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雑文置き場

panpanyaの漫画表現は発明なのか?

先日オモコロチャンネルにあがった動画をみておりまして、

 

youtu.be

 

さすがにオモコロメンバーは漫画を楽しそうに紹介するなぁと、私は関心しきりだったわけです。

しかしながら、

ダ・ヴィンチ・恐山によるpanpanya『グヤバノ・ホリデー』の紹介には異論があったので、この記事を書くことにしました。

誤解なきよう前置きしておきますと、恐山氏によるプレゼンはpanpanya作品の魅力を伝えるという点において瑕疵はないと思います。

では、どこに異論があるのかと言えば、恐山氏の以下のようなpanpanya作品の説明についてです。

 

リアルに鯉が描かれている一方で、キャラクターはめちゃくちゃシンプルな鉛筆書きで描かれているというね。これの対比がまずかなり発明。この人以外にやっている人はいないじゃないかな。

 

この人の中では主と風景というのがあって、鳩は風景側の存在だったから、このリアルな描かれ方をしていたんだけど、握ることによって主人公側と一体化することでルールが書き換えられてめっちゃシンプル顔になる。(中略)このルール全部をこの人が発明しているってことがすごい。誰もこんなルールに従って作品描いてないのに、自分で作ったルールで勝手にやってる。

 

つまり、恐山氏の説によれば、「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」「主(観)と風景(客観)を描き方の違いによって表現するというルール」はpanpnayaによる独自の発明であるということになります。

はたして本当にそうでしょうか。

これを機会に、panpanya以外にもそういった手法やルールを駆使した漫画家たちがいることを紹介したいと思います。

 

 

水木しげるのカメラ

 

ユリイカ 2024年1月号 特集*panpanya』のインタビューにおいて、インタビュアーはpanpanyaとのある作家との関係性に切り込んでいます。

 

写真を起こして背景にするというやりかたは、水木が始めたとされています。その写真を起こす作業には、水木のアシスタントだったつげも少なからず関わっていたわけですよね。(中略)panpanyaさんのマンガのスタイルはその二人にかなり近いものに見えます。

 

ここにおいては、panpanyaが多用する「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」が水木しげるつげ春義からの系譜ではないかということが指摘されています。

ただし、panpanyaは過去作家からの影響を多少なり認めつつも、そういった漫画家を模倣したわけではなく、自身が暮らした川崎という町への愛着によって、こういった表現が要請されたのだと返答しています。

とは言え、「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」の日本漫画における最初の発明者は水木しげると言っても差し支えないでしょう。

 

 

水木しげるゲゲゲの鬼太郎 青春時代』より

 

水木しげるは、膨大な「絵についての資料」の収集家として知られており、特にカメラ雑誌からの引用によって、その背景は作り上げられたものであることが近年の研究によってわかっています。(詳しくは、「ミズキカメラ」で調べてみよう。)

panpanyaもはじめから水木のような写実的な背景にたどり着いていたわけではなく、特に初期作品を見れば創作の中で自分にふさわしい表現法を試行錯誤していたことがわかります。

それぞれの漫画家がそれぞれに表現を追求した結果、似たような形式に落ち着いたというのが正しいところでしょう。

では、なぜ水木とpanpanyaは同じような背景表現にたどり着いたのでしょうか。

その理由についても考えていきましょう。

 

panpanya「地下行脚」より
一つのページの中でめまぐるしく背景の描法を変える試み。

 

 

 

 

 

妖怪を現実にする方法

 

「カッパの三平」は、河童に似た人間の子どもが河童の世界に迷い込んだ事件をきっかけにして、河童の長老の息子が人間世界へ留学することになる物語です。

私たちが暮らす人間世界に妖怪が入り込んでくる、現実の中に虚構が紛れ込んでくる様を表現するにあたって、「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」はおおいに効果を発揮しました。

水木の故郷である田舎町のリアルな風景の中に、デフォルメされたシンプルな妖怪の姿が配置することは、妖怪という非現実を、私たちの現実と地続きのものであるとビジュアルで訴えかけます。

 

水木しげる「『ぼくら』版カッパの三平」より

 

こうして虚構を現実世界の日常に紛れ込ませることは、panpanyaも得意とするテーマであり、水木と同じような背景表現にたどり着いたのは必然だったのかもしれません。

つまり、水木とpanpanyaは表現したい世界観がそもそも似通っていたために、同じような表現に行き着いたというわけです。

さらに言えば、妖怪や妖精のようなものを扱った漫画には、同様の効果を狙ったものが多くみられるのです。

 

小田ひで次ミヨリの森』より

 

背川昇『どく・どく・もり・もり』より

 

