異世界から帰ったら江戸なのである   作:左高例

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23話『お金持ちにはなれない』

 

 鰯雲が空にかかり、すっかり秋の気配になってきた……

 

 暑気も随分緩くなり、通りを歩く江戸の人々の姿も増えたように思える。暑さで痛むために少なくなっていた野菜売りや魚売りも夏の稼ぎ分を取り戻さんと忙しそうに走り回っていた。

 その日、大川沿いの道を歩くのは年の頃三十前程の特徴的な黒い羽織を着ている侍──同心であった。

 丁度昼飯の時分だ。そろそろ小腹が空いてきたその同心は見回りの途中だが近くに食える店が無かったかと考える。

 この辺りだと……と、彼が顎に手をかけた時にふと蕎麦つゆの良い匂いに顔を向けると、目につく張り紙があった。

 

『新そば はじめました』

 

(そういえばもう秋だったな……)

 

 同心は奇怪な狸の絵と共に売り文句が書かれている張り紙を見て季節の移り変わりを感じ入る。

 そして新蕎麦の事を考えるとどうしても食べたくなってきた。店内は既に同じ想いで入ったのか客入りがあり、この調子だとすぐに満員になりそうな気がする。

 慌てて店の暖簾をかき分けて店に入る。そういえば同僚の同心、菅山利悟がお気に入りとか言っていた店がここであったか、と同心二十四衆が一人[巡邏直帰]水谷・端右衛門(みずたに・はなえもん)は思い出した。

 

 ここは蕎麦屋[緑のむじな亭]。冷たい水と酒、簡単なつまみ、いまいち不味い蕎麦を出す一寸知られてきた店である。

 

 

 

 ****

 

 

 

 [緑のむじな亭]は珍しく繁盛をしていた。経営に口出しする九郎がやってきても最初のうちは中々結果を出さずに、お房は彼を穀潰しと思っていたものだがこの秋はお房が知る限り一番の客入りである。

 これまで客席が埋まっている所など見たことがなかったというのに。

 忙しく六科は蕎麦を打ち続けているし、九郎も客に出す酒やつまみを用意したり、最近買った大鍋に沸かしている蕎麦のつゆを打ちたて茹でたての蕎麦にぶっかけて盛っている。

 昼飯時で客の回転は早く、お房は次々に発生する銭勘定で頭が混乱しそうだった。

 

「おろし蕎麦一つ!」

「こっち注文したやつ来ないぞ!」

「はぁい、少々お待ちをぅ!」

 

 あたふたとしながら熱い蕎麦に大根おろしを乗せたおろし蕎麦を給仕する。

 最近始めたおろし蕎麦は九郎が提案したトッピング案の一つで、安くて大量に手に入り簡単だから採用された。おろす為の器も九郎が作っていて、残量を見ながら彼は厨房で縦四つに割った大根を擦りどんどん生産していた。

 他の客との相席で店に座った同心・端右衛門は蕎麦の上に雪のように盛られた大根と刻み葱を軽く箸でつゆに解かしながら、共に出された茶碗に入れられた水を飲む。

 

(む……ここの水、どういう理由かわからんがよく冷えていてうまい……)

 

 しげしげと茶碗の中に揺らぐ水を見て感心した。

 そして箸で蕎麦をよく大根おろしの混じったつゆに絡ませて上げる。湯気を立てるやや黒っぽい蕎麦は、少し前の夏になら見向きもしなかったが今は美味そうに見える。

 蕎麦の香りはやや薄くて、麺はふにゃりとしているが、つゆに胡椒が入っているらしく鼻孔をくすぐる匂いだ。

 ずず、と音を立てて蕎麦をすする。大根と胡椒の効果もありやや辛めの汁だが、塩っぱくは無い。

 

(そうそう、蕎麦とはこのような感じ……いけるな)

 

 と、満足そうに味わう。値段は普通の新蕎麦が十六文でおろし蕎麦が二十文。新蕎麦が出始めのこの時期では安い方である。

 端右衛門と同じ北町奉行所に務める食通の隠密廻同心、通称同心二十四衆[美食同心]などは、

 

「新蕎麦を楽しむのに『かけ』なんて食うのは蕎麦っ食いじゃねえ」

 

 などと公言して止まないが、端右衛門は特に拘らない性質であった。むしろ、薬味が効いて刺激的で旨く感じる。

 蕎麦を食いながら視線を店の壁に張ってある品目に目を通し、焼き海苔や酒といった物も頼みたい気がしたが何せ昼飯時で混んでいる。

 

(落ち着いた時間にまた来るか……)

 

 致し方ない、と思って酒をゆっくり楽しむのは次の機会に回そうと決める。

 懐の財布から二十文取り出していると隣の同じくおろし蕎麦を食っていた男が先に席を立った。

 そしてお房に、

 

「嬢ちゃん、この切手使えるのか?」

 

 と、何やら小さい紙片を渡した。

 お房はぺこりと頭を下げ、

 

「はぁい、割引切手でおろし蕎麦十六文になるの」

「よっし得した。また来るぜ」

 

(割引切手……? ほう、変わったものがあるな)

  

 隣の男が切手と十六文を渡すのをじっと見る。何処で手に入るのか知らないが、それを使えばおろし蕎麦を普通の蕎麦と同じ値段で食えるのだ。

 随分と良心的なものを感じながら、

 

「ここに置くぞ」

 

 代金二十文を机に置いて端右衛門も席を立った。

 お房が銭と食器を盆で回収しながら元気よく、

 

「どうもありがとうございました!」

 

