先回記事重要部分
神様自身の完全一体となった本性相と本形状の間にも、主体と対象として完璧なまでの、「良く授け良く受ける」関係性があったからこその完全一体でありました。その完璧性は何ゆえかと言えば、本形状の本性相にたいする絶対服従性と、本形状は完全無・絶対的無となる存在の性質から来るものです。
さらにその性質がどこから来るのかと突き詰めれば、本性相の内的性相と内的形状の持つ性質から来るものなのです。
内的性相の知情意の機能が働くために、本形状のエネルギーは内的形状の法則性・原理性・概念・観念に則った作用として本性相に働くのです。そこに、神様が喜びを得たいと構想を抱いた時点からの、本形状の作用が内的形状を通して内的性相の機能に働き、内的性相の機能の展開が、再び法則性原理性に則って思考が顕現化するという順番があります。これはどんなに完璧に一体化しても崩れない、神様の意識世界の思考展開における順番であり原理です。
喜びが結実すれば、その喜びよりももっと大きな喜びを得る為に構想を練りますが、その構想が結実するまでは、常にその前の段階の喜びの度合いが記憶として残っています。新たな構想が結実した段階で、その前の喜びの記憶の痕跡と、新たに得るだろう喜びの度合いが自然的に比較されて、それだけでも喜びに打ち震えるのは人間でも同じでしょう。
より大きな喜びを求めていくにおいて、神様と人間の違いは何かといえば、人間には予測不能のことが良くても悪くても起きてきます。ところが全知全能で絶対者としての神様には、すべてが想定した通り計画を立てたとおりに構想理想は実現していきます。
たった一人で存在し、他の何ものをも意識していなかった神様は、本来なら永遠に発展的予定調和の喜びのプロジェクトを展開していったはずなのです。
(果たして神様は、どのようにして対象の存在に覚醒し、対象を愛したくてたまらない心情の神様として新たに生まれたのでしょうか?)
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さて、神様の本性相と本形状の性質を見直してみましょう。
神様の本性相の知情意の機能においては、情の機能はもちろんのこと、知と意においても神様の情的衝動の反映の上に現われます。
それに対して本形状の原則・法則は情的繁栄を受けないものです。無意識世界に蓄積されて形成されていく概念や観念は、情的衝動の源泉となる動機の質に関わるものですが、無意識世界の情的世界も原理性や法則性に関わることは出来ません。本形状の作用エネルギーは内的形状の原則法則に則って働くので、概念や観念からの情的な影響もうけません。
ただし、本形状の作用エネルギーは原則法則に則って、内的性相の知情意の機能に絶対服従性をもって作用しますから、意識世界に思考や構想が顕現化する時には心の動機・情的動機がそのままありのままに知情意の思考展開に現われることになります。
一人で存在していた神様は喜びを得る為の構想を立てるにあたり、喜びを得たいという動機に対して、全知全能の知情意の機能を駆使して構想し、すべての構想を実現し続けてきました。
このまま、より大きな存在の喜びを求めて永遠に存在し続けることも出来ました。神様本体の本性相と本形状は完全一体となってはいましたが、一体化の根底に潜在している関係性が主体と対象です。しかし、根本にある対象の本形状が絶対虚無の状態ですから、喜びの増大展開が維持されている限り、本形状の存在は意識上に立ち昇ることはありません。
神様が全知全能であるがゆえに、神様のみで喜びを得続けている状態において、無意識世界に動機を形成していく概念観念による情的世界が飽和状態になる時が来るのです。神様自身の全知全能が、御自身の存在の根本に主体と対象の関係性があるがゆえに、絶対者としての存在を超える潜在能力を感じ取る段階が来ると言って良いでしょう。
つまり、絶対者としての永遠無限の喜び以上の、全知全能を超えた次元にある喜びを求め始める段階に達した段階のことです。
神様自身の持つ全知全能を超えた喜びを求める情的衝動が湧き上がると、神様にとっても未知なる境地ですから、知的な機能と意的な機能を用いることができません。知的機能の感性・悟性・理性も伴わないのです。この状況において本形状から来る作用エネルギーは、超次元の喜びを求める情的衝動だけに作用するようになります。
すると神様の意識世界では、無意識世界に概念観念の蓄積によって形成された喜びから湧き上がる情的衝動が浮かび上がり、まったく別次元の喜びを求める情的衝動と、二つの情的実存が並び立つのです。
すでに冊子として発刊している「本然世界に展開する真の父母様の本体論」入門編では、神様が体験した「包容感」について次のように解説している部分があります。
「絶対性と神様の血統」第1章 神様の誕生3.自己中心な神様から夜の神様として誕生する経緯!
