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広島の声

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長田五郎さん 直接被爆・距離1.6km(平野)
被爆時18歳 / 東京都世田谷区13004

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  前夜来の空襲警報・警戒警報の発令によって、その日の午前2時頃まで起きていたため、1945年8月6日午前8時15分の広島市への原爆投下の瞬間には私は、蚊帳の中で熟睡していた。ドカーンという大きな爆発音と家屋の崩壊する音で、私は目を覚ました。と同時に時限爆弾でも投下されたものだと思って、私は、私の家の庭の真下に流れている京橋川(太田川の支流)に直ちに飛び込んだ。
  しばらくその後の様子をうかがったが、時限爆弾が、破裂する気配もなかったので、川から庭へ上がり、崩壊した家屋に近づくと、家屋の下に私の父・長田新(教育学者・当時広島文理科大学教授・58才)が、血だるまになって、横たわっていた。ガラスの破片などによる裂傷で、全身血だるまになっていたが、父は、力強い声で、「俺は死なんぞ」と私に叫んだ。父の全身は、ガラスの破片などによる50ヵ所の切り傷のため大出血を起こしており、私は恐らく助かるまいと思った。陸軍被服廠工場の中に、看護所が設けられ、負傷者の手当てをしているということを聞いたので、直ちに看護所に、父を連れていった。父は、陸軍軍医から瀕死の重傷であるという診断を受け、手当てを受けた。

  当時私は、東京商科大学(現一橋大学)予科二年の学生であり、たまたま郷里の広島市の父親の家に8月3日に帰省していた。もし私が帰省していなければ、父は原爆投下後の大火災で焼け死んだものと思われる。私の父は、前夜(8月5日)米軍偵察機来襲による空襲警報発令のため、広島文理科大学の校舎に宿直に行った後、8月6日の朝平野町の自宅に帰り、一風呂浴びて、パンツ1枚の姿で、縁側に座って、お茶を飲んでいた時に被爆したのである。パンツ1枚の半裸体であったので、ガラスの破片等によって、全身50ヵ所の切り傷を受けたのである。それは、出血多量の瀕死の重傷であった。
 原爆被爆(爆心地から1.6キロメートル)の時、私は、満18才であったが、8月6日の父の人命救助は、私の生涯における最大の親孝行であったと思っている。その後父は、4ヶ月余り死地をさまよったが、奇跡的に生命をとりとめることができた。

  長田新(1887~1961)(教育学者) 編著『原爆の子』1951年刊 (岩波文庫)

  ○ヒロシマについての私の考えを述べると、次の如くである。
 (1)8月6日は、全人類の核兵器に対する宣戦布告の日である。
 (2)核兵器は、絶対悪である。
 (3)広島・長崎への爆弾投下は、人類史上最大の戦争犯罪行為である。
 (4)8月6日以後、人類は、人類と核兵器とが、敵対的に矛盾する核時代を迎えたわけである。
 (5)アメリカ国民は、原爆投下によって、精神的にも、宗教的にも、道徳的にも敗戦国民に転落したわけである。
 (6)広島の原爆記念碑に刻み込まれている「過ちは繰り返しません。安らかにお眠りください」の言葉は、アメリカ大統領とアメリカ国民の言葉であるべきである。
 (7)現在のアメリカ国家は、民主主義国家ではなくて、核兵器ファシズム国家である。
 (8)日本民族の世界史的使命は、全国民が、打って一丸となって、全世界の核兵器廃絶に向かって、全力を尽くすことである。
 (9)ヒロシマは、人類教育の聖地となる。
(2010年)