 と、云った言葉を背に端右衛門は店を出る。

 彼が出た後も入れ替わりで客がまた店に入っていく。やはり店頭にウリの[新そば]とわかりやすく書かれているのが集客効果を出しているようであった。

 利悟お勧めの店と聞いていたが、あの稚児趣味中々に良い店を知っていると胸中で同僚を褒めながら、常磐方面に巡邏の足を向ける。

 秋晴れの良い日和である。腹も膨れると働いているのが億劫になり、

 

(今日はそのまま八丁堀の家に帰ろうか……)

 

 などとまだ昼だというのに考えてしまう。

 二十四衆などと呼ばれているが、彼は不真面目な方でよく知られているようだ。どういう基準で選出されているか、当人らも知らぬのであるが……

 

 

 

 ****

 

 

 

 昼八ツ(午後二時頃)も過ぎると客入りが落ち着いてきた為、一旦店を閉める事にした。

 店の三人は忙しくて昼飯も食っていない。

 九郎がざく切りにした葱を蕎麦つゆで煮詰め、卵で綴じた卵丼を簡単に作った。

 箸を進めながらも笑顔でお房が、

 

「んふふ~」

 

 とか、

 

「はうう」

 

 とか言いながら昼の売り上げを入れた小袋に手を突っ込みちゃらちゃらと音を立てているので、九郎が顔をしかめて叱る。

 

「これ、フサ子よ。飯の時ぐらい銭入れから手を離さぬか。行儀の悪い」

「だってうちがこんなに儲けたのは初めてなの」

 

 頬を緩ませて体を揺すりながらお房は銭の音を聞いて喜んでいる。

 こういった一面を初めて見た九郎はなんとも言えない表情で六科に視線をやったが、やはり父は気にせずに、背筋をぴんと張ったままもりもりと卵丼を掻き込んでいた。

 

(まだ小さいのに、勘定が多いの少ないので喜ぶのは一寸のう)

 

 悩ましげに思ったが、それだけ彼女がこれまでやりくりで苦労してきた事の証左でもあり、

 

「ま、今はよいか……」

 

 と、いった。

 お房が喜色のまま、九郎に質問を投げかける。

 

「それにしても、詐欺みたいな手段なのによく人が集まったの。新蕎麦の蕎麦粉なんて一割ぐらいしか使ってないのに」

「なに、多かろうが少なかろうが、使っていることには変わりあるまい。看板に偽り無しだ」

 

 悪びれもせずに九郎は云う。

 言葉の通り、秋口に取れた新蕎麦の粉は先物買いで江戸中の蕎麦屋が買い求める為に値段が高くなっている。逆に、夏の間はそれなりの値段がしていた古い蕎麦粉は値崩れを起こしていた。

 九郎はそれを混ぜあわせて新蕎麦の原価率を落としたのである。

 

「[盛り]ならともかく、熱いつゆをかけた蕎麦では香りが薄くとも客は気付かぬ。味のわかる蕎麦通ならばこんな店には入らぬであろうからな」

「こんなって言うな」

「おっとすまぬな。しかし、人間、新蕎麦を食っていると思い込めば本当に新蕎麦の香りを感じるものなのだよ」

「そんなものかしら」

「ああ、それは分かる気がする」

 

 飯を喰らっていた六科が口を挟んだ。

 

「俺も七草粥だと言われて、草が一つも入っていない粥をお六に食わされた事があるが……あの時はすっかり騙された」

「なにも入っていないのはさすがに疑えよ!?」

「煮込んだら草は溶けたと言われてな」

「お父さんはただの不良舌だから参考にならないの……」

 

 お房は父に対して持っている諦めに似た感情出さんばかりに、強くかぶりを振る。

 顔をゆがめながら九郎が、

 

「ともあれ、六科が打てば新蕎麦粉を使おうが古い蕎麦粉を使おうが、麺のうまさは低い値で然程変わらぬからな」

「そうだな」

「認めちゃうんだ」

「後はつゆで味をごまかす。おろし大根や胡椒、葱を入れ込めば美味い……とまで思わんかもしれんがそれなりに納得した顔の客が多かったしの」

 

 茶を一口飲んで、

 

「客というのは美味い新蕎麦を食いに来るのではない。新蕎麦を食ったという事実を作りに来るのだ。味は大きな問題ではない」

「ふぅん」

 

 現に材料費が浮く事で純利益は上がっているのだ。

 さらに、この店の場合火元に九郎の持ち込んだ魔法の呪符を使っているために薪代が一切掛からない。料理店において光熱費がほぼ無料だというのはかなり嬉しい事だ。

 九郎の居た異世界に於いて最高ランクの魔法使いであった魔女が作成した呪符は、その殆どは破壊するか、魔女のみが使える術で呪符の魔力を増幅し凌駕発動(オーバーフロウ)しない限り半永久的に効果を及ぼす。

 それにしても、とお房は客の何人かが持ってきた紙片をつまみながら、

 

「この割引切手はどうして配ってるの? おろし蕎麦の値段が四文安くなったら損じゃないかしら」

 

 二十文のおろし蕎麦を普通の蕎麦と同じ十六文で食わせる券である。大根おろしのトッピングがついて同じ値段なのだから、客は大層喜んで使っていた。

 

「いや、よいのだ。このくぅぽん券は宣伝の為に作った。彼方此方(あちこち)、ざっと二百枚ぐらい湯屋の二階に置いてきたのだが……」

 

 湯屋は町人から職人、侍など身分に関わらず利用する施設なので宣伝には打って付けである。いくらか店の者に心づけを渡して、置かさせてもらっている。

 

「二百枚だと……ええと……四の二百で……」

 

 お房が指を折り数えている隣で六科が平然と、

 

「六百文の損だな」

 

 と、言うのだからお房は驚いて鸚鵡返しする。

 

「ろっぴゃくもん!」

「……いや、違うからな? 八百文だ。堂々と数え間違えるな六科よ」

「むう」

 

