釜ヶ崎夏祭り実行委員長山田實さんインタビュー
今年(2025年)54回を迎える釜ヶ崎夏祭り。現在は地域の一大イベントとなっていますが、54回に至るまでどのようなことがあったのでしょうか。またどうしてここまで続いてきたのでしょうか。このインタビューは、釜ヶ崎夏祭りの実行委員長を長年続けておられる釜ヶ崎支援機構理事長山田實さんに2023年お話をうかがったものをまとめたものです。
やぐらも参加者のボランティアで作っている
釜ヶ崎夏祭りのはじまり
―山田理事長は釜ヶ崎夏祭り2回目から参加されているそうですが、今年が52回ですから、釜ヶ崎夏祭りを51回もやっているということですね。
刑務所に入っていた82年と83年の夏はやっていないんです。49回携わったということです。
―1回目がどんな様子で始まったか、どなたかから聞いていますか。
1回目は1972年夏、ちょうどその年の5月28日センターの手配師を束ねている鈴木組と、のちに釜共(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)となっていくグループとが衝突しました。当時の活動家が血みどろで戦って防衛している中で労働者が決起して、大きな暴動に発展していく―寄せ場における手配師の暴力支配をひっくり返していく、「もうこれからは泣き寝入りはしないんだ」という大きなうねりが生み出されたわけです。そのうねりをそのまま一過性のものとして終わらせるのではなくて、ちゃんと組織して日雇労働者への理不尽な暴力支配を無くしていこうということで「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」が形成されていくわけなんです。その流れの中で、夏祭りをやろうと提起されたのです。
―鈴木組との衝突のあと、わずか2ヶ月ぐらいですよね。あわただしくもあります。
勢いがあったのでしょう。当時三角公園(萩之茶屋南公園)には露店がぐるっとありました。その露店の中で、ベニヤの看板を掲げてね、ノミ行為をやっていました。それから路上博打―ドラム缶の上にベニヤ板を置いて缶カンサイコロの賭場が行われておりました。そのような暴力団の地域支配を一掃するという勢いにのった政治的な意向もありまして、夏祭りをやろうということになったとのこと。ただそうした政治的な意向だけでは、今にいたるまでは夏祭りは続かないわけです。お盆に田舎に帰りたくとも帰れない、しょんぼりと膝をかかえて公園でずっと佇んでおらねばならない、そうした人たちの現状をどうするか。日雇いの仕事がお盆で休みといっても、持っている金をギャンブルや酒で吸い上げられてしまう感じですから、やっぱり自分たちの文化を作っていこうという内容が盛り込まれました。当時とても文学にも優れた人がおったんでしょうね、「われらまつろわぬ民、自らをまつらん」という文句を作りました。もともと社会的に排除されているあるいは迫害されている関係の中で、そういった関係に従わない我々、そういう秩序から排除されている我々ということと、ならば自分たちで違う関係性をつくろうということで「まつろわぬもの自らをまつる」ということ、これが第一のスローガンになったのです。いまだにこれに勝るものはないですね。最高のキャッチコピーです。「なるほどなぁ参加しないと」と思わせるのですから。
―当時田舎から大阪へ来て、建設日雇で働くようになった人というのはまだ30代40代ですよね。
30代40代の労働者が中心でしたね。
―故郷や田舎には帰りづらいということが、今よりも大きな問題だったのでしょうか。
帰られる人は帰られるんだろうけれども、ただ、嘘をついてね、帰る。釜ヶ崎に住んでいるとは誰にも言えないわけだから、「阿倍野に住んでます」とか「西成・萩之茶屋に住んでいる」とか言うわけです。萩之茶屋という地名に改定されて町名表記が変わったのが73年だったかな、それまでは萩之茶屋の1丁目あたりは東入船・西入船、消防署のあたりが海道でしょ、でちょっと北側が甲岸町と、今の太子あたりは東田町と言われてました。その時代は今よりもずっとヤクザの組が多くありました。釜ヶ崎支援機構北事務所の近くのビルは酒梅組の本拠だったし、東組はまだ山王にいてはるけどね。当然三角公園も博打場を山口組系溝橋組の枝の枝ぐらいの横山組というのがが仕切っていたという話を聞いております。彼らにしてみれば、言わば自分たちのショバに、若い学生くずれが乗り込んできて、「がちゃがちゃしやがって、ふてぇやろうだ」ということになったんでしょうね。それで聞くところによると奈良の右翼団体と連携して木刀とかツルハシの柄を持って襲撃をかけてきたという話です。
慰霊祭では釜ヶ崎で亡くなった方に心を寄せて『ふるさと』を唄う。
―夏祭りのやぐらを作っている時に襲撃してきたのでしょうか。
夏祭りの最中にやぐらに向けてです。始めてすぐの時と思っていますけどね。彼らにしてみれば、警察は出張ってくるし、夏祭りはショバ荒らしなんですよね。ただのね。
そうですね(笑)。
そこでまた、センターでの鈴木組に対して同様、みんな一所懸命戦うなかで、労働者が決起して「くそヤクザが~」という形で、バーンとなったんですね。労働者の数が圧倒的に多いわけですから、決起してヤクザを追い払っていく。ヤクザが全部西成警察署へ逃げ込んじゃうわけですよ。そうなるとまた「西成署とヤクザはつるんでいる」という形で、西成署に対する暴動が3日間起こっちゃうというのが第一回の夏祭りだったそうです。
―それまでは「西成署とヤクザがつるんでいる」ことを理由とした暴動ってありましたっけ?
