだ。これは、テーマパークの人気アトラクションの待ち時間を報告するのと何ら変わりない。この一点をもって、彼の目的が追悼ではなく、単なる「参拝というイベントに参加した」という実績作りにあったことが明白となる。 第2章:目的を失った者たちの「うろつき」という名のコンテンツ 参拝という最大の目的を終えた一行は、完全に目標を失い、ただ境内周辺をうろつくだけの存在と化す。 地理的混乱と無計画さ:仲間との会話は「公園行っちゃってる?」(01:22)、「普段 何坂?」(01:52)、「あー読めないやつだ」(01:55)といった、自分たちがどこにいるのかすら把握できていないことを示す言葉で埋め尽くされる。日本の歴史と精神性において極めて重要な場所である靖国神社の周辺地理について、彼らは何の知識も持ち合わせていない。この無計画な徘徊が、動画の大部分を占めている。視聴者は、道に迷った人々の意味のない会話を、ただ延々と見せられることになる。 「お茶しよう」という世俗的結末:神聖な場所での精神的な体験を終えた後の行動が、「九段下の方に降りて行って お茶しようと思ってます」(03:20)というのは、あまりにも俗物的で拍子抜けする。もちろん、参拝後にお茶をすること自体は何ら問題ない。しかし、配信のコンテンツとして、追悼の厳粛さからあまりにもかけ離れた日常的な結論に着地してしまうことで、彼の参拝がいかに表層的なイベントであったかが強調されてしまう。 第3章:ドラマの捏造 - 「敵」を探し求める滑稽な姿 内容の無さを埋め合わせるかのように、彼は唐突に「敵」を設定し、架空の対立構造を作り出そうと試みる。 唐突な「藤岡先生」への敵意:仲間から「教科書を作る会」がいるという情報を聞くや否や、彼は「藤岡待ってろよ藤岡!」(04:02)と、同会の中心人物である藤岡信勝氏(と思われる)に対し、子供の喧嘩のような挑発を始める。文脈もなければ、そこに繋がる論理もない。ただ、自分とは異なる思想を持つ人物を「敵」と見なし、一方的に攻撃的な言葉を投げかけることで、自らを「戦う保守」であるかのように演出しようとしている。この唐突で幼稚な振る舞いは、ドラマ性を生むどころか、彼の思想的未熟さを露呈するだけの結果に終わっている。 第二部:無知と無神経のオンパレード - 短時間に凝縮された過ち この短い動画は、前作に引き続き、彼の知識不足と注意力の欠如を示す誤りの宝庫となっている。 第1章:聖地における地理・漢字の無知 日本の「愛国者」を自称する人物とは到底思えない、驚くべき無知が露呈する。 「何坂?あー読めないやつだ」:靖国神社の大鳥居(第一鳥居)から九段下駅へと続く坂は、言うまでもなく「九段坂(くだんざか)」である。地名にもなり、歌にも歌われたこの有名な坂の名前を、彼らは「読めない」(01:55)と言い放つ。自分たちが今立っている場所の、基本的な地名すら読めない、知らない。これは、彼らの関心が、日本の土地や歴史そのものではなく、自分たちの観念的なイデオロギー遊戯にしか向いていないことの証左である。 第2章:軽率な言葉が示す排外主義的思考 何気ない一言に、彼の思考の危険性が垣間見える。 「忌々しい中国にやられた」:過去に中国人によって靖国神社の社号標が汚された事件を指して、「忌々しい中国にやられた」(04:11)と発言。これは極めて問題のある表現である。犯罪行為を行ったのは一個人に過ぎないにもかかわらず、主語を「中国」とすることで、特定の国家とその国民全体への敵意を煽っている。複雑な問題を「国 vs 国」という単純な対立に落とし込み、排外主義的な感情を刺激するこの物言いは、彼の思考が冷静な分析ではなく、短絡的な感情論に基づいていることを示している。 結論:自己満足の敬礼 - サムネイルが全てを物語る キクタケ氏の靖国参拝動画は、壮大なアンチクライマックスであった。1時間45分並んだ末に得たものは、何の感慨もなく、ただのうろつきとお茶の約束だけだった。地獄のようにつまらないのは、そこに真の追悼の心がなく、歴史への畏敬がなく、ただ「靖国参拝をした自分」に満足する空虚な自己愛しか存在しないからだ。 サムネイルの、カメラ目線で決められた敬礼。その視線は、天上の英霊ではなく、画面の向こうの視聴者、そして何よりモニターに映る自分自身に向けられている。この一枚の画像こそ、彼の行動の本質、すなわち「追悼」をダシにした承認欲求のパフォーマンスの全てを完璧に表現している。空っぽの参拝を終えた彼の顔に浮かぶのは、達成感ではなく、ただ自己満足の薄笑いなのである。
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