 父を見る視線に何処か冷たいものをお房の目から感じる。

 ともかく、己の取った戦略で損と言われたままではどうも、いけない。

 静かに九郎は訂正する。

 

「よいか、そもそも普通の十六文蕎麦に、猪口盛り切り一杯分程度の大根おろしを加えただけで二十文取るという元の価格設定がぼったくっておるのだ。

 大根は一本二十文ぐらいだったが、一本で何十杯分も擦れるのだぞ。摩り下ろす時間と手間を考えても一杯辺り一文ぐらいしか費用は増えておらぬ」

「……確かに」

「だがあの切符を見た者は、食えばその時点で四文儲けると考える。そうなれば別にどうとも思ってなかった蕎麦屋でも足を運び、原価の安い蕎麦を得した気分で頼むというわけだ」

 

 九郎は得意気に、

 

「それに切符の客がおろし蕎麦を食っているのを見れば、他の客も普通の蕎麦より少しばかり良い物に見えて二十文で注文したり……そんな客もおったであろう」

「うん」

「儲けがこうして増えるような仕組みになっておるので損はしておらぬのだ。よいな」

「うーん……とにかく、今までに無いぐらい沢山お客が来て、お父さんの蕎麦を食べてくれたのは九郎のおかげってのはわかるの。見直したの」

 

 実際に九郎の予想以上に客が入っている。新蕎麦を安く売り、店頭に入りやすい広告を出しているという理由も重なっているのだろう。

 お房は感心し頷いて、

 

「ありがとう、九郎」

 

 と、素直に感謝の言葉を告げた。

 面食らった九郎は少しばかり顔を伏せて体をやや震わせながら、

 

「フサ子から『ありがとう』などと言われるとは……よし、もうこれで[完]でいいな。おめでとう己れ。そしてようこそ、幸せな老後よ……」

「ぁによう、たまには褒めてあげたのに意味不明な反応して」

「照れているのだ、あれは」

「なぁんだ」

 

 くすくすと笑うお房に少しばかり苦い微笑みを返す九郎であった。 

 色々と店が流行るように手を貸していたが、遅々としか売り上げは伸びていなかった。しかし漸く飯時には満席になるという成果が出たのだ。

 彼も、

 

(やれやれ……)

 

 と、安心する。

 居候として住み込んでいる身分ではこのあまり裕福でない父娘に負担を掛けている自覚はあったが、こうして店の役に立ったと礼を言われると住む責任を果たしていると思えて、少しばかり肩の荷が軽くなった気持ちだ。

 しかし客入りを多くした当人としては、暫く落ち着くまで店の手伝いもせねばならないのには困りものではあるが。

 今後の事を考えつつも、

 

「とにかく、大事なのは多くの人にこの店のウリを知らしめ、再度足を運ぶようにさせることだからこの新蕎麦の時期は宣伝が大事なのだ」

「うむ。腕が鳴るな」

「あっ、別に店のウリとはお主の微妙な味の蕎麦ではないからな」

「……」

「……」

「酒だけは良いのを己れが置いてるからの。冷っこい水や豆腐も昼はまだまだ売れるな。ぶっちゃけ、蕎麦より酒の方が利益が出るから……まあ、客の回転率は悪くなるのだが」

「うちは蕎麦屋なんだけど」

 

 半目で告げてくるお房から九郎は顔を背けながら、

 

「……しかし六科の蕎麦がまずいから」

「うむ。やむを得ん」

「否定もせずに諦めないでよお父さん」

「ま、良い店というのは厨房での腕前で決まるのではない。味はぎりぎり及第点でも客が寄り付く店が良い店だからのう」

 

 食い終わった丼を置いて、茶を飲みながら九郎は言う。

 

「さて、夕方の店も頑張るとしよう。このくぅぽん戦略をパクられる前にな」

「そうなの?」

「そうさな、あっぴる作戦は次々に新しいものを考えていかねば。この時期、いかに新規客が来るかが勝負だ」

 

 

 

 ****

 

 

 

 翌日も[緑のむじな亭]の新蕎麦はよく売れるようであった。

 ここで更にダメ押しとばかりに九郎は宣伝に出る。

 暇そうな知り合いを呼んできて、店頭に出した傘の付いた座席で蕎麦を食わせて、通りかかる人に聞こえるように絶賛させるのだ。

 いわゆる、さくらである。

 なお、店先に置く日傘は高級品な為に持っていなかったのだが、売っている店を[藍屋]の主人夫妻に聞いた所、

 

「ええ大丈夫ですよ勿論『新品の傘』ですとも。お八に持って行かせますから『傘』を受け取って下さいませ」

 

 と妻のお夏に捲し立てられ、凄まじい勢いで傘をお八に持ってこられた。何か隠語的な響きがあった気がしないでもなかったが……まあ手に入ったのだからいいかと、深く考える事はしなかった。

 ともあれ、店頭で時分どきに蕎麦を誰に食わせればいいか、とりあえず呼んできた。

 そして一番暇そうにしていた鳥山石燕は一口食って箸を置いた。

 

「この新蕎麦は出来損ないだ。食べられないよ」

「おいこら石燕」

「三日待ちたまえ。私が本当の新蕎麦ってやつを出す店に連れて行ってあげよう」

「宣伝しろよ!? っていうかなんで三日!?」

 

 まず、駄目だった。

 味にうるさい石燕では、微妙な味を誤魔化しているこの店の蕎麦はお気に召さないようである。

 宣伝どころか、逆効果になりそうだ。

 

(頼んだ相手が悪い……)

 

 九郎は騒ぐ石燕に酒を酌してやってとりあえず黙らせるのであった。

 次に彼女の弟子の子興に頼んだのだが、

 

