ネットで「うそつき」と書かれても 語り続ける元731部隊員の覚悟

後藤遼太

 一、軍歴を隠すこと。

 二、公職につかぬこと。

 三、隊員相互の連絡をとらぬこと。

 長野県宮田村に住む清水英男さん(93)は、戦後、三つの誓いを固く守って生きてきた。

 終戦からちょうど70年、2015年の8月のことだった。妻と、戦争にまつわる遺品を展示する展覧会に出かけた。会場には旧日本軍の細菌戦部隊「731部隊」の資料が展示してあった。

 壁にかかった写真には、レンガ造りの重厚な建物が写っていた。忘れもしない、建物だった。思わず妻に話しかけていた。

 「これが本部の正面で、この2階にな……」

 清水さんは731部隊の生き残りだった。

14歳、何も知らずに到着したのは

 1945年3月、国民学校高等科を卒業した清水さんは、恩師から「満州で働かないか」と勧められた。声をかけられたのは、みな工作好きな生徒だったので、「軍需工場にでも行くのかな」と考えた。

 同郷の6人で塩尻から名古屋へ汽車で移動。米原では米軍機の空襲に遭い、博多から朝鮮半島へ渡った。ハルビンからトラックに乗せられ、郊外へ。デコボコ道の土ぼこりの先に、青々とした麦畑が広がっていた。

 何も知らずに到着したレンガ造りの建物が、「関東軍防疫給水部」。つまり731部隊の本部だった。

 当時14歳。一緒に着いた34人も同じような年頃だった。731部隊の「少年隊員」の4期生となった。

 10日ほど、軍人勅諭や「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」の戦陣訓を暗記させられた。その後配属されたのが教育部実習室。白衣を渡され、面食らった。細菌の検査法や培養のやり方など、病原菌についての勉強をさせられた。ネズミの尻からプラチナ製の耳かきのようなもので採取した細菌を、シャーレの寒天に植え付ける作業もあった。

 実習室と少年隊舎を往復する日々。作業内容は、寝食を共にする同期にも極秘だった。他班の仕事も分からず、日々接している軍人や軍医、技師らの名前すら教えてもらえなかった。

悪夢の標本室

 7月のあの日のことは、今も夢に出てくる。

 本部棟2階の「講堂」に連れて行かれた。中は標本室だった。

 瓶がズラリと並んでいた。人の背丈ほどある大きなものもあった。中には、ホルマリン漬けにされた人体の一部があった。首や手や、あらゆる部位があった。

 「マルタ(丸太)を解剖したものだ」。引率の隊員は短く説明した。「マルタ」とは捕虜を指す言葉だとは聞いていたが、おなかの大きい女性の遺体もあった。中の胎児が見えるように、腹が切られていた。胎児には、髪の毛が生えていた。

 人の遺体を見るのは初めてだった。涙がポロポロ出た。引率の隊員はそんな清水さんを見ても、何も言わなかった。

 部隊での生活は、短かった。翌8月、ソ連軍が旧満州に侵攻した。

 9日夜にはソ連軍の照明弾が空に上がった。逃げ込んだ防空壕(ごう)では、大量の蚊に襲われ閉口した。

 12日、「マルタ小屋」と呼ばれた監獄に入った。「マルタの骨を拾え」と命令されたからだ。中庭に掘られた穴の中で、焼かれていた骨を拾った。100体以上はあった。

 信管を抜いた爆弾を同期4人でマルタ小屋まで運び、工兵隊が爆破すると、ボイラー室の後ろに隠れた清水さんのところまで、破片が飛んできた。証拠隠滅の片棒を担がされたのだと、後になって分かった。

 撤退用の列車に乗り込んだ時には、青酸化合物を渡された。受けた命令は「捕まった場合は自決せよ」。盲腸の治療中だった仲良しの先輩は、青酸化合物で「処理」されたと聞いた。

