前回、私は自己流のタイヤ叩きや重量物の突きのことを話しました。その根底には、これからお話する二つの思い出があったからです。
長井長正範士との出会い
まず一つ目は、長井長正範士との出会いです。近鉄矢田駅近くに、長正館という長井先生の道場がありました。長井先生は府下の少年剣道の道場に呼びかけて、大阪府剣道連盟の傘下で、大阪府剣道、道場連盟を発足させました。その中心となって、長井長正先生は連盟の理事長を務められました。
当時は、今の小子化時代とちがい、剣道をする子供があふれていた時代です。当然のごとく道場も増えました。剣道経験の乏しい者までが道場主となり、あちこちで行われる少年剣道大会に子供たちを参加させ、勝敗ばかりを競い合う時代でした。剣道の本来あるべき姿、躾教育、正しい基礎的な指導を知らないままブームが来たのです。
そこで、道場の指導者達を理事長名で長正館に集め、長井先生自ら講習会を頻繁に開かれ、少年剣道の指導法を教えられました。先生自らが手書きのテキストを作られ、みんなにそれを毎回配られました。後になってみると、学科、実技、日本剣道形と資料は大変な枚数になっていました。また、小野派一刀流も指導もされていた長井先生は、講習のなかで、現在な剣道は一刀流の形から来ていると、一刀流の形も指導されました。
余談となりますが、先生は少年剣道に一刀流の形を取り入れようと発案されました。お琴の六段の曲の調べに合わせて、一刀流の形を子供達にやらせようと、工夫をした形を考案されました。それを私達受講生も習いました。琴の曲に合わせてやれば、木刀を持つ手も、肩にも力が入らず、リズミカルで良いと思っていましたが、いつしか沙汰止みとなりました。聞くところによると、上層部からのクレームがあったようです。
長正館道場の隅に、一刀流の太い木刀を掛けるための木刀掛けがありました。ある時、その最上段で眠っている重い振り棒を指さして、長井先生が私に、「あれを振ってみろ」言われました。ふり棒は、頑丈な一刀流の木刀を3、本ぐらい束ねた重さで、手元は、左手一杯では持切れず、親指と他の4指との間はだいぶ開いていました。先端に向けて太くなっており、断面を見ると長めの小判形をしいていました。見るからにブサイクな形をしたものです。この振り棒は、一刀流を長井先生に教えるため、小野十生先生(一刀流宗家と聞いている)が、長正館に長く逗留されたときに頂いたのだと長井先生から伺いました。
私は皆が見ている手前、すこし格好よくやろうと、勢いよく上段に振り上げたとたん、それをみた先生が「あほう・・・」と小さく叫びました。先生にしてみれば、重量のある振り棒のやり方も知らないのかというわけです。そして先生は私の振り棒を取り上げ、模範を示されました。
重い振り棒のふり方
普通竹刀で素振りするとき、思うところに止めることは出来ても、重い振り棒は、腕力があっても、思うところで止らず地面をたたくことになります。そのため、振り棒の先端を大きく、体の後ろに旋回させ、それを上段に振り上げ、円を描くように正中線に振り下ろします。そして、振り棒を頭上からおろすとき、左右の足と腰を同時に前にすすめ、左手を下腹に納めると、かなり重い振り棒でもウソのように軽く止まります。
この方法は、前回お話した、タイヤ叩きや、重い物体の突きにも、腰を入れてやることを会得したので、その後長正館に行くたびに、振り棒を取り出し振ったものです。よく見かける剣道で、手先や腕の力で、お腹を引っ込めたまま、面に伸びる剣道と、異なったものです。温故知新ということばがあるように、昔の人は振り棒を使って、鍛錬をやっていたのだと知ると、無駄なことではないと思うのです。
直心影流16代 川島堯の素振り
あと一つお話します。私が大切にしている本で「剣のこころ」勝海舟と直心影流(すずらん書房)があります。その中に書いてある素振りの話です。