「はふっ、あふっ、熱っ! は! 熱う──!」

「……」

「あっ唐辛子がっ……辛っ! いぃひぃ……辛ぁ……!」

「これも駄目だな……」

 

 猫舌の彼女が早食いでもないのに熱々の蕎麦をいそいそと食う様子は、美味そうというか罰でも受けているかのようであった。

 しかも薬味の唐辛子を入れようとしたら蓋が外れてどばぁっと入り、激辛蕎麦になってしまったのだ。

 涙目で舌を腫らしながら子興は蕎麦を手繰る。

 とうてい、客寄せとは言えない。

 仕方なく次に九郎は貸本屋の店頭で見かけた天爵堂を引っ張ってきた。

 

「なんで僕まで……」

「よいから、よいから」

「はあ……」

 

 吐いた溜息の代わりに、もさもさと啜らずに蕎麦の麺を噛んで食べる天爵堂であった。

 俯いたまま丼に手も添えずに、ひたすら陰気な顔で蕎麦を噛む。

 うまいとか、まずいとかそういう感想も無い。

 さしずめ同日に葬式が数度あって、食い飽きた精進料理を無理やり口に入れているようであった。

 

「なんというか……お主、もっと美味そうに食えぬか?」

「そう言われてもなあ……」

 

 彼は仕方なさそうに白い顎髭を撫でながら、

 

「僕みたいな老人が美味そうに蕎麦を大食していたからといって、他人の食欲を喚起させるものではないと思うけれどね」

「言われて見ればそうである」

「……だから代金は払うから中でゆっくり食べさせてもらうよ」

 

 やる気の無い熊のようにのっそりと彼は背中を丸めて丼を片手に店に入っていくのであった。

 さて……。

 

(他を当たるか……)

 

 と、次に呼んできたのは晃之介とお八の師弟である。

 二人して並んで、

 

「うわーなんかうまいぞー」

「今すっげうまい。今すっげうまい。」

「驚くほど棒読みであるな」

 

 演技力を駄目だしされるのであった。  

 さくらの効果はどれほどかわからないが、ともかく新蕎麦の看板と割引切手も作用してここ数日は店がにぎわいを見せている。

 安い原価と無料の光熱費でどんどん溜まっていく金に、店の三人は嬉しい悲鳴を上げるのだった。具体的には嬉しい悲鳴の発声訓練を夜に三人で行っていたら長屋の壁を殴られた。隣に住む気難しい職人の源八爺さんに怯える三人である。

 ただ……。

 

(ちと、フサ子は働き過ぎではないかの)

 

 と、九郎も手伝いをしつつ思うのであった。

 お房には主に、注文を聞くのと勘定を受け取る係にさせて配膳その他は九郎が受け持っているが、それでも九歳の子供がばたばたと働き詰めである。

 まだ客が少ないときは九郎と遊びに出かける暇さえあったのだが、これではどうもいけない。

 というか自分もこれでは出かけられない。九郎も労働に対して疲れが見えてきた。アドバイスするまではともかく、実働となるとまたこれがしんどい。

 

(いっそある程度金が集まり、客入りが安定するようになったら店員を雇うのがいいかもしれぬ……)

 

 子供には楽をさせたいものである。毎日が忙しければ、お房の勉強も進まぬし趣味の絵も描けないだろう。

 今しばらく店の様子を見つつも、六科と相談しなければと九郎は思うのであった。

 

 

 

 ****

 

 

 

 そうして[緑のむじな亭]のかつて無く栄えた数日が過ぎた夜の事である。

 少し早めに店の暖簾を下ろしてその日の営業を終えようとしていた。その日も客入りは忙しかったが、一仕事終えるとお房も鼻歌などを歌いながら片付けをしている。

 草臥れた九郎が六科と湯屋にでも行こうかと相談しているときであった。

 入り口近くにいたお房が急に座り込んだ。

 

「……フサ子?」

「痛い」

 

 彼女はそう呟くと、青ざめて歯を食いしばった顔を向けながら、腹を抑えて、

 

「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!! お腹痛いの!!」

「お房!?」

「むっ……まさか昼飯に当たったか?」

 

 慌てて六科が駆け寄る。

 土間にのたうち回るお房を抱き上げると、彼女は涙をぼろぼろと流しながら顔をゆがめ、

 

「痛い!!」

 

 と、叫び続けた。

 耳をつんざくような悲鳴である。

 これは尋常ではないと九郎も焦って、

 

「お、おい六科! とにかく横に寝かせたらどうだ!?」

「しっかりしろ、お房……!」

「うあ゛あああ! お、お、お父さんお腹が痛いよう! げほっ、おえ゛っ!」

 

 お房は更に嘔吐までして顔を振りながら痛みを訴える。

 酸っぱいような苦いような液体が溢れて咳き込む彼女の背中を擦るが、一向に痛みが引く気配はない。

 とにかく、座敷に寝かせるが体を必死に折りたたむようにして蹲り、嗚咽を漏らしながら泣き叫び続けた。

 食中毒どころではない。

 九郎も六科も昼は同じ、飯と鰯のつみれ汁、味噌焼き茄子を食っている。危なげな食材は無かったし、苦しみ方が凄まじい。

 二人共じっとりと背中に脂汗を掻きながら、

 

「い、医者を呼んで来なくては」

「俺が行く」

「お主は娘の側に居ろ! 己れがすぐに担いでくる!」

 

 九郎が裸足のまま店から飛び出そうとした時、

 

「おや」

 

 と、高下駄を履いた男が店に入ってきた。

 緊迫した状況の中では冗談のような白い狐面を被った男、

 

「新蕎麦が食えると聞いて来たのですが──」

 

 阿部将翁である。

 

