第2回戦死した父の無念を思う 古賀誠氏、「今の政治家」の歴史認識を危惧
自民党で幹事長を務めた古賀誠氏(85)は、太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島で父が戦死した。「戦争は理屈に収まらない出来事。歴史を深掘りして考えてほしい」と語る。戦争を知らない世代の歴史認識に、危機感も抱いている。
真っ赤に燃える空
――戦時中の記憶は。
終戦時は5歳だった。その3年前、2歳の時に父は出征した。うちは乾物を扱う商店だったが、赤紙で召集され、私にぬくもりの一つも残さないまま逝ってしまった。
幼かったから、戦争を「知る」世代というよりも、肌にすり込まれたという感覚だ。家には掘っただけの簡単な防空壕(ごう)があって、空襲があると、そこに母と入る。遠くの空が真っ赤に燃えていた光景は覚えている。
住んでいた福岡の瀬高町(現・みやま市)は、当時軍需産業が盛んだった大牟田市から10キロ足らず。真っ赤に燃えていたのは、大牟田の空襲だったと後からわかった。
戦後80年の今年、戦前生まれの現職国会議員は1%になりました。戦争を経験した政治家たちが次世代に伝えたいこととは何でしょうか。その証言を聞きます。
母は私と姉を育てるために行商に出た
――終戦や父親の戦死はどうやって知ったか。
ある日、大勢の人たちが町の中心にある学校の校庭に集まり、何やらひざまずいていた。大人をまねて私も加わった。理解はしていなかったが、あれが玉音放送だった。
その後1年くらいして、父の戦死公報が届いた。母は三つ上の姉と私を抱き寄せて、「お父さんはもう帰ってこない。死んだんだよ」と教えてくれた。
母は私たちを育てるために行商に出た。朝早く自転車に乾物やらを載せて家を出て、夜遅くまで帰ってこない。遊んでいると、親がいる子たちは夕飯の時間に家に帰っていく。でも私は帰ったって、誰もいない。結局姉と二人、日が沈むまでたたずんでいた。そのせいか、私は今でも、夕日というものがあまり好きじゃない。
昇殿参拝をかたくなに断った母
――政治家として、靖国神社をめぐり、東京裁判(極東国際軍事裁判)で戦争責任を問われた東条英機元首相らA級戦犯14人の分祀(ぶんし)を主張した。
靖国の問題は国内問題。解決できないのは「政治の貧困」で、恥ずかしいとすら思う。
国会議員に当選した2期目、ずっと来てくれなかった母が、やっと東京に観光に来てくれた。芝居でも、歌舞伎でも、ごちそうでも何でももてなすつもりだったが、「靖国にお参りしたい」とだけ言われた。
喜んでもらおうと、昇殿参拝して、祝詞(のりと)をあげようと言ったが、母はかたくなに断った。「父に会えればそれでいい」と言っていた。
――母親はどういう思いだったのか。
軍人でもない父は、赤紙一枚で、国のためにと戦地にかりたてられて、命を落とした。それを命じた人と、父が一緒にお祀(まつ)りされているということは、母の心に何かしらわだかまりがあったんだろう。母だけではなく、遺族の多くが同様の思いを持っていたと思う。
――靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)は「問題ない」という主張もある。
深い歴史認識を持って欲しい。確かに東京裁判は戦勝国による一方的な裁判として、多くの問題を含むことは否定できない。ただ日本は1951年のサンフランシスコ講和条約第11条によって、東京裁判の結果を明示的に受諾した。そして主権を回復し、日本復興のレールがしかれたことは間違いない。
こうした歴史を認めることが必要だ。私は今でもA級戦犯を分祀することは必要だと思っているし、そうすれば、天皇陛下のご参拝も再開することができる。
戦争を体験した政治家たち
――今はほとんどが戦後世代の議員となった。
私が初当選した80年ごろ、みんな戦争は愚かなことだと考え、我々政治家はこの問題にどう対応するかを分かっていた。いちいち言わなくても、身体に染み込んだ感覚の問題だった。
私の政治の師の一人に、(元自民党幹事長の)田中六助先生がいる。彼は戦時中は特攻隊の教官で、出撃する隊員の名簿を作っていた。「生涯を振り返って、あの時ほどつらい経験はない。平和な日本をつくるため、政治家になったんだ」と語っていた。
