パクチーよりもクセの強いの中学校時代の顧問のお話
こんにちわ!イラストレーターのトウドです。
見出し画像は何の関係もない生春巻です。
新鮮なパクチーが手に入ったので作りました。
エスニックが大好きなのにパクチーは匂いが独特で子供達に敬遠されるので、昼食など1人の時に頂くことにしています。(モグモグ)
今回は以前「イラストレーターになったきっかけのお話」で少し触れました、高校3年間絵を描かなくなった原因となる中学校時代のお話をします。
パクチーよりもうんとクセの強い怖い先生のお話です。
怖い話苦手だよっていう方は速やかにご退室下さいませね🙏
・満を持して中学校入学
元々「絵を描く」という事にはネガティブなイメージがありました。
だって学生のカーストの中では最下位ですし
そもそもわたくし成績は何一つ誇れるものがないのに
美術の成績だけが飛び抜けてよい
「勉強できないけどお絵かきだけは上手な子」
だったので、そのイメージもとても嫌だった(涙)
だから中学校に入学したら運動部に入ろうと決心していたのですが…
わたくしの入学する予定の中学校には元々美術部がなかったのですが
自分で申し上げますと自慢みたいになっちゃうんですが
小学校の展覧会では入賞常連だったわたくし
中学校の美術教師の H先生がトウドが入学してくるならばと、わざわざ美術部を作って待って下さっていました…とんでもねぇ迷惑だ(笑)
わたくし、体操部に入部したかったんですよぉ!
(今ここで不満をぶつける)
運動苦手だったのですが柔軟性だけは良かったので
体操部に入部するつもりだったのに、母に
「先生がお前のためにせっかく作って下さったのに断れるわけないでしょう!」
と一喝されやむなく美術部へ…(泣)
しかも自分以外に2人以上部員を集めろって(泣)(泣)
しかし仲良しの友人が数名入ってくれたお陰で
実際美術部はとても楽しかったのです。
何よりその美術部を創設した顧問の先生が超自由だった。
何でも自由にやらせてくれるし、ああしろこうしろと指導しない。干渉しない。というかもう既に部室にすら居らっしゃらない(笑)
用事があって先生を探すと大抵テニス部に遊びに行っていて仲のいいテニス部の顧問の先生の応援をしてました(笑)自由だ
もうホント何のために美術部作ったんですか?(笑)
「先生の部室はこっちです!」と連れ戻す日々
穏やかな時間が流れていたなと思います。
わたくしこの先生のことは好きだったなぁと振り返ります。
・晴天の霹靂。顧問病気により転校
そんなわたくしの楽しい部活ライフに激震が走る日が訪れました。
後に母に聞いた話によると、顧問の先生は当時既に血液のガンを患っていらしたそうです。
病の身をおして、美術部を創設して下さったんですねぇわたくしの為に。
とんでもねぇ迷惑とか言ってごめんなさい H先生。
そしてその病が悪化し負担の軽い小学校教師へと転職なさる為、我が中学校を去っていきました。
そしてその後任としてやってきた先生こそが
怖い先生。K先生だったのです。
忘れもしない全校朝礼の朝
新任の先生の紹介があり、新任の先生方が壇上に並んで立っていらっしゃいました。
その3人目に並んでいる先生の姿が目に入った瞬間
直感的に
「あの先生…やばい」
と思いました。
何がと言えば、もう見た目から、発するオーラから全てが…なんかやばいと感じざる得ませんでした。
もしわたくしに妖気を察知する鬼太郎のアビリティーがあったならビンビンに髪の毛が逆立っていたはずです。
わたくしは心の中で
「どうか、あの先生が美術の先生じゃありませんように。ありませんように。」
と、祈るような気持ちでその先生の紹介を待っていました。
ところがその祈りも虚しくその先生が新しい美術教師としてご紹介されました。シクシク
つまりわたくしの美術部の顧問という事になる訳です(涙)
地獄の日々の始まりでした。
リアル地獄先生…
・初めての授業「超心理学」
K先生の初めての授業が行われました。
先生が黒板にお書きになったのはご自分の名前でもなく
美術の事でも授業の事でもなく
「超心理学」
超心理学とはつまり、心霊物の事なんです。
K先生はとにかく心霊物が大好きでした。
わたくし幼心に内心、こんなにも見た目のイメージ裏切らない人いるんだなぁと思いました。
しかもその超心理学についての説明は全クラスで行われたようでした。
誰か止める先生他に居なかったのでしょうか。
その自己紹介は衝撃のものでしたが
わたくしにとってはそんな先生が自分の部活の顧問になることが大問題でした。
・ひたすら逃げる、逃亡の日々
実はわたくし、2年生にして既に部長でした。
何故ならば部員がわたくしと友人以外に居なかったのと