「どうやら」

 

 そのまま彼は下駄をからからと鳴らして近寄ってくる。

 

「それどころじゃ、無さそうだ」

 

 喉が潰れそうなお房の鳴き声の前でも、彼は何処か余裕有り気ないつも通りの態度であった。

 場違いな格好の将翁の涼やかなよく通る言葉に、一瞬呆けた九郎は正気に戻って、

 

「将翁か……! よいところに現れた! お房を助けてくれ!」

「ほう」

 

 息を吐く音のように返事をして座敷の前に立ち、狐面を取ってお房を見下ろした。

 激しく耐え難い疼痛に気が狂わんばかりのお房の隣で、苦痛を肩代わりしてやることも取り除くことも出来ずに無力感に打ちひしがれている六科が、唇の端を噛み切りながら将翁に頭を下げた。

 

「頼む……なんでもするからお房を死なせないでくれ」

「さて」

 

 将翁は座敷に上がり、お房の頭を覗きこみながら、

 

「やってみましょうか。ちょいと失礼」

 

 ぐい、とお房の顔を己に向けさせて、彼は苦しむ彼女の口に薬で湿らせた綿を突っ込んだ。

 痛みに歯ぎしりしていたお房の口に無理やり予告も無しに入れたからか、噛まれた指先に歯型が付き血が滲んでいる。

 そして彼は薬の匂いのする口をお房の耳元に近づけ、脳が痺れるような囁き声を送る。

 

「その薬を嘗め、つばを飲み込まぬように……」

「ん……! ぐっ……!」

「そう」

 

 やがて呻くような吐息が聞こえ、お房の手足から力が抜けて動きを止めた。多少苦しげだが胸が前後に呼吸をしており、眠りに就いたことを示している。

 ひとまず落ち着いた様態に、九郎と六科は顔を見合わせて恐る恐る聞く。

 

「も、もう治ったのか?」

「名医だな……!」

「いや、眠らせただけだ。お二人さん、診察はこれから、ですよ」

 

 糸のように細い眼を向けながら皮肉げに言い放つ。

 暴れるお房が相手では診察も出来ない為に、ある植物の根から採取できる神経に作用するアルカロイド系薬物と大陸渡りのカンナビノイド系薬物など数種類を混ぜた秘伝の麻酔薬を使い、眠らせたのである。

 将翁は、

 

「それで症状は腹痛と……嘔吐。これはいつ頃からありましたかね」

「ついさっきだ。それまではなんとも無かったが……なあ六科」

「ああ。……俺としたことが、娘の体の不調にも気付かないとは……」

 

 六科は自分への苛立ちで握りこぶしの血が失せている。

 そんな彼を一瞥して、

 

「急な、激しい腹痛……ちょっと失礼」

 

 と、お房の着物を肌蹴させて、彼女の腹部に将翁は耳を当てる。

 雷が鳴り響いているようなごろごろとした音が聞こえた。また、それ以外にも金属音を擦り合わせたような異様な音がする。触診したところ、妙なしこりも感じられた。

 彼は次にお房が吐いた吐瀉物を指で触り、臭いを嗅いでみると、胃液に混じってわずかに便臭がする。

 顰めた顔で将翁は診断結果を告げる。

 

「九郎殿、六科殿。これは──」

 

 ──死病、ですぜ。

 

 九郎は将翁の言葉がやけに遠くに聞こえた。

 さっきまで元気にしていた子が急に死の淵に立たされている事など、信じたくなかった。

 病気の気配など無かったはずだ。ずっと先ほどまで元気にしていた。

 死ななければいけない理由など……

 

「どうにか」

 

 六科は縋りつく声を上げる。

 

「どうにかしてくれ……頼む」

「……難しい」

 

 彼はお房の腹を撫でながら、

 

「正確には病の気じゃない。言うなればお房殿のはらわたが、何かの拍子で捻れて絡まってしまった。特にこのぐらいの年の少女は腹の筋肉も少ないから内臓が全体的に下寄りになってしまい、偶然こうなる事がある。予兆が殆ど無いのも特徴でして。

 はらわたが捩れると口から入れたものが下から出なくなり、逆流する。嘔吐物から便臭がわずかにするのはそのためだ。放っておくと捻れたはらわたが千切れて腹に腸液が漏れて死ぬか、血が通わずに腹から腐るか……」

「……」

 

 九郎はごくりとつばを飲み込んだ。

 腸捻転か、腸閉塞と呼ばれる病気だ。軽度のものならばともかく、放っておけばその分だけ悪化していき自然と治ることはほぼない。

 現代日本ならば医療器具や簡単な手術で治るものだが、薬も効かぬこの症状は過去に於いては原因不明の激しい腹痛から急死する死病なのだ。

 

「魔法の回復薬(ポーション)……あれを使えば……」

 

 九郎は異世界渡りの、半分残った回復薬を思った。

 かの薬はかなりの重傷をも治す事ができるのだが、病気に使用される事はあまり、無い。異世界では病気の治療は実在する神の奇跡によるものが多かった。

 将翁は首を傾げながら言う。

 

「飲み薬が果たして効くかどうか……霊薬の話は聞いてますが、最悪、腸が絡まったままになるかもしれませんぜ」

「しかし、しかし……」

 

 どの程度効くのか九郎もはっきりと断言できない為に使用が躊躇われる。

 なにせ魔法の薬というものは[なんの症状にどのような効果がある]と決まっているわけではない。魔法の力により傷を癒やすというあやふやな回復が行われるのだ。しかも、量は半分しかない。

 だが他に手がないのならば……。

 焦れる九郎を見ながら、将翁は、

 

「あれを……こうして……確か……」

 

 などと考えを纏めるように呟き、

 

