彼は気がつけばそこに立っていた。
見知らぬ都市国家の外れ、何もない雪原に一人で立っていた。
ここはどこだろう、自分は何をしていたんだろうと考えて、そこで初めて自身の記憶がないことに気がついた。
正確に言えば、
男は自身に前世があり、そこで自身は事故に巻き込まれて死んだことを覚えていた。
そして一度死んだ彼はオンパロスで目を覚ます間際、どこからか声を聞いた。
〝奇跡も代価も一つづつ〟と。
しかし、彼の脳内に残っている記憶はそこまでで、青年と呼んでいい年齢の自分が何故ここにいるのかも、自分の名前すらもわからない。
自分が今住んでいる場所はオンパロス、現世の常識は脳に残っていることを確認した男は記憶がないことを説明し、近くにあった都市国家、エイジリアに身を寄せることにした。
男は自らを異人を意味するゼノスと名乗った。
そうしてゼノスがエイジリアで過ごしてしばらくした頃、彼はタナトスの加護を受けた少女の話を聞いた。
多くの人が少女が匿われている豪勢な──聖殿とすら思える──建物から自身の家へと戻った後、静まり返ったその場所に足を踏み入れた。
少女は目の前にやってきた人物を見やると、それが初対面の相手であることを確かめ、最近聞いた話の中から相手の正体を即座に見抜いた。
「……記憶喪失の旅人さん、ですよね?」
「知ってるのか?」
「ここにいらした方が、あなたのことを話していました」
「そうか」
男は思わず息を呑んだ。
それほどに彼女は美しいと感じたのだ。
男は少女が止める間も無く少女の頬へ手を伸ばした。
「──触らないでください!」
止める間も無く頬を触れられた少女は、思わず自らの手で男の手を弾き飛ばした。
「……私に触れたら、あなたが死んでしまいます」
「今、その手で弾かれたのだが」
「え?わ、私としたことがすみません。あれ?でも、あなた、生きて──」
「どれ、一つ試してみようか」
男は少女の手を握った。
少女は振り解こうとしたが、男は手を握ったまま動かない。
そこから十秒ほど経った頃、男が口を開いた。
「触れたら死ぬと言ったが、俺は例外らしいぞ。タナトスの加護を受けた人よ」
「……私の名前はキャストリスです」
「そうか、知ってるだろうがゼノスだ。これからよろしく」
そう言って男は、キャストリスの手を取った。
彼女は少しだけ表情を和らげながらその握手を受け入れた。
「よろしくお願いします。……明日も、この時間に来てくださいますか?」
「あぁ、約束する」
「……!では、お待ちしています」
彼にとってそれはなんでもない握手と約束だったが、それはキャストリスが初めて受けた生きた人の温もりであり、生きた人との触れ合いだった。