逆柱 いみり『ネコカッパ』より
どこかにありそうで、どこにもない風景

 

 

 

 

 

 

 

つげ義春の私マンガ

 

さらには、つげ義春panpanyaの関係についても同様のことが言えます。

水木のアシスタントをしていたつげ義春は、「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」の直接的な継承者でありました。

つげは日常の中にぬるりと虚構を持ち込んだ怪奇幻想漫画を多く残しましたが、それ以上に身の回りの小さな事件や個人的な旅行記を扱った、私小説ならぬ私マンガのパイオニアとしても知られています。

panpanya作品にも、作者の身の回りを描こうとする私マンガ的側面があることは言うまでもありません。

 

つげ義春ねじ式」より
リアルでありながらどこか奇妙な世界

 

つげ義春リアリズムの宿」より
私小説的な旅行記漫画


「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」は、私マンガ的表現にとっても都合のよいものだったと言えます。

そもそも「私マンガ」は成立しえない形式なのです。

私小説」の前提には自然主義文学があり、作者というカメラがその身の回りを写生することによって成立しています。しかし、漫画は小説と違って作者自身のカメラでもって身の回りを写生することはできません。常にカメラは作者の外側にあり、「私」を客観的にとらえてしまします。

それゆえに「私マンガ」を無理矢理に成立させてしまう裏技が「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」なのです。

リアルな背景はこれが現実世界の話であると読者に信じ込ませ、作者自身をデフォルメされ記号化された身体として描くことは、その身体が誰のものでもない、誰にでも代入可能な存在であることをアピールします。

あるいは、「セカイ」を客観的に認識しつつ、「私」を主観的に認識している、その状態を表現しているのだと言ってもいいかもしれません。

 

浅野いにおおやすみプンプン』より
シンプルなキャラクターだからこそ、読者はそこに自分を代入できる

 

イトイ 圭『サムデイ・ネバー・カムズ』より
エッセイコミックとも相性がいい表現である

 

 

有賀『ウツパン -消えてしまいたくて、たまらない-』より

 

 

 

 

 

 

ところで、細密な背景を描くという点で水木とpanpanyaは共通していましたが、panpanya「街」をよく描き、水木は「自然」をよく描きました。

その違いの理由を、幼少期を神奈川県川崎市で過ごしたpanpnayaと鳥取県境港市で育った水木の生育環境に見出すこともできるでしょう。

あるいは、水木と同じように「自然」への深い愛着から、実写的で細密な自然風景を描く漫画家も存在します。

そうした漫画家たちは、狙った演出というよりも結果的に「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比」を実現することもありました。

 

矢口高雄釣りキチ三平』より

 

ちばてつや「茂助じい」より

 

 

 

主と景のあわい

 

「主(観)と風景(客観)を描き方の違いによって表現するというルール」、このルールに従っているのはpanpanyaだけだと恐山氏は言います。

 

panpanya「比較鳩学入門」より
鳩って怖いけど、近くで見てみると意外とかわいい

 

「比較鳩学入門」において、離れて観察する鳩は実写的に描きながら、手に持った鳩はシンプルで記号的に描いたことがその例とされています。

しかし、そういった表現はpanpnayaの専売特許ではありません。

おそらくは、多くの漫画家が「主(観)と風景(客観)を描き方の違いによって表現するというルール」をうっすらと順守しています。

ただ、それを読者にもはっきりとわかる形で表現していないだけだと思います。

実際に主と景が移り変わる瞬間を描き方によって表現した例をいくつか見てみましょう。

 

 

イトイ 圭『サムデイ・ネバー・カムズ』より
野良猫に餌をやっているときは写実的な猫だが、飼い猫はデフォルメされた猫である

 

押切蓮介「ひかりの森」より
森の動物たちに恐怖心を持っているときは写実的だが、恐怖心が薄れるとデフォルメされた姿に見える

 

つげ義春「夏の思い出」より
妻はデフォルメされた姿で描かれるが、知らない女は写実的である

 

吾妻ひでお「夜の魚」より
手塚的な記号的身体を継承した吾妻ひでおも写実的な女体を描いている

 

高野文子「いこいの宿」より
姉弟だけで暮らしている世界に知らない男が迷い込んだら

 

にくまん子「よよの渦」より
同居女のことをマスコットのようにしか認識していなかった男が、同居女に彼氏ができたことで女として認識していく過程

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終りにかえて

 

特に結論らしいものは何もないのですが、

panpanyaの最新作『つくもごみ』の表題作は、「リアルな背景とシンプルなキャラクターの対比という手法」と「主(観)と風景(客観)を描き方の違いによって表現するというルール」を駆使しなければ表現できなかった激エモ傑作短篇なのでした。

国民全員読みましょう。