「……このままだとお房殿の命が危ない。六科殿。あたしに全て任せては貰えませんかね」

「ああ。全て任せる」

 

 躊躇せずに六科は託す。娘の命を救えるなら魔王にだって命を売るだろう。

 

「よし、それなら……九郎殿、治療を手伝って貰えますかい」

「うむ。なんでも言ってくれ」

「ならば、六科殿はまず桶に煮たぎった湯を用意してください」

「わかった」

 

 将翁の指示に、慌てふためきながら六科は湯を沸かして準備を始める。

 座敷を見回しながら、

 

「ここではないほうがいい……二階に空いている部屋は?」

「九郎殿、案内を」

「わかった」

 

 将翁がお房を抱き上げて運ぶので、九郎が先導して二階へ上がる。

 彼が寝室に使っている隣の部屋。殆ど使われることのない、埃っぽい部屋である。

 

「将翁、どうするのだ」

「この子の腹を切り裂いて、手を突っ込みはらわたの位置を直す」

「開腹手術をするのか!? ここで!」

「他に方法がない。あたしは患者の千切れたはらわたを縫って腹に戻した事もあるから位置はわかる」

 

 断言する受け答えに、九郎は無菌室でも清潔でもないただの座敷で手術を行わせることに躊躇を覚える。

 ええい、と彼は呻いて、

 

「ちょっと待っておれ!」

 

 と、将翁に先んじて部屋に入り、襖を閉めた。

 すると[炎熱呪符]を取り出し、魔力の開放を行うと同時に目と口を塞いだ。

 ほんの瞬きするような間である。

 閉めきった部屋を炎の圧が膨張して、ほんの少し畳や九郎の体を焦がした程度ですぐさま消えた。

 気休め程度だろうが、呪符を使った熱消毒である。少なくとも大気中の埃や雑菌は減滅したはずである。

 熱を持った襖を再び開けて、大きく息を吐く。

 

「よ、よし、お房を寝かせるぞ。清潔なシーツは無かったか……!?」

 

 すると、六科が沸いた湯を張った桶を持ってきたので、それに風呂敷を漬け込んだ。

 再び[炎熱符]でぐつぐつと再沸騰させ、煮た後に取り出して絞り、符で乾燥させる。

 それを床に敷いてお房を寝かせた。

 その間に将翁は薬箪笥から細長い小刀、針、糸、綿を準備している。

 

「将翁、道具も消毒しておくぞ!」

「消毒?」

「うぬ、まだそんな概念が無いのか……とにかく前に何に使ったかわからんから湯で洗うのだ!」

 

 言って、それらも熱湯に放り込んだ。

 九郎自身も手術の知識など殆ど無い。感染症にかかる算段の方が大きいかもしれない。それでもとにかく、お房の為にやらねばならないのだ。

 最低でも腸の位置を正せば回復薬による治療が有効になるはずだ。

 その為には将翁の腕が必要である。

 

「さて……これは時間をかければそれだけ具合が悪くなる。急ぎ仕事にしますぜ」

「大丈夫か?」

「腹を切った後に迷っていると、お房殿の血が流れきって命に関わりますから、ね。一息に終わらせる」

 

 麻酔がいつまで効果を発揮するかわからない。目覚めぬうちに終わらせねば、開腹中に目覚めて暴れた場合、腸が飛び出る事もあるのだ。

 将翁はお房の腹部を熱い手拭いでよく拭い、煮沸消毒した小刀を当てた。

 ぐ、と力を込めるとめりめりと刃が柔らかな肌に滑り込み、じわり、と血が噴き出る。

 

「血が……!」

「切っているのだから当たり前だ。黙っていろ」

 

 心配をする六科へも、集中してる為か少し荒っぽい口調で将翁が黙らせる。

 腹を縦に割る。大きな血管や中の臓器を傷つけぬ、絶妙な深さを手先の感覚で捉えて、切り開いた。

 

「綿」

 

 片手を広げて指示を出すので、九郎は無言で従い彼に渡した。

 広げた切り口に綿を押し当て、血を染み込ませて腹腔をよく見えるようにする。

 すると、やはり結腸が潰れるようにして絡まっている事が将翁からは確認された。知識のない九郎や六科が見ても、赤と白のぐちゃぐちゃしたはらわたとしかわからず、気が気では無い。

 体の内側に向かって絡まった腸は、外からでは直せない位置にある。聴診した時に直感したが、開腹しての施術は必要だった。

 将翁がその細い手指を突っ込み腸のねじれを直しているのを見ながら、六科は祈った。

 神も仏も信じていなかったが、我武者羅に何かに。

 

(腸が破れたり出血は無さそうだ……)

 

 発見から早かったのも幸いして、腸が捻れた場所の壊死も見られなかった。長時間放置すると血液が流れずに壊死するため、切除が必要となり危険性が増していただろう。

 将翁は正確な動きで腸を戻すと、てきぱきと切った腹を糸で縫い合わせていく。

 十分も掛からぬ非常に疾い手術であった。

 中国古来から伝わる本草学のみならず、最新の西洋医術である蘭学まで把握して、長年生きた実践で人体の腑分け経験も豊富な将翁だからこその正確な判断が生きたのである。

 解れぬ丁寧な縫い目の傷口を抜荷のウイスキーを更に蒸留したアルコールで清め、軟膏を縫って血を止めて包帯を巻いた。

 

「之で、良し」

 

 言って、彼は血で赤く濡れた手を湯の入った桶で洗う。

 見たところ、お房の顔色が悪くなっているということも無いし、呼吸にも異常は見られない。

 六科がぼそりとした声で尋ねた。

 

「……治ったのか」

「さて。術後の経過を見なければいけませんが……はらわたの異常は治しました、よ。暫くは安静にさせなさい」

「ありがとう」

 