 帰国後、旧満州で見聞きしたことは封印した。除隊時、「三つの誓い」を守るよう厳命されたからだ。

 学歴もなく、就職には苦労した。父の大工仕事を手伝い、10年の実務経験を積んでようやく建築士の資格を取った。家族に恵まれ、ひ孫も生まれた。

 しかし、心の傷が癒えることはなかった。標本室の遺体の夢を見て、うなされる晩もあった。家族にも打ち明けられなかった。玄関に飾った孫やひ孫の写真を見ると、ホルマリン漬けの胎児の映像がフラッシュバックし、涙が出た。

ネットで「ジジイ 噓ついてやがる」

 妻に打ち明けた戦後70年目のあの日から、自身の経験を広く世間に話そうと決めた。

 地元の講演会で、731部隊での出来事を話し始めた。メディアでも取り上げられるようになった。

 インターネット上では、「このジジイ、噓(うそ)ついてやがる。か、実在しない人物だな」と書かれた。このブログ記事を印刷し、ラミネート加工して保存した。目にする度に怒りがわいた。

 ある本を読むと、731部隊が「でっち上げ」と断じられていた。

 「じゃあ、私の経験は何だったんだ。史実をゆがめているのは、どっちなんだ」

 昨年5月、飯田市に平和祈念館が開館した。清水さんの部隊での経験の一部も、証言パネルにまとめられ、展示されるはずだった。

 ところが、展示は見送りになった。市の教育委員会によると「731部隊は研究途上で、社会的にも様々な意見が存在しており、慎重に検討する必要がある」とのことだった。「事なかれ主義だ」と感じた。

 731部隊についての証言は、ネットで「うそつき」と書かれ、書籍で「でっち上げ」と書かれる。そんな社会に生きている。清水さんには強い危機感がある。

 「日本が過去、他国の人にどんなひどいことをしたか。何と言われようが本当のことを言い続けないとこれからの世代には伝わらない」

激減する元軍人 高齢化の波

 総務省の恩給担当によると、2023年3月末現在で普通恩給を受けている元軍人は1881人。前年から約1400人減った。平均年齢は101・4歳で、10年間で8・4歳上昇した。ピーク時の1970年度の受給者数は125万6409人。

 恩給は一定期間の軍隊勤務が受給資格のため、すべての元軍人が対象とはならない。また、軍属は対象外となっている。

 終戦時に海外に残されていた日本軍の軍人・軍属は約330万人とされる。厚生労働省の記録では、日中戦争が始まった1937年から敗戦までに、日本の軍人・軍属230万人が戦没した。

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この記事を書いた人
後藤遼太
東京社会部|メディア班キャップ・平和担当
専門・関心分野
戦争や平和について、歴史
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    プチ鹿島
    (時事芸人)
    2023年8月21日13時18分 投稿
    【視点】

    この夏読みごたえがあったのが信濃毎日新聞の特集「戦後78年 731部隊の記憶」でした(8月11日~17日)。 第1回の記事は『県内元少年隊員2人にネット上で中傷の声 命懸けの証言「嘘」呼ばわり』。 731部隊について元隊員が命懸けで証言したら、ネットで「このジジイ、嘘ついてやがる。か、実在しない人物だな」などの誹謗中傷が少なくなかったという。 朝日の今回の記事も同じ方に取材しています。多くの人に知って欲しい事実です。 信毎の連載ではいまだに部隊の活動実態を認めようとしない「国の姿勢」も問うていました。取材を終えた記者は、 《部隊の実態について証言できる関係者が亡くなり、記録は残されず、部隊の存在そのものが忘れ去られる―。敗戦時に残虐行為の証拠を徹底的に消し去り、戦後も口を閉ざし続けた部隊の元幹部が待ち望んでいたのは、まさにそうした社会だったのだろう。》(8月17日) と書いています。私たちが「知らない」ことを望む人もいるのだ。そうさせないためにもこういう記事は大切だと思います。

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