中1の頃は絶賛 自分のウィークポイント撃退中で
自分に足りないものを養うために色々な事に挑戦している時期でした。
「責任感を養うためには責任のある仕事をすればよいのでは?!」
という短絡的な発想で既に
「2年生になったら私部長やる!」
と宣言してしまっていたからです トホホ
K先生は部長であるわたくしに部活内容を伝えるため接触してくる訳ですが(当然です)
とにかく目も合わせたくないわたくしは常に鬼太郎レーダーを全開にして察知しては逃げる!の逃亡の日々が始まりました。
穏やかだった1年生の頃とは大違い(涙)
逃げるわたくし
追う K先生。
この構図は卒業するまで続くものとなります。
・ついに恐怖の授業が始まる
そしてついに、あのわたくしの空白の3年間を作る原因となった恐怖の授業が始まります。
わたくしが通っていた中学校では1学期間に1度、先生の好きな授業ができる日がありました。
例えば国語の先生なら百人一首大会をしたり
映画を見せてくれる先生もいらしたり、本来ならば普段の授業から離れお楽しみ会的な授業なのですが…
忘れてはいけません。
K先生は何が大好きでしたか?そう。
「超心理学」
真っ暗にした視聴覚室で先生特選の「怖いお話」のビデオを視聴するのです。
それがまた本当に怖かった(涙)
元々怖い話は苦手なのですが、しばらく普通に生活できない程の怖さ(涙)(涙)
そしてクライマックス。呪いの人形の目がギョロっと動くような戦慄のシーンでタイミングよくパァーーーン!と風船を割ったり、クラッカーを鳴らすのです(涙)(涙)(涙)
振り返るとニヤニヤ笑っているK先生。
怖い。通り越して怒り!
先生だからって好き勝手しやがって…このやろぉ(涙)
わたくし恐怖と怒りに震えておりました。
今思えば親に必死に頼めば学校に交渉してくれたかもしれないと思いますが、当時は今よりも「先生」という存在の地位が高く、モンスターペアレントなる存在も認知されておらず、生徒は我慢。親も我慢。が割りと当たり前だったように思えます。
・なんとか逃げ切った2年間
わたくしの部長としての使命は
H先生が命がけ(大袈裟)でわたくしの為に作って下さったこの美術部を廃部に追い込むこと。
あんな先生が顧問を務める部活は廃部にしなければいけない。
実に2年間 K先生との校内鬼ごっこを貫き退部。
無事美術部を廃部にし、中学を卒業しました。
そしてすっか美術に対し 超心理学と K先生のイメージが定着してしまったわたくしは
「絵を描かない普通の女子」になるべく普通科高校へ進学後、筆をおりました。
毎日バイトして遊んで。
すっかり絵を描かなくなって日々あの恐怖の出来事は薄れて行きました。
・後日談 ~地獄先生のその後~
わたくしが結婚してしばらくたった頃、打ち合わせに向かう電車の社内で中学校時代の英語教師Mティーチャーに偶然お会いした事がありました。
空いている電車の社内でMティーが下車するその駅まで隣に座ってお話しました。
Mティーはわたくしの書籍を全て購入して下さっていてわたくしがイラストレーターとして頑張っている事をご存知でした。
その時、K先生の話題になりK先生のその後を知る事ができました。
わたくしが中学を卒業して10年後位経った頃、亡くなったそうです。
孤独死だったそうです。
死因はご存知なかったようですが、恐らく死亡時期の推定年齢はまだ40代だったと思います。
働き盛り、まだまだ亡くなるような年齢ではなかったと思います。
Mティーも「あの先生は何を考えいるのかわからなくて気持ち悪かったよねぇ」
と仰っていました。
K先生、ついに憧れのあちらの世界に行っちゃったんだなぁ。
・親になってから振り返るあの時代の事
今となってはあの時代のあの授業内容が異常であったと確信を持って言えますが、まだ幼かったわたくしには先生や親の言うことか絶対という認識があり、意義を申し立てることができませんでした。
もし万が一、我が子の通う学校で同じような事が起きたら、きっと意義を申し立てると思います。
何十年も経ち、今はもうさびれた古い思い出と化しましたが、その当時わたくしに与えた影響は計り知れないものがありました。
様々な経験あっての今ですから
あの恐怖体験もこうしてアウトプットする事で
どなたかに興味深い話としてエンターテイメントになるのなら、まぁ良かったかな (苦笑)
長い思い出話にお付き合いくださいましてありがとうございました🙏
最後に、H先生、K先生のご冥福をお祈り致します。
ではまた!
Illustrator トウド ヤヨイ (^_^)ノThanks!☆
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