――当時はまだ戦争体験者が多くいた。
(元官房長官の)野中広務先生もそうだ。私が、父の戦死したレイテ島へ行くのに、なかなか足が前に進まなかったとき、背中を押してくれた。レイテ島で一緒に、ジャングルの中で遺骨がわりの小石を拾ってくれた。小さな祭壇をつくって地酒やたばこを供えていたら、突然スコールが来た。「おやじさんの涙雨を大事にしろ」と言ってくれた。私は父の「なぜ死ななければならなかったのか」という無念な声を聞いた気がして、政治は貧困になってはいけないと改めて思った。
「平和や命を守る議論を」
――今、政治家に求められる資質とは。
今は戦争を感覚で理解する人は少なくなった。若い政治家には成績優秀で勉強家が多い。だからこそ、物事を理屈で割り切ってしまいがちだ。
戦争は理屈の世界で収まらないということを、心に刻んで欲しい。多くの血や涙が流れ、命が失われる。理屈に支配されないように、歴史を勉強してもらいたい。それができるか、極めて心配な時期に来ている。
――どのような危機感か。
戦後の政治外交は、平和憲法と、日米安保。この二つを軸に、互いに引っ張り合いながら楕円(だえん)を描いてきた。一つの円にはならない。今は平和憲法が日米安保に引っ張られすぎているように思える。
今、「政治とカネ」や物価高など、さまざまな政治課題はある。ただ、国民の政治に対する期待として、平和をどう考えるのか、という問題意識があると思う。
日本人は戦争を通じ、国民一人一人の命を大切にする平和な国づくりの価値を学んだはずだ。政治家は次の世代への責任と使命を持ち、もう一度、自らの矜持(きょうじ)とは何かを考えて欲しい。
古賀誠
こが・まこと 1940年福岡県生まれ。2歳のときに父・辰一さんが出征し、フィリピン・レイテ島で戦死する。母の美芳さんが行商や内職で家計を支え、古賀氏は東京の大学へと進学した。
卒業後は1967年から鬼丸勝之参議院議員の議員秘書を務め、80年の衆院選で旧福岡3区で初当選した。2000年に野中広務氏の後継指名で自民党幹事長となった。
02年2月から12年2月まで日本遺族会会長。東京裁判で戦争責任を問われた東条英機元首相らA級戦犯14人の靖国神社での合祀(ごうし)については、分祀(ぶんし)を主張。06年には、A級戦犯分祀検討も含む政策提言を公表した。12年に政界を引退した。
◇
次回は、亀井静香元自民党政調会長(88)。1945年8月6日、広島県山内北村(現・庄原市)に住んでいた当時8歳の亀井氏は、約80キロ離れた地点で炸裂(さくれつ)した原爆を目撃しました。
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- 【視点】
古賀誠さんといえば、日本遺族会の会長を務められていた方という印象があります。遺族会として、遺族年金や特別弔慰金の増額、遺児記念館建設など戦後未処理問題の解決に尽力されました。記事を読むと古賀さんが何故第二次世界大戦が生み出した遺族の方への支援施策に取り組まれていたかがよくわかります。 野中広務さんもまた、親中派として知られ、沖縄や弱者への眼差しを政治に貫きました。古賀さんにも、また野中さんにも、その背景には、「戦争を二度としてはいけない」という強い信念があったと感じます。 政治家は、戦争を抑止する力にも、また時にそれを後押しする力にもなり得ます。メッセージ一つで、国民を平和にも戦争にも動かせます。しかし戦争が始まれば、必ず古賀さんの母親のような思いを背負う人が生まれる。その現実を、私たち戦後生まれの世代は、例え戦争を経験してないとしても、その痛みと苦しみを想像すべきです。 第二次世界大戦で亡くなった日本人230万人の多くは餓死だったとも言われます。無謀な作戦が命を奪った歴史に耳を傾け、平和や命を守る議論を絶やさないことこそ、戦後世代の責務だと思います。
…続きを読む - 【解説】