 六科は手を床について頭を下げた。

 

「──ありがとう」

 

 頭を床に押し付けて、何度も礼を言った。いくら言っても言い足りない程だった。

 将翁は狐面を被りながら、口の端をいつもの胡散臭い笑みで上げつつ応える。

 

「どうも」

 

 何処か可笑しそうに将翁は応える。

 九郎は何故か彼から虚無感のようなものを感じた。特に理由はわからなかったが、不思議と。

 

 

 

 ****

 

 

 

 術後の様子も見なければいけない為に、将翁は今晩は泊まることにしたようだ。

 手術が終えた頃、一階にはお房の悲鳴を聞いたお雪や、長屋の連中が心配してうろうろしていたが一安心だということを伝えると帰っていった。お雪は二階にあがり様子を見に残ったので、入れ替わりに九郎と将翁は晩飯に蕎麦を食うことにした。

 その後、九郎も寝ているお房の具合を六科と共にまんじりと見つめ、ふと便所に立った時に月明かりの照らす長屋の屋根の上、将翁が肘をついて横に寝転がっているのが見えた。

 

「おや……?」

 

 何をしているのかと思って、九郎も軽々と取っ掛かりを足場に、屋根へ飛び上がった。

 ごろりと横たわったままの将翁へ、なにか呼びかけようとしたら、振り向きもせずに彼から声がかけられた。

 

「あの新蕎麦」

「む?」

「打ったのは六科殿で?」

「ああ」

「……ありゃいまいちな味ですぜ」

「まあな」

 

 将翁は手をひらひらと払うように動かし、

 

「治療の対価に、六科殿には蕎麦打ちの上達を申し付けますかね」

「それがいいかもしれぬな」

 

 ぼやくように言葉を交わす。

 少し間が開いた。狐面をつけていて表情のわからぬ将翁はどうでもよさそうな声で、

 

「石燕殿が云うに──」

「うん?」

「遙か未来、何百年も経てば今は死病とされる病気や治らぬ怪我も、問題なく治癒させてしまう程に医術が発展するだろう、と予想されてましたが……」

「……そうだな」

「そんな未来ならば──」

 

 何かを言いかけて、小さく笑い恐らくは言いかけた内容とは別の、当たり障りの無い事を口にする。

 

「いや、見てみたいものだ……きっとあたしの医術薬学など、御飯事(おままごと)のようなものになっているのでしょうねえ」

「謙遜するでない。お主はフサ子を救ったのだ。己れなど長生きしていても、いざというときに慌てふためいて碌に動けなんだ」

「ま、これもあたしの年の功──ってやつ、ですよ。長く生きていればいろいろございます。千切れた腸や砕けた頭骨を弄る事もあり、あの程度ならなんとか……」

 

 年齢不詳の男はいいさして、

 

「だが──それでも、治せぬ病もある」

 

 殆ど聞こえない呟きを残して、地蔵のように彼は黙ってしまった。

 その病が何の事なのか、九郎は知らぬ事であった。

 秋月が雲で翳っている。

 

 

 

 ****

 

 

 

 翌日の事である。

 どたばたと階段を走る音が聞こえ、一度躓いて頭を強く打ち付けたらしい打撃音の次に襖が大急ぎで開けられた。

 いつも真っ白で血の気が薄い顔を青くして、汗を流しながら石燕がお房の病室に駆け込んできたのだ。

 術後安定しているために一旦外に出かけた将翁からお房が手術を受けたことを聞いたらしい。

 

「房! 房は無事なのかね!?」

「あ、お姉ちゃん」

 

 肩で息をしながら(走ってきたわけではなく、店の前まで駕籠で来たのだったが二階に上がるだけで息が切れた)問いかける石燕に、布団から上体を起こして薬湯をちびちびと飲んでいるお房が応える。

 お房が布団で養生しているのを見ただけで、へたへたと座り込んだ石燕はお房の小さな体を抱きしめた。

 

「ああ……房、房、大丈夫かい……?」

「う、うん。将翁さんと、九郎のお薬のおかげでほら、縫った糸ももう抜いたから……」

 

 彼女の意識が戻ってからは傷口の痛みが酷く、また腹の傷が膿むといけないので魔法の薬を飲ませて傷を塞いだのだった。

 異世界の薬の効果は高く、開腹した傷はすっきりと消え、抜糸する時のほうが傷んでお房が呻いた程であった。ただ、飲み薬なのだが味は酷かった。とにかく酷かった。つらい後悔を呼ぶ味だった。

 だが少なくともこれで感染症などが起こる確率も大いに減っただろう。

 とにかく……。

 腹を切って治療したと聞いた石燕は、すっかり治ったお房を抱きながら、

 

「房ぁ……あうう……」

「もう、なんでお姉ちゃんが泣くの」

「よかったぁ……すん」

 

 泣きながら安心の涙を流す従姉の体を、お房は困ったような笑みを浮かべながら抱き返した。

 相当心配したのだろう。

 まるで石燕は、

 

「自分が死ぬより辛そうに」

 

 しているように九郎は感じた。

 

「くすぐったいよ、だから大丈夫だって、お姉ちゃん」

「うう、ごめんよ房。こんなことならばもっと楽をさせておけば……労働は罪だ。資本家は敵だ。社会構造は悪徳に満ちている。今こそ革命の時だね……!」

「変な思想に芽生えてるの……」

 

 革命の闘志に燃える石燕の瞳に若干引きつつ、視線を彷徨わせて九郎と六科へ向けた。

 

「ところで二人共、あたいは休ませてもらうだけど今日のお店の準備はできてるの?」

「む……いや、お房の体調も悪いし……なあ九郎殿」

「う、うむ。最近は儲けているのだから休みにしても……」

 