「つるんでいる」という形での暴動はなかったと思いますけどね。
―私は90年の暴動の時の警察とヤクザの癒着というのが記憶にまだ新しいです。
あれは「やっぱり!つるんでいる!」ということでね(笑)。90年まではいろいろな博打場に刑事課の〇暴対策の連中が行って、博打場ではカルチェのライターやいろんな外国の高級時計を置いてね、刑事が来たらポケットにしまえるようにわざと並べておいておく。「ご苦労さんです」ってね。それをおもむろに刑事がポケットに入れながら、「明日雨が降るからなぁ」とか言うて帰るらしいんですよ。そしたら「ご苦労さんでした!」と言って博打場の方は送り出す。そうして刑事から情報を得たら、パクられる(逮捕される)要員だけ博打場においてね、重要な顧客は全部逃がす段取りをしてやっていた、そういう話をよく聞かされました。その筋から。そういう風な癒着なわけです。釜ヶ崎第一次暴動の時なんかもヤクザが警察の使い走りで鎮圧側に回るというようなことが行われておったわけで、「何かの折にはお先棒をかついで民衆弾圧にわしら一所懸命がんばりますから、日ごろお目こぼしをしてください」と言うのがだいたい古来からのヤクザのスタイルなんですよね。
―江戸時代からそうですね。
そうそう。韓国の人に聞いたら、韓国でもどこでもそうですと。警察のお先棒を担いで、必ずヤクザが弾圧に入ってきます。そうすることで…点数を稼いでね、お目こぼしをしてもらおうという動きは世界共通だと暴動研究をしている先生から教えてもらいました。「なるほどなぁ…」と思いましたけどね(笑)。
―釜共の方からしてみますと、就労構造の中でヤクザ支配の位置関係を逆転させるという大きな動きが萩之茶屋の北側の労働センターの方であり、南側の三角公園のあたりはどっちかというと就労構造ではなくて、仕事から帰ってきた後の生活過程の部分、これもひっくり返しにかかるというのは、よほど馬力のあることですね(笑)。
それほどに、鈴木組との闘争が革命的だったんですよね。のちに組合に参加することになる、釜共でそのころから一所懸命がんばってた人で大野さんという人の話によると、ヤクザの中では弱小の組が60年代で西成区で91軒あったということですから、そうした弱小のところへ「釜共や!」と乗り込んでいって、がたくる者もいたそうです。「すんません、これで帰ってください」って、映画のシーンと一緒でね、組の人がお金を渡して帰らせたらしいです。
―釜共と名乗った人をお金で帰らせるんですね(笑)。
そうそう、「すんません!今日はこれで…」って言ってね。時代劇だってそうじゃない、ふところにスッとお金を包んで入れて、「だんな、これで帰ってください」って。悪い同心とかそうやってゆすりたかりをやっていたわけじゃない?取り締まりをする側ではないのでちょっと違いますけれど、そうやって釜共を騙ってガタくって、金にしてたんだと思います。ただね、酒梅とか大手にいっちゃうと逆に袋叩きにあって、放り出されたらしいけれど(笑)。釜共と名のっただけで、業者もビビる、ヤクザも一目置く、そういう若い人たちが中心となってこの街の暴力支配をひっくり返した。だから釜共神話が、いまだにずっと残っているのはそういうことなんです。
―第一回夏祭りで、横山組が追い出されて警察に逃げ込んでということがあった時の、三角公園の雰囲気について、どんな話を聞かれていますか。
その時の雰囲気感は聞かなかったんだけれど、私がわかるのは第二回目の時からかなぁ。ちょうど今の古い方の市営第二住宅のエリアっていうのはバラック街でね、まだ解体されていなかったんですよ。新しくセンターは建っているけれど。その一角がバラック街として残っていたんです。そのバラック街の北側の部分に鎌田荘というアパートがあって、そこに釜共の主力メンバーが何人か住んでおってね、そのアパートの前で神輿を作って「夏祭りをやるぞ」という宣伝をして歩こうということになっちゃって、私は7月の20日ぐらいにやってきた新参者でしたから、「これは参加してやらにゃしゃーないな」ってんでね、一緒についていかざるをえなかったのです。
―その神輿はどんな神輿だったんですか。
いやいや神輿とはいいがたい、なんかそこらへんの丸太かなんかを組んで、ダンボールだったかな忘れちゃいましたけど、箱を作ってね、神輿風にして「夏祭りをやるぞ」っていう宣伝のために担いで歩いて行こうってんでね。
―現在のわりと左系の人からだとそんな神道系のものを担ぐなんて…みたいなことを言われそうですが。
そういう発想はないわね(笑)。非常に現実的で素朴な発想だろうね。祭りに神輿はつきものみたいな。それで昔の医療センターの前を通って、今NPO釜ヶ崎の北事務所がある道を通って、つきあたり神戸屋の看板が出ているところがあるでしょ、パンや新聞を売っていた銀座通りの店、その銀座通りに出たところで、直轄警ら隊が飛んで来て、ボコボコにされましてね。
―神輿のためにボコボコにされたんですね(笑)。
それで一緒にボコボコにされて連れていかれて。
―神輿はその時どうなったんですか?
