安藤馨さんが読み解く参政党の躍進 重要なのは合理性か、政治参加か
「憲法季評」安藤馨・一橋大学教授(法哲学)
参議院選挙が終わって数週間が経った。投票率が久々の高水準であったことは政治参加の点で評価に値しよう。衆参両院での自公少数与党化と強力な野党の不在という結果は多党制時代の到来を告げているが、やはり参政党の躍進が目を引く。とりわけ就職氷河期世代を構成する40~50代の支持が厚かったことは注目すべき点である。
今回同じく躍進した国民民主党や他野党と比べて、参政党を特徴づけていた選挙戦略のひとつが「日本人ファースト」という印象的なうたい文句を掲げての運動である。前回の本欄でも触れた通り、政治共同体はその構成員に外部者よりも優先的に配慮するべきである、という意味においてであれば、そのような優先性は福祉国家の基盤でもあり、なんら奇異な主張というわけではないだろう(それを否定する方がむしろ政治的には「非常識」に属しよう)。福祉国家の弱体化に対する本能的危機感によって人々がこのうたい文句に引きつけられたという面もあるだろう。だが、このうたい文句がそれにも増して訴えかけていたのは、外国人が日本人より優遇されており、日本人の持たない特権を享受しているのだ、といった類の、必ずしも事実に基づかない怒りの感覚である。
たとえば、生活保護受給者に占める外国人の割合が3割を超えているといった類の誤情報が選挙前から流布していた。既存メディアが、生活保護受給世帯において、外国人が世帯主である世帯が占める比率は約3%にとどまる(なお在留外国人の人口比率もほぼ同じである)と公示後直ちに指摘したことなどは、メディアがその機能を発揮したものといってよい。だが、結果を見るに、その指摘は必ずしも大きな効果をもたらさなかったようである。
そもそも、自己の不遇の原因を日本人であることに求める――日本人が差別され搾取されているからだ――ような事実的には誤った認知枠組みが、この種の指摘で正されることは期待しがたい。およそ人間は政治的党派を問わず、自身の認知枠組みを動揺させるような情報を、積極的に遮断するものだからである。事実に基づかない排外主義的傾向を真に抑止・是正したいのであれば、その根底にある不遇の解消こそが必要なのであり、氷河期世代が象徴する経済政策と再分配の失敗こそが、その原因として是正の対象とされなければならない。
また、自動車産業に関連して外国人労働者が多いことで知られる自治体における参政党支持率の高さは、排外主義的傾向が、外国人労働者と日常実際に接する機会があり、在留外国人を巡る現実を知っているという体験的知識によって支えられている側面があることを示していないだろうか。これらの意味において、排外主義の無知を単に嗤(わら)ったり非難したりしてみせることは二重に的外れであり、煎じ詰めれば、情報提示によって人々の認知に働きかけようとするファクトチェックの政治的限界がそこに示されてもいる。
とはいえ、ほかにも、参政党が掲げてきた主張や党代表の言動には、たとえば既存の医療(ワクチン)、農業(農薬)、食品(小麦)に対する、事実に基づかない(かつ陰謀論めいた)非科学的態度が目立つ。憲法構想案にしても、人権や国籍の位置づけなどを巡る価値観はさておくとして、技術的な拙劣さが目につく。これらに共通するのは、それらが価値観以前の(科学をはじめとした)事実認識に関わる合理性に難点を抱えており、しかも外部からのファクトチェック的な是正を受け付けそうにないという点である。だが、「闇の政府」が社会を操っているという陰謀論や、反ワクチン、コメ品種「あきたこまちR」の敵視などは参政党に限られたものではなく、左派政党とその支持者にも見られる。また米国でもMAGA(米国を再び偉大に)系のトランプ支持者などに見られるように、この問題は党派を問わず現代の民主政全般の問題なのである。