 店は開かぬつもりで何も準備していなかった二人はもごもごとそれらしい言い訳を口にする。

 するとお房が布団の中から取り出したアダマンハリセンが、びしりとそれぞれの頭で軽い音を立てた。

 

「もう! 何を言ってるの! お客さんがいっぱい来るからって日持ちしない食材も買い込んでるのよ! 人生で働き時っていつ!? 今でしょ!」

「ぬう……」

「くっ、こやつ元気になりおって」

 

 昨日腹を開いたというのに、もうこの気迫である。男二人は気圧されてしまう。

 小さいが赫然たる娘の態度に、六科は亡妻であるお六との血を感じざるを得なかった。

 もっとも、お六の場合は雨の日に仕入れに出かけていて、落雷に打たれたというのに帰ってきて普通に店を開いた事があるというサンダーストロング系であったが。

 しかしながら、ハリセンを持ちながら快活な顔になっているお房を見ると、九郎も六科も安心した気分になるのであった。

 石燕が病み上がりだと云うのに張り切るお房を抑えながら、

 

「房、食うに困って働きが忙しいのなら、もう無理はさせられないよ? これから私の家に住まないかね? 絵の勉強もできるが……」

 

 と、石燕が提案するのだが、お房は微笑んで、

 

「ううん。お父さんはあたいが居ないとてんで駄目なんだから、居てあげるの。

 それに仕事を頑張ってる姿が好きで……お金儲けじゃなくて最近は、お客さんが沢山来てお父さんの料理を認めてくれる事が嬉しいから、あたいも一緒に頑張るの。あ、勿論、九郎も一緒にね」

 

 にっこりと笑うと、皆はお房に背中を向けて目を伏せながら相談しあう。

 

「おおう……六科、お主のような親のもとで、よく良い子に育ったなあ……!」

「うむ……」

「まずいね……房の純な心の波動に、私の闇属性が浄化されて体が消滅しそうだ……!」 

 

「ぁによう。ふん」 

 

 声を震わせて感動しているいまいち立派な大人と言いがたい三人に、お房はいじけたように、そして少し恥ずかしいように呟いて布団を被り潜り込んだ。

 九郎が六科の腕を掴み立ち上がって、

 

「こうしてはおられぬ。店の準備をするぞ六科」

「ああ」

「よし! 頑張りたまえ戦士達よ!」

「……あっ、手伝ってはくれないんだ」

 

 もぞもぞとお房の布団に足元から潜り込んで怠ける姿勢に入った石燕はとにかく放置することにした。

 部屋を離れ二階から降りつつ、

 

「しかしフサ子がああまで言っておるのだ。お主も料理の腕前を上げてしっかりせねばならぬぞ」

「わかっている。……旨い蕎麦を五年以内に作れなかった場合、治療費百両を請求される事になった」

「……頑張れ」

「うむぁ……」

 

 唸る六科であった。

 

 

 

****

 

 

 

 その日も[緑のむじな亭]は繁盛していたのだったが、店員が実質九郎一人しかおらずに昼飯の時分には目が回るような忙しさだ。

 六科も蕎麦を打っては料理を盛り付け、酒を準備し皿を洗うという大変慌ただしく仕事を行い、日の終りには二人してぐったりと疲労で動けなくなってしまっていた。

 思えば昨晩もお房が心配で碌に寝ていない。おまけにここ数日繁忙続きで疲れも溜まっている。

 息も絶え絶えに九郎は六科に提案するのだった。

 

「のう……この店……大繁盛というか……ちょっと暇なぐらいで丁度良くないか……?」

「俺もそう……思う……」

「……はい! きゃんぺーん期間終了! 明日から営業収縮するぞ!」

「ああ。隠れた名店的なあれを目指そう。お房もお金儲けが目的じゃないと言っていた。量より質だ」

「確かに言っていたな。よし」

 

 忙しさに耐性の無い男たちは、存外に早く諦めるのであった。

 勢いで客を増やしたが、店員が対応できるキャパシティを超えてしまってはどうにもならないのだ。

 

 ところで……。

 配っていた割引切手も回収に走ったのだが、その頃には他の店舗も割引切手の真似をして、発行し始めていた。

 切手の目新しさが無くなる頃合いなので具合もいいか、と九郎は思ったのだが、後に絶妙なタイミングで自店のキャンペーンを終了したことを思い知る。

 あちこちで流行り出した切手であったが、その実態は単純に言えば店でのみ扱える金券である。しかも、何処の店も奉行所などには無許可で作って配り回っていた。

 需要があればその券を集め有料で販売する輩も現れる。

 折りしも、幕府は世間の酷いデフレーション対策として[享保の改革]に乗り出している時代である。そんな時に町人が勝手に作った金券市場が大きくなったら、お上がどのような対応を取るかは明白である。

 複数の蕎麦屋が急度叱(呼び出し後厳重注意)、または悪質な金券業者は江戸払い(追放処分)の判決を受けることとなってしまった。

 

 [緑のむじな亭]は事が発覚する前に切手の取り扱いをやめていたので、調べを受けることはなかったものの九郎らは事の次第を知り背筋を寒くさせたが……。

 

「むやみに人を呼ばず、かつ常連客を作るために、ぽいんとかーどでも作ろうかと思うたのだが……」

「九郎殿。暫くは妙な真似は止めておこう」

 

 などと相談しあう二人の姿があったという。

 

 





【挿絵表示】

阿部将翁
男・女・老人・少女など様々な形態の阿部将翁が存在して全員同じ知識と性格をしています
書籍BTTF田村麻呂伝でも奈良平安時代の彼がちょっぴり登場。阿倍仲麻呂の子孫みたいです
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