「女性や子どもの悲鳴が響き、草原は血の海」逃げる民間人を戦車で追いかけ轢き殺し…ソ連軍が1000人超の日本人を虐殺した「葛根廟事件」生存者が目撃した“光景”
〈「内臓が飛び出ても突撃していきました」第2次世界大戦末期、“ゲリラ特攻”を続けた旧日本軍の部隊長が振り返る「兵士たちの最期」〉 から続く 【貴重画像】キャタピラで踏み殺される人、機関銃で撃たれる人…1000人超の日本人が虐殺された「葛根廟事件」を写真で見る 第2次世界大戦の末期、ソ連軍が侵攻した満州ではいくつもの惨劇が繰り広げられた。中でも、8月14日に西部国境に近い地域で起きた「葛根廟(かっこんびょう)事件」は、ソ連軍による民間人殺害事件のうち、最も大きなものの一つとされる。 事件の生存者によると、現場の草原には女性や子どもの悲鳴が響き、血の海で死んでいる母にすがりつく赤ん坊もいたという。そして、ソ連軍が去った後には死体が折り重なっていた——当時の様子を『 満州スパイ戦秘史 』(永井靖二著、朝日新聞出版)から一部抜粋し、お届けする。 ◆◆◆ 本書は、アメリカに保管されている証言録音から、関東軍が満州で繰り広げていた諜報戦などの内実を解き明かそうというものだ。だが、彼らの言動の陰で開拓団員をはじめとした在留邦人や、兵士らが郷里に残してきた家族は、どんな目に遭ったのかという点にも、少しだけでも触れておかなければならないと考えている。 前述の挺進大隊や国境守備隊の一部を除けば、満州国へなだれ込んだソ連軍の前面に立たされたのは、各地に居留する民間邦人や開拓団員らだった。 1945年8月14日には、満州国の西部国境に近い葛根廟付近で、避難民1000人以上が戦車部隊に虐殺される「葛根廟事件」が起きた。ソ連軍による民間人の殺害事件で、最大規模の一つとされる。 東京都練馬区の大島満吉(取材当時85歳)は、生存者の一人だ。
人々は戦車に潰され、何百もの死体が折り重なっていた
女性や子どもが大部分だった避難民約1300人の列に14日昼前、戦車14両を含むソ連軍部隊が追いついた。当時9歳だった大島らは、長く延びた列の後続を待つため休憩中だった。 2歳の妹を背負った母が水筒を取り出している時、「戦車だ、逃げろ」と声が上がって人々が走り出した。エンジン音が近づき、丘の稜線から戦車が現れ、人々に向けて機関銃の掃射を始めた。 戦車がうなりを上げてジグザグ走行し、立ちすくむ人、逃げ惑う人をひきつぶした。キャタピラの音、エンジンのきしみ、逃げ惑う人々の悲鳴……。機関銃の猛烈な掃射音とともに、人間の体が跳ね上がるのが見えた。 大島は母と一緒に近くの溝に身を潜めた。一度、ソ連兵と視線が合ったが、自分たちには銃を向けず、ほかの方向を掃射して遠ざかった。必死でうずくまるうち、銃声は遠のいていった。 溝を這い上ると、何百という死体が折り重なっていた。やがて夜になり、生き残った人々も絶望のあまり自決を始めた。
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