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【戦後80年】独自・日米開戦前に敗戦を予測した「総力戦研究所」所長の孫・飯村元駐仏大使が語る「なぜ負けると分かっていながら戦争に突入したのか」

2025年8月15日 8:00
【戦後80年】独自・日米開戦前に敗戦を予測した「総力戦研究所」所長の孫・飯村元駐仏大使が語る「なぜ負けると分かっていながら戦争に突入したのか」

 日米開戦の3カ月前、官僚や陸海軍、民間から選抜したエリートからなる総理大臣直属の「総力戦研究所」は「机上演習(シミュレーション)」を行い、「日本必敗」との予測を出した。終戦から80年を迎えるなか、「総力戦研究所」を立ち上げ、所長として苦闘した飯村穣元陸軍中将の孫・飯村豊元駐仏大使は、祖父への思いを語るとともに、なぜ負けると分かっていながら戦争に突入したのかを問い直し、「いまを、戦前にさせない」への教訓を探る。(聞き手 報道局 福澤真由美記者)

■「国としての統一した意思を形成できなかったことがポイントだ」

ーー「総力戦研究所」については、ノンフィクション作家の猪瀬直樹氏の「昭和16年夏の敗戦」をはじめ、本やテレビドラマなど紹介されているが、研究所を立ち上げ、所長をつとめたのは、飯村元大使の祖父・飯村穣元陸軍中将だったとは驚いた。

 自分から祖父のことをすすんで言うことはほとんどなかったが、祖父・穣の長男が繁で、私が父・繁の長男なので、昔の言い方なら、私が飯村家を継ぐことになる。
 祖父・穣(1888年生まれ、1976年没)は、昭和16年(1941年)1月、関東軍参謀長から内閣総理大臣のもとに新たに設立された「総力戦研究所」所長に任命され、ここで日米戦争の予測を行ったことが歴史に刻まれている。戦後、祖父は、このことで名を知られたのを予想外のことと言っていた。祖父にしてみれば軍人である以上、南方軍総参謀長として、負け戦ではあったが米軍とのレイテ島決戦を行った時期が最も強烈な印象を残した時期であったのであろう。だからこそ、晩年脳梗塞で倒れた時に、混濁した意識の中で「米軍を海に叩き落とせ」と叫んだのだと思う。

ーー「総力戦研究所」と言えば、「日本必敗」という予測を出したことでよく知られているが、実際はどうだったのか。          

 当時、各省庁、民間企業、銀行の優秀な職員が内閣総理大臣直属の研究所に集まり、一年間研究生活を送ったこと、特に昭和16年(1941年)8月の日米戦の机上演習(シミュレーション)が行われ、その結果は日本がアメリカと戦った場合、総合国力の差から必ずや敗北するとの結果が出たということだ。

 この演習結果は、官邸において時の内閣総理大臣の近衛文麿に報告されたほか、陸軍大臣の東條英機大将は、毎日のように演習を見に来てメモをとっていたと聞く。しかしながら、日本の国策に反映されることなく、日本は戦争に突っ込んでいったのである。当時の日本は、国内が混乱し、国としての統一した意思を形成できなかったことがポイントだと思う。

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■「総力戦研究所」の7年前に、参謀本部でも「日本必敗」と予測していた秘話
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