【戦後80年】独自・日米開戦前に敗戦を予測した「総力戦研究所」所長の孫・飯村元駐仏大使が語る「なぜ負けると分かっていながら戦争に突入したのか」
■「総力戦研究所」の7年前に、参謀本部でも「日本必敗」と予測していた秘話
ーー政治・軍事指導部は「総力戦研究所」の敗北という予測結果を目にしながら、「開戦」の決断をしたということなのか。
実は、祖父はこの「総力戦研究所」の演習に遡ること7年前の昭和9年(1934年)参謀本部欧米課長のころ、参謀本部内で同様の図上演習を行っていた。そのことは、ほとんど知られていない。
祖父の回顧録を引用したい。
『私は、欧米課長 当時 、我が国には海軍軍縮問題に起因して米国と戦うべしとの意見が盛んに行われたのを見て、日米戦争を口にする人々は米国と戦ったならばどうなるかを真剣に考えているのかを疑った。
永田少将(注・参謀本部第二部長、後に陸軍省軍務局長となり、暗殺される)に代わった 磯谷廉介少将の同意を得て、支那課を含めた第2部の部員を専習員として、米国と戦ったならばどうなるかの図上戦術を行った。
戦時財政を専門に研究している森主計中佐にも参加してもらい、参謀本部の他の部員の参観も随意にした。米軍には 辰巳少佐(注・駐英武官を3回勤め、後に吉田茂首相の軍事問題の非公式顧問になる)がなり、 私の補佐官として記事の編纂に当たったのは磯村少佐 (注・元駐仏武官。NHKのニュースキャスターをつとめた故磯村尚徳氏の父親)であり、 演習は毎日行って10日ほど続いた。
記事は 3部作り、1部は(参謀本部) 第2部に保管し、他の1部は作戦課長になって着任してきた石原莞爾大佐に渡した。1部は私のところに保存したが、終戦後米軍の手に渡さないため焼却した。要は、王手のない敵との戦争がいかに困難であるかを知ってもらうためで、辰巳少佐が想定した敵の進路は実際に行われたものと全く同一であった』
1934年の時点で、参謀本部ではすでに「日米が開戦したら日本必敗」という予測を立てていて、当時の石原莞爾作戦課長も知っていた。1937年の日中戦争の前にも、軍部では日本は日米戦争に負けることを予測していたのだ。しかも、「王手のない敵との戦争がいかに困難である」という勝てない理由を指摘していた。