神輿ごと全部西成署へ持っていかれて、我々も2泊3日ね、道路交通法違反でぶち込まれるわけだから。
―200メートルぐらいの神輿巡行だったわけですね。
そうそう。そりゃーだって、許可申請も何もしていないんだから。当時、釜共系はデモ申請しても一切認めてもらえず、釜共の運動は「何がなんでもつぶすというのが西成署や大阪府警の方針だったわけだから、それは覚悟の上でやらざるをえない。「しゃーないなぁ」と。
―神輿担ぎもたいへんですね(笑)。
そこで洗礼を受けてね、で、夏祭り最後の日に警察署から出てきて夏祭りに参加したんですけど、最後8時ぐらいになったら、「やめい!」って言ってね、で、機動隊が制服でなくて、首にタオル巻いた作業服でね、普通の土方の格好をしてね、200人ぐらいが取り巻くわけですよ。ヤグラの周辺には数十人しかおらんのやけどね、200人の機動隊と攻防ですよ。内側に居るのは数十人だけど、外側には労働者がいっぱいでね。機動隊員がヤグラに手をかけてひっくり返そうとするわけです。その時は結局ひっくりかえらなかったけれど、そんな攻防戦がありました。それが第二回目でね。
―山田さんは、2回目の夏祭りの最終日に出てきたから、祭りに向けた準備はしなかったんですね。
そうそう。
―神輿を作ったぐらいで?(笑)
神輿は、ついていったわけだよね、作るというかちょっとだけ手伝って、くっついていって、ボコボコにされて逮捕されてね。
―2回目の夏祭りから金魚すくいとかを一所懸命やっていたわけではないのですね。
いや全然。3回目からは準備も含めてすることになりました。ちょうど73年の暮れの越冬から我々とか稲垣氏とかを軸にちゃんと行政班を作ってきちっと行政に物申していこうということで動こうとした言わば新興勢力と、従来の釜共の人、釜共でも旅団系と呼ばれている人たちとの路線の食い違いが露わになってきたんです。旅団系の人たちは、要するに政治的な位置づけで夏祭りやその他の運動を見ていたから、なかなか次をやろうとはしないわけね。彼らの場合は闘争するために夏祭りを用意するということだったのかな。ところが警察による弾圧もたいへん厳しい時代なので、そうそうケンカもできない。弾圧の厳しさを言うと、第一回目の夏祭りの時も開催前に何人かパクられているわけです。というのは「今度夏祭りをするから寄付してください」というので、商店街を「寄付してください」と歩いているわけだよね。寄付をお願いして歩いた人たちは、恐喝でパクられちゃってね。王さんとかいろんなメンバーがね。そういう状況よ。賃金払ってくれと言ったらこれも恐喝でパクられちゃうとかね。とにかくそういう状況で、釜共というのは全部つぶせと。何をやってもパクッていけというのが、当時の西成署の方針やったからね。そうした中でしたから74年第3回目の夏祭りの時はね、結局は旅団系の人たちっていうのは、総括する時期とかいって、責任もってやれないからというのでひきこもっちゃうわけですよ。
―そうですか…
われわれは獲得した地平は守らなければあかんというので何がなんでも理屈抜きでもやるということで準備していったけれども、いきなりもう準備させないわけですよね。その時はヤグラは稲垣さんとか高柳さんとか、稲垣さんはあまり動いたという記憶がないんだけど、高柳さんとか同じグループのね、動いて段取りしたかなぁ…ちょっと忘れましたけどね、そこらへんは。
―ヤグラはどこから借りたのですか。
当時、名前忘れましたけれど、今の三角公園の西側の線路前にね、なんかしらんオッサンが住んでいてね。
―オッサンが(笑)。
そこに野ざらしで置いてあったそれを貸してくれと借りてね。
―すんなり貸してくれたのですか。
まぁすんなりでもないんだけれど、それで借りて、やりましたね。ヤグラはね、みんなでつくったけれど、誰が主役だったかはちょっと覚えていません。屋台をどうするかという問題があったから、じゃぁ金魚を買いに行くとかね、金魚屋がね今のしょんべんガードを潜ったところにこすがクリニックがあるでしょ、あそこは元は大きな金魚屋の問屋だったの。大きなプールがあってね。そこで、金魚を売ってくれと言ったら「いや釜共には売らない」「売ったらあかんと西成署に言われている」ってね。その南側にパブリックっていう大きな建物があるでしょ、あそこには竹細工屋があったわけよ。そこで竹竿を買おうと思って行っても竹竿も売ってくれない。「釜共には売らない」ってんでね。この街では何にも売ってくれなかった。そうした中でやむなく郡山までね、金魚を買いに行きましたね。
―金魚のメッカ郡山まで行った!
一回行っただけだけどね。でそのあとからは地元の梅南とかにも金魚屋さんがあったりとか、鶴見橋の奥の方にもあったかな…忘れましたけどね、2ヶ所ぐらい金魚屋さんを探し歩いてね、ずっとしばらくは梅南通の金魚屋さんでね調達してやっていました。
こども支援の現場でもあった釜ヶ崎夏祭り
―金魚って大人が遊ぶというよりも子供がメインかなと思うのですが、当時は子どもは参加していたんですか。
子供はね、東萩荘、今の釜ヶ崎支援機構南事務所の南側の東萩荘っていう木造のアパートでね、30メートルぐらいの大きなアパートだったのよ、それと天満荘ってのが、今の南事務所の西横で空き地から駐車場になっていますけど、阪南荘とその横に天満荘というアパートがありましてね、天満荘にはあいりん小中学校の子どもたちが生活保護でだいたい住んでいて、東萩荘も生活保護といろんな雑多な人が住んでいたんだけど、反対側の東萩荘は今宮小学校だった。今度は今宮小学校VSあいりん小中学校というのが、またこれがね、どっちが上か下かみたいなケンカがあってね。
それは子どもたちがケンカするんですか。
