1975年夏、赤ヘル旋風が巻き起こった。広島東洋カープは逆転に次ぐ逆転の戦いで首位争いを展開。「そんな経験のない選手ばかりだから、先を計算しようと思ってもできん。首脳陣も球団も初めてじゃけ。もうみんな毎日必死よ」。この年、盗塁王を獲得した大下剛史は50年前を回想しまくし立てた。
2位のヤクルトに0・5ゲーム差をつけて首位で7月に突入。その後、前半戦を終えた時点では3位だったが、球宴で山本浩二と衣笠祥雄が2打席連続本塁打を放ち、快進撃の予感が走る。球団史上初めて8月に首位に浮上すると選手が意識し始めた。山本浩は「優勝なんて考えてもなかったのに、まさか、ひょっとして…なんて思い始めた」。
ファンは一足早くその気になった。8月の広島市民球場は連日、2万5千人以上の大入り。お祭り騒ぎの熱気に、先発3本柱の一角だった佐伯和司はたじろいだ。「これで優勝できなかったら、どうなるんやって思ってましたよ」。弱いカープしか知らないファンも初めて経験する熱い夏だった=敬称略(特別編集委員・木村雅俊)。
▽幼なじみの1、2番コンビ
今も語り継がれる1975年の「赤ヘル打線」はシーズン69試合目で初めてお目見えした。
機動力と右打ちの妙が見事に調和した大下剛史と三村敏之の1、2番コンビ。クリーンアップは勝負強いホプキンスから山本浩二、衣笠祥雄の両雄が並ぶ。6番に両打ちのシェーン、7番は巧打の水谷実雄。8番の捕手は水沼四郎と道原裕幸の併用。9番は投手だ。
大下・三村コンビはカープの野球を変えたといわれるほどの存在感を放ったが、5月下旬以降、故障で相次ぎ離脱した。その後、大下が復帰し、56試合目にクリーンアップが固まると、69試合目となる7月9日の阪神戦から三村が「2番・遊撃」でスタメンに復帰。ここから129試合目の優勝決定までほぼ不動となった。
前年の打線は、1番は入れ代わり立ち代わりで9人が務めるなど、攻撃の形に苦心した。ルーツが監督就任の条件として大下の獲得を挙げたのも「走れる1番打者」を求めたからだ。このピースがはまり、大下の足はエンドランと右打ちで進塁させる三村の打撃技術で威力倍増となった。
2人は広島県海田町出身で幼なじみだった。大下によると、それぞれの実家は徒歩10分程度、小学生の頃から四つ下の三村と遊び、かわいがっていたという。「わしの二つ下になる三村の兄も含め、瀬野川の河川敷で草野球をしよった」。幼稚園から海田市小、海田中、広島商高と全て同窓だ。「プロでは守備の時以外、ほとんどしゃべっちゃおらん。でも、敏之の考えよることは分かった」
大下はこの年、44盗塁を決めた。三村はわずか10犠打。盗塁を待ち、状況に応じてエンドランや右打ちを駆使し、大下を進塁させた。「敏之が勝つため、点を取るために磨いた打撃だった。右打ちしろなんて言ったことはない」。あうんの呼吸で赤ヘル野球をけん引した2人は、海田町民栄誉賞を受賞している。
2025年のカープは打線を固定化できず日替わりの様相だが、大下は言う。「令和の今は、球場にこないと自分がスタメンかどうかも分からん。あの頃は自分が先発だと疑わず、全て逆算して球場に来ていた。家でバットを振り、練習する姿は味方にも見せん。それが普通だった」
主力同士が競い、縦の関係が強かった時代。前半戦は首位阪神に1・5ゲーム差の3位で折り返した。前年までと違い、チームは不動のオーダーを手に入れていた。直後の球宴で赤ヘル快進撃への鐘が鳴る=敬称略(特別編集委員・木村雅俊)。