【戦後80年】独自・日米開戦前に敗戦を予測した「総力戦研究所」所長の孫・飯村元駐仏大使が語る「なぜ負けると分かっていながら戦争に突入したのか」
祖父は戦後、二つの反省を述べていた。
一つは、「作戦だけを習得し、作戦と本質を異にする 戦争のことを知らない軍部が知りもしない 戦争を知っていると錯覚したこと」、同時に「政治家は軍事を勉強しなかったこと」をあげ、例えばイギリスではチャーチルなどが政治・軍事双方を見ながら、国を指導していたこととの違いを指摘している。
もう一つは、「軍内に下克上の雰囲気が醸成されたこと」を指摘し、「陸軍の実権が佐官クラスの横の連絡により握られた」旨を述べている。さらに「二・二六事件を起こした青年将校たちは、"荒木・真崎"と陸軍大将 、参謀次長を呼び捨てにし、友達扱いにし、直属上官のごときはこれを馬鹿にして言うことを聞こうともしなかった。 軍は軍紀をもって成立する。「下克上」はここに極まり、これはまさに軍の崩壊であった。この下克上の結果が二・二六事件となったのであり、その混乱の結果が 陸海軍大臣の現役制となり、これにより政権は完全に 軍部の手に帰した」と話していた。
祖父は軍人の跳ね上がりを嫌っていたようで、軍人勅諭にある「軍人は政事に関与することを得ず」を厳守することを重視し、また下克上が軍内に蔓延し若手将校が政治に関わるようになったことを嫌っていた。
■アメリカ人に「あなた達、座りなさい!」と一喝した祖父
ーー飯村元大使から見た祖父・穣さんはどんな人だったのか。最も印象深い思い出を。
祖父の性格は温厚で、部下を大切にする人だった。部下の人望がない人物は、戦場で指揮はできないとの考えを持っていたようだ。戦後も戦争前の部下の方々がよく世田谷の自宅に大勢来ておられた。茨城県の筑波山の麓の名主の家に生まれたので、農民的な辛抱強さも持っていた。
また、曲がったことが嫌いで、私の印象に残っている思い出は敗戦から6、7年後に、明治神宮に流鏑馬を見に行った時のこと。当時は、日本にいるアメリカ人がすごく威張っていたのだが、私たち日本人の観客が椅子に座って静かに流鏑馬を見ている前で、アメリカ人たちが立ったまま、群れを成して、観客の前に立ちはだかるようにして写真を撮っていた。次第に祖父は怒りを感じ始めたらしく、大きな声で「あなた達、座りなさい!」と一喝した。そのころは日本で支配的な地位を持ったアメリカ人に皆遠慮しており、アメリカ人を叱ることなど考えられなかったので、祖父の一喝で彼らはびっくりして、恥ずかしそうにすごすごと自分の席に戻っていた。祖父は日本語で叱った。軍人として鍛えた声と迫力で意思が通じたのだろう。子供だった私にとって忘れられなかった。