子どもたちがケンカでずっといがみ合いがあるわけだよね。私も74年からは天満荘の1階に赤軍ラーメン屋と言われていた勝浦食堂ってのがあって、旧赤軍派のメンバーなんかが引き継いではじめていたのですが、その時にはパクられていてなかったですけど、また若手のメンバーが引き継いで店とか拠点としてやっておりましたので、そこは「しゃーない、手伝おう」ってかんじで、手伝いに行ってたんですよね。ちょうど73年の秋に石油ショックで、タオルとか軍手がなくなるということで、「何とかしよう」っていうんで 「赤軍ラーメン」におった若手の池内さんという優秀な人でしたけれど、非常に現実に沿った路線を出しましてね、やっぱり軍手とか手袋が30円のが50円から100円とどんどんどんどん上がっていくんですよね、安いはずのものが。何とかしようってことで、生協を作ろうという動きをやりまして、それは「オレも賛成だ」ということで、「じゃ一緒にやろう」ってことでね。それで準備会を作って。で、「もう牛乳を売ろう」ってことで、関大生協なんかの支援も受けてと、千里山生協とかに仕入に行って、地下足袋も買いあさって東大阪の問屋を見つけましたね、スピード足袋っていう二流品だけれども、それを買って、タオルは丼池、今の梅田の第四ビルとか第三ビルとかあのへんが丼池という繊維問屋街だったんだけれど、マルビルの裏側、あそこにまだ問屋が残ってて、そこでタオルを仕入れるとかしてましたね。そこがなくなって千里山の方に移ったからそこに行ったときがあるんですけど、最終的には東大阪のスピード足袋を売っているとこでタオルも扱っていたから、そこで全部仕入れるようにしましたけどね。そうやって73年の暮れぐらいから、生協を準備していく。そこで、ただ単に軍手タオルだけじゃあかんから中央卸売市場で購入したチキンラーメンや卵を売ったりとか駄菓子もちょっと売ったりしてね、さらに子供たちも何とかしようって形で。もともと天満荘にいた若い活動家たちなんかが子供たちに勉強を教えていたり遊んでやったりしていたんだよね。それをそのあと私も引き継ぐことになっちゃった。というのはそのメンバーが爆発物取締法違反でパクられちゃうわけです。結局冤罪だったんですが主要なメンバーがパクられたとたん、他の人たちみんな逃げちゃってね、いなくなって、そのあと大家さんがあんた引き受けてくれってことで。オレが新しい名義人になってお金も払って続けるというかたちでやっていたんですよ。ちょうどそのころのこどもたちはね、商店ってのは盗人する遊び場所ってことで、何の罪意識もないわけね。盗って当たり前。「今日はイズミヤへ遊びにいくぞ」ってんで、万引きしにいくわけですよ。そこらへんの駄菓子屋からぱっと盗んできてはね、それをだれが一番ようけ盗ってくるか、みたいな感じやったからね、「これはいかんな」つうこともありましてね。だから軍手手袋を売ると同時にラーメンとかを売って、結局子供たちはひもじい思いをしているからね、ラーメンも食べさす。ただし、ただじゃ食べさせないという形でね。必ず何らかの仕事をしてからやでという形で、「店舗の中を掃除しろ」とか「道路をちょっと掃いてこい」とか言ってね、「そうしたらラーメン作って食べていいよ」と。「卵を入れてね」とかね。そういう風にして人民に奉仕せんとあかんねんということを言うと「山ちゃん、人民に奉仕するってなんね」って言うから子供にどうやって説明しようかなってんでちょっとしどろもどろになった時もあるんですけどね(笑)。
―ただ、なんでも、いわゆる施しみたいなものを求めるのではなくて、とりあえず社会に奉仕して、人民にかもしれませんけど奉仕して、それで自分らの買いたいものを買う、収入を得るっていうのは、実は特掃のアイデア・着想といっしょですよね。
基本的には一緒なんです。施しはやっぱり人間をダメにしちゃう、非常にありがたがってそれを恩に着て一所懸命がんばっている人も数パーセントはおられるかと思いますが、そういった人は「あの時はありがたかったです」と来られる時もあります。非常にうれしいけどね。でも大半の人はね、逆に施しに依存することになるわけです。釜ヶ崎支援機構の福祉部門で面倒をみていた黒木賢治さんとかいろんな人がそうなのよね。結局はしゃーないからじゃまくさいからばっと金を渡して「オレ行くわ」ってことになっちゃう。
―理事長はじゃまくさいから時々お金を渡しますよね。
そうしたらね、待ってるわけよ帰りしなに。チンチン電車の横で日焼けしながらね、しゃーないから500円玉でこちらは逃げちゃうわけね。そうすると結局相手を堕落させてしまうわけです。単なる施しっていうのは大半の人を堕落させてしまう。相手を依存させてしまう。今度金をやらなくなったら、逆に恨みになっちゃうわけね。そういうことをいろんな人から経験しているからなるべくお金を渡さない。渡した方がいいなと思う人も渡さないの。だから施しはよくない。お金を渡す場合は本当はなんらかの社会活動をしてもらって渡すのが一番ベストだろうなといつも思っていました。ただいつもそんなことできるわけではないから私もじゃまくさがってすぐお金を渡してましたけどね(笑)。
ー第3回の夏祭りでは、天満荘のこどもたちも引き連れてという形だったのですか。
そうですね。それと東萩荘のね。
―対立があったんじゃなかったですか。
最初は対立があったのを「ダメだ、仲直りしろ」と言ったのです。小学校4年生ぐらいの女の子がね、ボスみたいなんでね、こりゃ立派に啖呵を切ってね「こらっ」つってビール瓶の箱に片足あげて「このわれー」ってやるわけよ。「はぁ~っ」と感心してねオレも。すごいなと。そん時はその子に、惚れ惚れしましたけどね。
―それはどういう経緯で仲直りがうまくいったのですか。