憲法15条3項は普通選挙を定めているが、合理的判断能力の有無に無関係に選挙権を等しく賦与する民主政には、残念ながら、有権者の不合理な事実認識によって政治的決定が左右されるという、政治的無知への脆弱(ぜいじゃく)性の問題がある。政治的選択に関連する事実的知識や判断能力に応じて、高能力者には複数票を与えるとか、低能力者には選挙権を与えないといった政治制度は智者政(エピストクラシー)と呼ばれ、政治的無知の影響を免れやすいとされる。選挙権の行使は国民一般に重大な影響を与えるのだから、医療行為のように一定の能力水準を満たした者にのみ許されるべきだと考えてはいけないのだろうか。我々は拙劣な医療にさらされない権利を有するがごとく、拙劣な政治にさらされない権利を有してはいないのだろうか。だが、それでもなお多くの政治理論家は智者政を斥(しりぞ)け、誰もが政治参加しうることの価値を重視し、民主政を擁護する。
興味深いことに、参政党は候補者に占める女性比率も目立って高く、政治資金も党費や寄付といった支持者の自発的拠出によって多くを賄っている。そのことは政治参加の観点からは高い評価を受けてしかるべきであろう。参加の価値は合理性の価値を打ち負かすに足るか。私は果たして選挙権を有するに値するか。現代の民主政の実情が否応(いやおう)なしに突きつける難問である。
安藤馨さん
あんどう・かおる 1982年生まれ。一橋大学教授。専門は法哲学。著書に「統治と功利」、共著に「法哲学と法哲学の対話」など。
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- 【視点】
このキレのある文章にコメントをつけるのは畏れ多いというか、恐縮してしまいますね。 それはさておき、普段から政治や社会、歴史などに関する本や論文をそれなりに読み、知識を蓄えることに一定の労力を割いてきた立場からすると、「なぜ私に与えられるのが他の人と同じ一票なのか」という思いに駆られない瞬間が全くないと言えば嘘になります。 しかし、それでも「一人一票」の原則を変えるべきではないと思うのは、どれだけ研鑽を積もうとも、人間である以上、個々の視点や経験を越えることはできないという限界があるからです。 現代社会の文脈に即して言えば、大学等で高度な知識を習得し(?)、合理的判断ができると想定される「智者」の視点には、どうしても地理的、階層的な偏りが生まれやすくなります。フィールドワークをやっていると痛感することですが、自分とは異なる立場の人には自分とは違う現実がみえており、それに基づくなら、彼ら、彼女らの判断には多くの場合、合理性があるわけです。 本記事でも登場する氷河期世代を例に挙げると、大卒と高卒ではその経験にかなりの違いがあるとも指摘されますが、それが語られるさいにはやはり前者の視点からの記述が一般的であるように思います。われわれ一人ひとりの視点にそのような偏りがある以上、一人一票の原則を変えるわけにはいかないでしょう。 もちろん、そのことは医療、農業、食品等に関する明確な誤謬の広がりを正当化するわけではなく、それについては(たとえ効果は限定的であっても)ファクトチェックを行っていくべきです。 それでも、一般的な意味での「合理性」では把握できない何かが存在し、そのことが参政党、ひいては現代のポピュリズム運動の背後にあるのだとすれば、それを可視化していくことがジャーナリズムには求められるのではないでしょうか。
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メリトクラシーには最近批判が多いが、一人一票の普通選挙権は全くメリトクラシーとは異なる仕組みである。この記事ではメリトクラシーが擁護されうる根拠の一つとして、一定の能力水準を満たした者にのみ医療行為が許されるべきであることを挙げており、医療以外でも専門的な知識やスキルが不可欠である仕事は数多い。しかし民主主義においては誰もが平等に政治的選択を票に付託しうるという前提は揺るがし難い。ただしその前提にも、有権者が何らかの「適切な」選択をなしうるという、一種のメリトクラシーの想定が暗黙裡に組み込まれている。エピストクラシーは有権者の間にメリトクラシーを持ち込む仕組みだが、そこに飛ぶ前に、被選挙権すなわち立候補者に対して、最低限の知識や理解—たとえば日本国憲法など—を確認するという仕組みを考えてみたらどうか、と想像した。むろん実現できないだろうけれど。
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