あらすじ、信太師は台南(台湾)の川島の家に1年半余り同居し、(ここで大正6年に逝去)。晩年の1年半だったため、道場に出て川島に稽古をつけることはなかった。床の上で寝たりおきたりであった。あるとき、川島は信太師に聞いた、「柳生に伝わる手刀とはどうゆう剣ですか」信太師は説明を始めたが、途中で思い直し、川島に短刀と紙を用意させた。老師は美濃紙を丸め直径1寸ほどの円筒を作り、端を糊で止め、机に立てた。短刀で斜めに切り落とした。ただそれだけのことだった。
川島は早速自室に戻り、同じ紙と短刀で、円筒を切ろうとしたが、どうしても切れない。速度が早ければ紙筒が潰れ、遅ければ倒れてしまう、ついに部屋中紙筒の山になってしまった。川島は恐れ入り、信太師の部屋に戻って老師に話した。
実は昨年の西来事件(台湾で有名な事件)に私は現地へ出張しました。警察の剣道教師でありながら、一度も刀を使用したことがないので、弟子に対して申し分けないと思い、愛蔵の刀三振り持参した。そして捕虜の首を切った、初めは、刀とは何とも切れ味の悪いものだと思った。だが、慣れるに従って手の内が解り、今度は刀とはこんなに切れるものかと感心をした。しかし、竹刀稽古の手の内では刀は使えないことも分る。朧夜、或は暗夜焚火の明かりで、捕虜を切った時、刀の長さまで違うこと、物打ち三寸で打つ練習をしている竹刀稽古は、真剣勝負には全く役立たないものだった。だが150人も切る中に真剣の手の内も身につき、最後には来国光の細身の刀を使って、抜き打ちに片手で捕虜の胴を両断することも出来た。だが、今日の紙筒はどうしても切れず、また解らなってしまったと言う。
それを黙って聞いていた老師は「お前はとんだことをしてしまった」とぽつりと言って黙ってしまった。漸くして鋭い眼を川島に向けた老師は「お前は考え違いをしている。剣は心なのだ。持つ人の心によって剣は異なるのが当然なのだ。また剣の道はお前の考えているような狭い浅いものではない。下は足軽の剣、上は一剣天下を治る大将の剣と大変な違いがある。足軽には足軽の、侍は侍の、大将は大将としての道がある。それぞれの道を行く人の心は剣に現れ、剣はそれぞれの心を修める最良の道である。剣道は貴賎・貧富・男女・職業を問わず、いつの時代に於いても大切な処世の大道である。」
「道を修める者に心の穢れがあってはならない。お前は不幸にも多数の人を切って、心身に血の味を知った。人を切ることは何を意味するか知っているか。知ったらやたらに刀を抜くことは出来ない筈だ。お前は過日、「清水で焚いた米の飯」の公案を解き、己れが天地に生かされた神の子であることを悟ったが、蕃人といえどもお前と同じ神の子である。その証拠に太陽は、蕃人にもお前にも差別なく恵みの光を与えているではないか。 ・・・略・・・ お前は直ぐに振り棒の修業に入り、百万回を目標に進むよう、百万回成就の暁には血の汚れは清められ、その上ある種の神通力を得るであろう。それは竹刀の稽古の上で効果があるなどと早合点せぬように。なお柳生の手刀は明朝今一度演じよう。」
振り棒は一円相大剣と名付けられた、直心影流独特の鍛錬法である。長さはほぼ自分の身長ぐらい、手元の握りは手の内一杯に、先を次第に太く六角に削った樫の棒で、重さは初心者で6キロ、慣れるに従って8キロから16キロぐらいまでの棒を用い、全身(特に腰)を使って振るのである。
現在行っている振り棒は続けて百回振ることを目標にしているが、川島は常に五百回から千回を目標にし、一度などは一昼夜かかって一万回振った。この時はさすがの剣豪も一万回終了と同時に倒れ、起きて歩くことが出来なかった。・・・略
※信太歌之助:慶応から明治の始め、山岡鉄舟と兄弟のよしみを結んでいたといわれる剣豪。80歳当時、台湾、花蓮から台南の武徳殿の川島堯の指導のため1年半同居して大正6年5月逝去。
※川島堯 :直心影流16代、明治43年台湾総督府の警官、剣道と柔道普及で教師、台南警察署に勤務、昭和21年、敗戦によって郷里に帰る。
ここでも、全身を(特に腰)を使うとあります。そのため腰の重要性知ることが出来ます。
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