いや、もう忘れましたけどもね。やっぱり店を軸に色々手伝わせていくわけね。そこでお互い共同作業をやらざるをえないから、最初は遠巻きに見ている子もおるけど、「こっちおいで~」とやって、一緒に作業さすとか。
―いい話聞いてしまいましたね(笑)。
そうするとね人間仲良くなるのよ、やっぱり。同じ作業をするなかでね、うまく意思疎通図らんとあかんからやる前にはね。そこをうまくこっち側で上手にフォローしてあげると、結構うまくいってね。東萩荘と天満荘の子を集めたら、もちろん周辺の子も来ますから、「ふるさと」っていう麦飯販売しているところの上にもアパートがありまして、今でもその建物ありますけどね。焦げ茶色みたいな建物が今でも浜田ビルのとなりにあります。そこに住んでいる子なんかもおりましたけれど、あいりん小中学校の子でね、その子なんかもよく来てね、遊んでましたけどもそうやって、周辺に4~50人おったのかなぁ。そのうちの中学生なんかは、遠ざかって見てたけど、小学生主体で、小学生以下の子も入れて。そうするとね、こどもと付き合うなかでお母さん連中もこちらを観察しているから、見られているとこちらも意識しているんだけど、そうやって手なづけていく。露骨な言い方をするとね。そこで信頼関係を作っていった。「将を射んとせずばまず馬を射よ」じゃないけどね、旦那連中も「コノヤロー」と思っていても「まぁ子供ら面倒みてもらっているから」という形で、ヤクザの親父であろうとなんだろうとね、親父連中ともだんだんそれなりの関係になるわけよね。そういう親父でも三角公園のところで、「刑事が見張ってるから、なんかあったんか、気ぃつけや」と言ってくれるとか良くしてくれたよ。子供たちも「あそこにおまわりが来たけど水ぶっかけようか」だなんて言ってね、子供たちも含めて地域がね、西成署に対しては快く思っていなかったからだろうね。暴動の時の警察の動きや、親がいじめられてとか、いろんなのを見ているから。そんなかんじで天満荘を軸とした自分の住むエリアでは、安全な領域を自分で作っていくというかね。自分の世界を作っていった経緯があるんだけどね。いずれにしてもそういった内容でもって子供たちに「夏祭りを助けてくれ」と。「やりたいやろ」ということも含んでね。だからこども主体の計画として、そのあともずっとやっていったんです。
―それはどのくらいまで続くんですか。
70年代はほぼそういった形でした。子どもたちを軸に。
釜ヶ崎の子供たちと中之島の市庁舎へ
―子供たちも自分らの住んでいる所の近いところで、お祭りをしたいということがあったのでしょうね。
そう、76年か77年の時ぐらい、大阪市が公園を貸さないと言ってきたことがあります。その時に「実は困ってんだ」と子供たちに相談してね、「貸さないと言ってる、夏祭りができない」と言ってね。「みんなで、抗議に行こう」と言うとね、みんな「行く」って言ってね、20人ぐらいか何人か忘れましたけど引き連れてね。
―子供たちも行ったのですか。
子供も中之島の市庁舎へ行ってね、公園課が中にあって、課長にうまいこと会えてね。そこの部屋で話をしましたね、「何で貸さないんだ」ということで。子どもはね、落ち着いていないから、釜ヶ崎の子供はね、机の上に登って、電気の球グロー球を外す子もおれば…
―それはお金にするためですか。
いやちがうちがう、とにかく落ち着かないんだよ。役人がハッキリ返答しないから、いらいらしてね、暑い中、濡れタオルでね、課長に向かってパシーンパシーンとシュポーンシュポーンとやって、顔にパシッと当たるわけよ。「あぶない!ボクそんなことしちゃダメです」って課長もね。苦虫をつぶして、怒鳴るわけにもいかんからね。「うわー、これオレもこれでパクられるなぁ」と思ったよ(笑)。
―その時は大丈夫だったんですか。
「なんで貸さへんねん」って子供がね、濡れタオルでピシっピシっとやるわけよね、それとか外側でドアの真鍮の丸いノブなんかをがちゃがちゃいじって解体する子もおったりしてね。破壊力がすごくてね。「ボクそんなことしちゃいけません」言うてもやね。「ボク」というレベルじゃないから。だからね、それは魅力がありましたね。釜ヶ崎の外の子どもたちは青白い顔でね覇気がなくて同じ顔をして同じ服装をしてぞろぞろと無気力で歩いているだけだけども、ここの子はひとりひとりそれぞれ輝いていてね、非常に貧乏で苦しいけれど、輝いて生きてるって感じがしました。非常に魅力ある子供たちでしたね。もちろんいろんな事件もありましてね、相手をケガさせて、入院しているその子のお母さんに謝りにいかないといけないけども、紋々入れた親父の息子なんかにケガさせちゃっててね、その子供たちの代表で行ってくれと行かされたりしてね。たまたま向こうも、いろいろと外から見て知っている人だったので「釜共や」ということでわかるから、おさめてくれましたけどね。そんなんで70年代の終わりぐらいまでは、そうやってこどもたちと一緒に夏祭りをやっていました。彼らがおるからこそ私もいろいろ用意してやったようなものでね。大変でしたよ。ヤグラ作ったりとか段取りとか、丸太の段取りから夜店の段取りからね。
夏祭りの屋台(2015年)
現在は釜ヶ崎で活動する団体がいろいろな屋台を出店している
―そういった現場の段取りと言いますか、今でも山田理事長に、実行委員長に任せれば何とかなるというのがありますけれども、その辺の御自身の感覚というものはその当時に築かれのですか。
とにかくね、誰もやらないんだから。能書きはこくけれど。運動はしたいけど、そんなことしたくないよと言う人がほとんどやったからね。まぁ子供がおったからね、子供たちがいっぱい。それでやれたんかなぁと思いますけどね。
日雇労働者の運動と夏祭り
―その後、子供たちはだんだんこの地域からいなくなって…