古賀誠自民党元幹事長の姿を一度だけみかけたことがある。 2000年代初頭の8月15日午前、僕は靖国神社を散策していた。 境内をめぐり、拝殿に足を向けるとたくさんの人が集まっていた。そこに古賀氏が鳥居をくぐってあらわれた。拝殿に向かってあるく古賀氏に対する周囲の視線は冷たく、拝礼の際にはピリピリした沈黙が走っていた。そのあとにあらわれた石原慎太郎東京都知事が喝采で迎えられ、「石原コール」が起きていたのとは実に対照的だった。日本遺族会会長でありながらA級戦犯分祀と憲法九条擁護を唱える古賀氏は、境内に集う人々にとっては異端だったのだろうか。あの時の風景は強烈に脳裏に焼き付いている。 古賀氏は「靖国神社に参拝しながら、「しんぶん赤旗」に登場し平和憲法を語るという護憲派にも、改憲派にもどちらにも収まりにくい政治家であった。だが戦争で父を亡くし、母を支えながら苦学して立身出世を遂げていく古賀氏の人生は、焼け跡のなかから立ち上がろうとした大衆の姿にすっぽりと収まる。そしてこの世代は「みんな戦争は愚かなことだと考え、我々政治家はこの問題にどう対応するかを分かっていた」と古賀氏は語る。政治学者丸山真男はこれを「悔恨共同体」と呼んだ。過去の過ちを「共同体」として共有し、共に反省するという姿勢だ。古賀氏はこのインタビューのなかで、「若い政治家には成績優秀で勉強家が多い。だからこそ、物事を理屈で割り切ってしまいがちだ...理屈に支配されるな」と警告している。理屈?これはどういう意味なのだろうか。 昨日この連載でとりあげられた福田康夫元総理、そして古賀氏はともに戦後の長期一党支配をものにした自民党の幹部である。米国との同盟関係と改憲を掲げる保守陣営、それに対抗する革新陣営も、ともにおおきくはこの共同体感覚に包まれていた。それは「いちいち言わなくても、身体に染み込んだ感覚の問題」であった。 その古賀氏が「戦後の政治外交は、平和憲法と、日米安保。この二つを軸に、互いに引っ張り合いながら楕円(だえん)を描いてきた。一つの円にはならない。今は平和憲法が日米安保に引っ張られすぎているように思える」と語っている。この「楕円」とは、古賀氏の師である大平正芳元総理の言葉である。 1938年に税務署長に就任した大平正芳は、署員に向けてこんな訓示をしている。 「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派な行政と言える。例えばその当時支那事変の勃発と共にすべりだした統制経済も統制が一つの中心、他の中心は自由というもので、統制と自由とが緊張した均衡関係に在る場合に、はじめて統制経済はうまく行くのであって、その何れに傾いてもいけない。税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である」。 香川の中農から立身出世した大平は大正期に一橋大学のリベラリスト中山伊知郎の門下生である。大平にとって庶民の生活を守るための営業の自由と、国家の論理の二つの中心の均衡を保つことが戦時体制への抵抗であり、この「楕円の哲学」こそが日米安保と日本国憲法を二つの軸に据えた自民党宏池会の思想的支柱になっていく。この楕円が崩れ、綺麗な円を描こうとする動きを、古賀は理屈が支配する危険な世界であるとして警戒しているのだ。綺麗な円をえがくことよりも、経験に裏付けられた歴史の重みに支えられた均衡こそが、平和を守るためには最も重要であるといいたいのだろう。 いま自民党は政争に明け暮れている。参院選前にはある自民党議員が「ひめゆりの塔」をめぐる発言で非難された。安倍政権を支えた保守の一部は、ポピュリスト政党をいまや支援している。彼らが語る歴史はわかりやすく浅薄であり、相いれないもの同士の均衡を保つための重石にはとてもならない。 自民党の政争は政界再編につながるかもしれない。いずれ新しい秩序が姿をあらわすだろう。ただその時、左右の「綺麗な円」を描く理屈に抗して、楕円を描くことのできる責任あるリーダーはあらわれるのだろうか。それとも歴史と経験の裏付けなき無責任な言葉がはびこり、この国を80年にわたり支えた共同体意識はただ失われていくままになるのだろうか。
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