全ての働きは主体である本性相の「授ける」及び「働きかける」心から始まり、対象の本形状が主体の働きに答えて受けて実らせる作用となって現象化するからです。神様には、その前の喜びを成就してくれた前段階エネルギーによって得た感動の大きさが残っていますから、さらに大きな喜びを求めて実現した感動がさらに優っていきます。すると、より大きな喜びを求める心情は、前の段階での記憶の残存痕跡の作用から、前段階エネルギーに包容される感覚を実感するのです。前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を内的愛だと自覚するのです。内的愛により神様が自存していたエネルギーですから、自存エネルギーとも呼べるでしょう。
永遠普遍の夜の神様を包み込んでくるものがあるなどと、全知全能の神様でさえ考えが及ばぬことでした。神様自身と完全一体となっているがゆえに、その存在様相を完全に消し去っていた前段階エネルギーが、神様の核心である心情を通して神様の知情意を刺激した瞬間、神様は前段階エネルギーから与えられた包容の感覚を、内的愛だと認識し自覚したのです。その愛は他のどんな作用にも増して、心情の中心点から湧き上がるとともに、神様自身を包み込んでくるのです。永遠普遍で無限の神様をも包み込んでくる偉大な感覚を、愛と呼んで神様が目覚め、『愛により生まれた』と実感することになるのです。
「入門編」と言うのは、分かりやすく説明しているという意味以上に、簡潔にしか説明していないという意味を含んでいます。
その簡潔にしか表現していない次の文章を再度記載し、より詳しく解説してすでに記した下線の文章をその次に再記述します。
「前段階エネルギーに過ぎなかった本形状の力の作用に、神様が包容されるという感覚を覚えた時点で、この無限で永遠普遍である前段階エネルギーの作用を内的愛だと自覚するのです。」
「神様自身の持つ全知全能を超えた喜びを求める情的衝動が湧き上がると、神様にとっても未知なる境地ですから、知的な機能と意的な機能を用いることができません。知的機能の感性・悟性・理性も伴わないのです。この状況において本形状から来る作用エネルギーは、超次元の喜びを求める情的衝動だけに作用するようになります。すると神様の意識世界では、無意識世界に概念観念の蓄積によって形成された喜びから湧き上がる情的衝動が浮かび上がり、まったく別次元の喜びを求める情的衝動と、二つの情的実存が並び立つのです。」
一人で存在していた神様がより大きな喜びを実現していた過程で、入門編で解説した次の内容は、無意識世界で包容される実感を持っていたものでした。
「より大きな喜びを求める心情は、前の段階での記憶の残存痕跡の作用から、前段階エネルギーに包容される感覚を実感するのです。」
「前段階エネルギーに包容される感覚を実感する」と表現していますが、エネルギー自身の存在は絶体無であり、神様の思考展開情的流動の現れですから、神様が抱いた構想理想から来る喜びに包み込まれていたということです。単なるエネルギーに包み込まれたという実感とは違うのです。
自分自身の存在の喜びを求め実現している段階ですから、その包容感も予定調和のなかで実感するものです。神様にとっては、意識の上で織り込み済みのものです。
その織り込み済みの無意識世界にある包容感に対して、「全知全能を超えた喜びを求める情的衝動」が湧き上がったことから、意識世界に知的な機能・意的な機能が皆無となった、神様自身を超える純粋な喜びを求める情的衝動が立ち昇るのです。神様の情的衝動に対して、絶対服従性を持って立ち昇らせた作用エネルギーの働きによる超次元の情的衝動は、無意識世界に蓄積されていた喜びを求め得てきた包容の実感を遥かに超えるものでした。
この情的時点こそが、神様の心を根底から震わせる包容感として実感させるものとなったのです。そこにもう一人の自分を見たし、その自分の姿は全知全能の絶対者をも超えて輝く存在として神様を包み込んで来たのです。そこで初めて、もう一人の自分としての対象を意識するようになり、心情の神様への変革へと踏み入るようになるのです。
次回の記事へ続く・・・。
この記事の文章を理解できる方は少ないと思いますが、地上に書き留めることによって、なお一層「お父様の聖霊」が働けるようになると確信して公開に踏み切ります。
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