私の方が、中島組闘争を経て、刑務所に入らんとあかんということが分かってきたからね、上訴して引き延ばしやっていたんだけど、いつまでも引き延ばすことなどできっこないわけですから、そうこうしているうちに子供たちとも、中学校ぐらいになると大きくなるからね。全体の比重が変わってきました。79年ぐらいからセンターを軸にもういっぺん仕事が出始めまして、私のスタンスも地域の子供とかそういうエリアからね、やっぱりちゃんと本来の労働センターの方に向かわんとあかんなぁという時期でもあったので、徐々に引いていくことになりました。生協の方も高柳さんと言う方がやるということで、その連れあいさんがやってくれましてね、それでセンターの方を軸にするということで私はだいたい動いていくことになりました。80年からセンターを軸に賃金闘争を組織する。本当は79年にね、労働者の要望があってやろうと思ったのですが、主体的な力量が整わなくて、ちょうどその時の書記長をやっていた深田君が、結核で阪南病院に入院している、そんな時期もありまして、なかなかちょっと難しいなぁと言うのがありました。それと中島組闘争というのが78年にあって、その勢いを借りて旧釜共のメンバーももう一遍、再統合していこうというわけでね、それで賃金闘争争議団ってのを作ってね、彼ら(旧釜共メンバー)は組合に対するアレルギーがあったんでね、特に全港湾に対するアレルギーがあって、なかなか抵抗があったんだよね。だから組合に組織せんでもいいと。この課題別共闘で、釜共闘の精神にのっとり「賃金を上げていく」と。もうガチンコで業者とケンカしてでも押し上げていこうと、ここでの共闘をしていこうと。それで賃金闘争争議団ってのを別個に作っていく、組合自身はそこに解消しなという形でやったんですよ。山谷の場合は、組合の方を解消し、別個に争議団だけで行くという形をとったわけですよ。その違いがあるわね。
―今言われている組合っていうのは?
釜日労ですよね。
―釜日労はいつできたんでしたっけ?
釜日労は76年に作ったんですよ。組合をつくる契機もね、釜共の旗でやっていたけども、一つは従来の釜共のグループから「お前たちには釜共の旗を使わさない」って話が出て、「そんな役に立たん旗やったらいらんわ」ということと、釜共ではやっぱりちゃんとした労働争議がうまく組めなかったんですよね。組合でないとすぐ恐喝罪をでっち上げられてやられちゃうわけですよ。単なる任意団体ではね。
―組合であれば、そこは交渉権がある。
多少はね、労使の問題という形で民事不介入、警察の介入も一定程度阻止できるんでね。私は組合そのものは好きでもなんでもないんだけども、ただ弾圧をどうやって防ぐかという点においてね、組合を利用しようということで作っていったんですよ。
―そのように夏祭りは始まっていったというところが今日のメインの話なんですけれど、それから2023年までの間に何か夏祭りと言うことに関して、節目の時期があったことがありますか。
70年代は緊張の連続で、ヤグラを建ててもいつ襲撃を受けるかわからない、機動隊が私服を着ていやがらせをしにくるかもしれないし、ヤクザがチンピラをケツかいてね、しょっちゅう花火なんかを撃ち込ませたりしていたからね、夜通し三角公園のヤグラを防衛ですよ。加えて夏祭りをやらんとあかんということで、へとへとだったけども、気力だけで毎年毎年しのいでいくというパターンでね、服もどろどろになってね、肩も汗とほこりでどろどりになりながらね、みんなでがんばって夏祭りをやった。そういった時期でしたね。
―80年代は?
80年代に入ると賃金闘争争議団ってんで旧来の仲間ももっと増えてね、一定程度安定してきますから、そこで夜店なんかもちょっと広げてやろうという風になっていきますね。
―その頃にだいたい今の規模感が出てきたのですか。
まだちょっと今の規模には追っつかないですね。それでね、90年代に入ってからかな、それまでは酒は売らなかったんですよ。というのはね、酒を飲んだらはハチャメチャになるの分かっているから、酒だけは売るのをやめようということでずっと来たんですけれど、酒を売り始めたのがいつぐらいだろうね…80年代の終わりか90年前後なんですよね。だから一定程度状況もおさまってということでかなぁ。やっぱり90年代かな、反失業闘争のはじまりの中で、メーデーを組織してなんばまでデモをしたのですが、大雨でみんなずぶぬれ、ふるえがきて大変寒かった。高島屋横に着いたとき、すぐに酒を大量に買いに行かさせて、みんなでカンパイをして体を温めて散開した。その年の夏祭りからかな。
中央でマイクをとるのが山田實さん。
向かって左奥に書記長の深田さんも写っている。
―いろんな衝突があったりするときに酒飲んでぐだぐだじゃあねぇ…
話にならないしね。だからねはじめうちの組合はみんな酒を飲まなかったんですよ。ただ酒飲む連中が80年代に新しく組合員に入ってきて、酒を飲むクラブなんかを作り出してからね、若干飲むようになったけれど。70年代80年代はね、私はほとんど飲まなかったね。
―そうなんですか。私が釜ヶ崎に始めてきたのは89年ですけれど、その頃の釜日労のイメージと言ったら、飲んだくれ集団というか…
そうそう。酒飲みクラブになっていてね(笑)。うだうだいうだけで、からっきしセンターで役に立たん連中でね。飲んだくればっかりで。それで困ってたんだけど(笑)。まぁ、役に立つやつもおるんだけどもね。いずれにしろ90年代ぐらいからは逆に言ったら、夏祭りが社会的に認知をぼちぼちされていく状況かな。反失業闘争に入ってからはほぼほぼそういう感じやったかね。やっていること自身が、ただ単に暴力的に社会を混乱をさせるような内容じゃないなっていうね、というのは90年の暴動のあとぐらいですかね、警察なんかも一定私達なんかの主張が理解されるようになって、何を目的にしているかを理解し始めてね、それからぐらいかねぇ、だいたい安定してきだしたのは。もう一つ大きなきっかけは84年ぐらいの時かな、ちょうど私も84年春に刑務所から出てきて、で、夏祭りをやるって形で、ただ単に盆踊りだけじゃあかんって、80年代入ったぐらいから計画してやってたのか忘れましたけどね、劇をみんなでしたりとか、のど自慢はずっとやってましたけど、みんなが参加できる催し物をやろうということだったのです。当時は飯場闘争の劇をそのまま三角公園のステージで再現してやるものだから、「これは劇ですよ」って言うてもね、飲んだくれのオッサン連中は、興奮しちゃってね手配師役をやってるケバラなんかボコボコにされてね、ほんまに(笑)。悪役が似合っていてね。ホントは真面目なオヤジなんだけどね。
―ぴったりはまりそうやからね。
はまりそうやからね。「これは芝居や」言うても、もうダメ、おさまらない。私は委員長役だからそういう被害は受けなかったけどね(笑)。すさまじいエネルギーだったね、あの頃の夏祭りは。芝居やるのも下手なそこらへんの出来合いの芝居よりもリアル感があってね、その場がそうなっちゃうわけ。実際に行った飯場闘争を再現する訳やから。
―それはすごいことだなぁ。
だからほんまにみんなステージの下から上がって来てね。
―それこそほんとのアート的なかんじですね。
ほんとの劇、アートですね。とんでもないことになって、制止するのがたいへんでね。
―そんなエネルギッシュな夏祭りだったわけですけど、近年は高齢化で…
高齢化もあるけれど、悪役やる人が勘弁してくれっていなくなっちゃってね(笑)。それもあるんだけどね。
なぜ労働者の祭りから地域の祭りへと変わっていったのか
―夏祭りはこれからも続いていくと思うんですけれども、将来にわたっては、どういう変化が起きていくであろうかということを聞いてもよいでしょうか。地域の祭りとしては、一定程度だいぶ認められているところはありますけど。
労働者の祭りだという意識で元々作ってきたから、そこから発展してただ単なる「釜ヶ崎の夏祭り」でいいじゃないかと言う風に変えてきたんですけどね。それまでは「『労働者』という文言を必ず入れろ」と、「これは一般の地域の祭りとは違う」ってね、「わしら抑圧された日雇労働者のこの苦しい生活の内容が滲んでるんだから、必ず労働者の祭りだということがわかるようにしろ」って意見も結構ありましたね。たしかにそれはそうだということもあるけれども、ただいつまでも日雇日雇言うていても発展性がない、地域の祭りとして大きくしていかないとあかんということも含めてね、ただ単に「釜ヶ崎夏祭り」にしようということにした経緯が一つあるんですね。釜ヶ崎は日雇労働者のまちであるだけではなく、迫害される差別された人たちの最後の行き着く場でもあったわけですよ。落ちこぼれもそうだけれども、みんな故があってここに来ざるをえなくって、来たくなくても来た人もおるんだけどね、そういった人たちの多様性を尊重しようということでね。やっぱり被差別の民衆の集合地でもあるわけだから、被差別部落の人もおれば在日の人もおるし、もちろん中国系の人もおるやろうし、いろんな人がいるわけだよね、元ヤクザも含めてそうだけども、そういった人たちのアイデンティティと言おうか文化もちゃんと尊重してね、きちっと発露できるそういう内容を持っていこうというのがあるわけ。原発の問題とか狭山もそうだし、沖縄もそうなんだよね。沖縄の人だってまぁほとんど帰りたくても帰れないけども沖縄の文化をずっとしっかり忘れずにね共有して見捨ててないよということは大切と思っているから関西沖縄文庫の金城さんに来てもらってたんだけどね。ただ今年からはもう来ないと結論を出しはったみたいだからちょっと「残念だなぁさみしいなぁ」と思っています。基地の問題とか沖縄独立とまで言っているのかどうかわからないけれども、いろんな問題が本人の中であまりにも先行してね、それで「もう、ちょっと位置づかないからやめる」っていうのは仕方がないんだけれども、それはそれでずっと100年だろうが200年だろうが解決がつくまではみんなが背負っていかねばならない課題じゃないかと思います。課題解決には寄与していったらいいと思いますが、それ以上にここで取り残された沖縄の人をほっとくのかという問題もあるからね、「見捨ててないよ」という感覚で、沖縄の文化をここで披露して、つながっているよという形でやってもらいたかった。政治を持ち込むのもいいんだけども政治色だけでは続かなくなるから、それよりはやっぱり文化を軸とした活動の展開ができる場として夏祭りをきちっと位置付けてもらったらええのかなと思ってるんだよ。これは在日の人も。時たまチャンゴ叩きに来る人が来るでしょ、それも来てやってもらったらええし、たとえば昔は飛び入りでスウェーデンだったかな、竹馬のような高い下駄にのった人も飛び入りで来たじゃない。いろんな人の文化をここで当然披露して、見てもらって、みんなに知ってもらったらいいし、そういういろんな多様性を受け入れる場として、夏祭りを継続してやっていけたらなぁと思うわけ。
夏祭りは人と人とが協力して活動することの意味を深め共有する場
―今回は釜ヶ崎夏祭りに限ってのお話ではありますが、社会運動の組み立て方も含めてね、文化のレベルからもそうですし、先ほどの子供たちの話もありましたけど、実際施しじゃなくって何をしてもらってどう一緒にするのかっていうところのオリジナルからもう一回考えていくことが重要なんですね。やっぱりそれを考えていくステージとして夏祭りがあるよということなんだなということを、私も再認識することができたような気がします。
子供たちもそういう形で、「あ、そうしないとお金ももらえないし」とか、働くことの大切さというかね、当たり前のこととして身につけさせないとあかんわけやから。というのは特に2000年入ってからかな、イギリスのちょうどソーシャルインクルージョンの内容が日本にも上陸してきたちょっとした時期があって、イギリスから使節団が来てね、市立更生相談所なんかも案内して、いろいろと話をして、その時私も交じっておったんだけど、マンチェスターから来たという国がらみの人がね、「どうしたら働く意欲を持つようになるんですか」と真剣な表情で変な言い方したのよ。「ええ?変なこと言うなぁ」と「なんで?」と訊いたら、「親子4代生活保護なんです」労働のろの字もわからないんだと。働くということが感覚的にわからないんだと。言葉も知らないしと言ってね。どうしたらこの人たちに働くということを覚えてもらえるだろうかと真剣に悩んではったから、俺はただ単に「とりあえずまずは働いてもらったらいいよ。いくら座学で能書きこいても身につかないし百万年説教してもわからないよ」と「簡単だ。とにかくいっぺん場を設けて投げ入れたらいいんだ」と(笑)。「そこでね、『あ、たのしいな』とか『苦しいな』とか『助けてもらった』とか人と人のかかわりを覚えるしかないんだ、そうする中で働くことの大切さを見つけ出すしかないんだ」という話をしたんだよね。使節団の人がわかったかどうかはよくわからないけど。通訳がどういう風に話したかわからないけど。基本はそういうことなんだわ。だから祭りを通じて、みんなに何を共有してもらうかということを、みんなで考えてもっともっと深めていかんといかんね。ただ単に毎年毎年続けてるっていうんじゃなくて、人と人とが協力して一緒に活動することの意味が深められてそれを共有してもらえたらええんやけどな。
―それが理想ですね。
文化っていうのは非常に大切なのよ。文化と言おうか芸術活動も含めてそうだけど、人間はただ単にメシを喰って寝床があったらいいとはならない、満足できない、それが人間であるゆえんだから、映画も見たいし、いろいろ踊ったり歌ったりね、みんなとワイワイ騒ぎたいとかは別の領域じゃない、ある意味では生きることの中にそれを入れないと、うるおいのある生活はできない、生きられない。むしろ生きられない、ということだから、そういう文化とか芸術的な要素を取りこんだ運動を必ず展開していかないといけない。ただ単に賃金を得たらええとか仕事を確保したらええとはならないわけよ。
―労働と文化との間には大きな流れが存在していて、それを単純によく表現活動が大事だとか仕事が大事だとか簡単に切り分けすぎちゃっていることがかえって問題です。労働と文化との集積系を体感できるのがきっと夏祭りであろうなと。なので「みなさんぜひお越しください」というところと、ボランティアとかも含めて、会議もふくめて、「みんなで準備してやっているのでぜひ参加していただけたらなぁ」ということかな。
何で準備するかも含めて、きちっとみんなで共有して進めるともっともっと準備もスムーズにいくのかなぁと思ったりもするけどね(笑)。なかなか難しいだろうなぁと思って。
―ということで釜ヶ崎支援機構の理事長&夏祭り実行委員長の山田實さんでした。今日はありがとうございました。
(聞き手/編集責任 松本裕文)
【第54回釜ヶ崎夏まつり カンパのお願い】
今年も七月下旬に差し掛かろうとしている午前中から30℃越えの厳しい暑さが続き時々ゲリラ豪雨のような激しい雨の降る夏になりました。
長年に渡って釜ヶ崎に関心を寄せ、支援して頂いていることに、心より感謝申し上げます。
釜ヶ崎夏まつりは、各地の飯場から釜ヶ崎になかまたちが戻り、一時の休息を過ごす場であり、単身高齢の仲間たちにとっては、語らいや楽しみの場でもあります。
すっかり地域の風物詩ともなった夏まつりは、昨年はコロナ禍が過ぎ、規模が小さいながらも、ようやくまつりらしいまつりを開催することができたと思います。
今年は旧あいりん総合センターの建て替え工事が旧センターの解体工事として始まり、ようやく働き人(はたらきど)のまちとして復活して行き希望が見えてくることと思われます。現役で働く者たちと困窮し野宿をせざるを得ない者たちが建て替えに反対する第三者の思惑で分断されてきたことに終止符を打ち、祭りを通して労働者の団結を深め、野宿をしなくてもよい施策を求める声をさらに大きくしていく必要があると思います。
もう一方では派遣の労働者や一般社会での生きづらさを抱えてこの町へやってくる若年層のなかまたちとも交流を深めて、釜ヶ崎の持っている強みや包容力を生かし、次世代を担う若者や失業・生活困窮・住居喪失を余儀なくされる人々を受け入れていける街づくりをさらに目指して地域外からやってくる皆さんとともに推し進めて行きたいと思います。
半世紀に及び闘い取り、築いて来た歴史をさらにつなげるべく、これまでもそうであったように、夏まつりを通して作り出されるつながりが、人々の安心と生活を獲得していくきっかけになると確信しております。
ご支援の程よろしくお願いします。
なお、炊き出しや出店、運営のお手伝いなどのご支援もお願いいたします。
【振込先】①みずほ銀行 難波支店 普通口座 1387094
釜ヶ崎実行委員会 代表 山田実
②ゆうちょ銀行 記号141 番号33722521
【他の金融機関から振込みの場合】
③ゆうちょ銀行 店番四一八(ヨンイチハチ)普通預金3372252
④郵便振替口座00960-4-108331
②、③、④の名義は 釜ヶ崎実行委員会
ボランティア等連絡先 06-6632-4273
第54回釜ヶ崎夏まつり実行委員会
代表 山田実
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