アナウンサー百年百話 歴史を見つめたアナウンサー第4回 日航機墜落事故 原稿を捨てて伝えるとき
日航機墜落事故でキャスターを担当した、元フジテレビアナウンサーの露木茂さん。放送直前に生存者が確認され、用意した原稿を捨てて放送に臨んだ。
日航機墜落事故を報じたNHKのニュース音声
現場は、群馬県上野村の、標高が1639メートルの御巣鷹山付近で、ヘリコプターからの捜索で、この山の南東およそ2キロのところで、3か所に点在する機体の一部を発見しました。このためレンジャー隊員をロープを使って現場に降ろし、救援活動を続けています。しかし付近は1000メートルを超える山が連なっており、無線の交信状態が悪いこともあって、他に生存者がいるかどうかなど、詳しいことはまだ分かっていません。
1985年8月12日、羽田空港から伊丹空港へ向かった日本航空機123便が突如操縦不能となり、最終的に群馬県の山中に墜落した。お盆の時期だったこともあり機内はほぼ満席で、搭乗者524人中520人が亡くなった、日本史上最大の航空事故だ。亡くなった乗客の中には、著名人も含まれていた。
日本航空123便は、午後7時ごろ、レーダーで確認できなくなった。その情報を受け、NHKや民放各局は、一斉に速報で伝えた。しかし墜落現場は深い山の中だったため、状況がわかる映像がなかなか入ってこない。そんな中、生存者の情報をいち早く生の映像で放送したのがフジテレビだった。この放送は後に、1985年の日本新聞協会賞を受賞した。その番組のスタジオキャスターを務めたのが露木茂アナウンサーだ。1963年にフジテレビに入局、主に報道番組で活躍し、あさま山荘事件では現場から中継を行った。
露木アナウンサーは、放送が始まった午後9時から搭乗者の読み上げを行い、朝方まで続いた。どんな気持ちで読み上げていたのか、現在83歳の露木さんに話を聞いた。
露木茂さんのインタビュー音声
押し潰されるようなね、気持ちが。お名前を読み上げていてもありましたよね。早く現場がどこだということが分かるように願いながら、お一人ずつの名前を紹介していた。ただ一番ショックだったのは、坂本九さんの名前がね、その中にありまして。本名でね、もちろん搭乗しておられたわけなので。ずっと僕はチャリティーの仕事で、彼とは15年以上、毎年一緒にチャリティーショーをやって、障がいのある子どもたちを助ける運動をやっていたものですから。坂本九さんが乗っていたということが分かって、相当精神的には動揺しましたね。ただそれは、私事ですから。そのオンエア上は、放送上はね。そういうことはもちろん出しませんでしたけれども。まあ、そういうようなことがありましたよね。感情を出す、出さないということよりも、僕らの仕事は何なんだ。つまりアナウンサーとして、正しい情報をね。視聴者に伝えるという仕事が、一にも二にも最も大事なことであって。枝葉の部分は自分の気持ちの中から切り落としていくというか。抑え込んでいるという感じはありましたね。
搭乗者名簿から住所や名前、年齢、性別など細かい情報を伝えながら、一緒に仕事をしたこともある坂本九さんが乗っていたと知った。一人一人の名前を読み上げていると、そこから色々な想像が膨らみ、、感情を抑えて読むのが難しかったという。
なかなか情報が入ってこない中、明け方になり、ようやく墜落した場所が明らかになった。このとき日航機の機体は損傷がひどく、周囲の火災もひどい状況だった。一睡もせず放送を続けた露木さんのところに入ってくるのは「全員絶望」「救出は困難を極めている」という情報ばかりで、生存者に関しては絶望的な状況だった。ところが、お昼のニュースの直前、この飛行機に搭乗していた川上慶子さんがタンカにのせられている生の映像が映し出された。フジテレビは、ヘリコプターに、電波を飛ばし生放送ができる中継設備を用意できたため、どの放送局よりも早く、その映像を映し出すことができたのだ。当時の様子を露木さんはこう振り返る。
露木茂さんのインタビュー音声
11時27分だったと思います。私の記憶では。つまり本番3分前に、現場と映像音声が生でつながったわけですよね。そこにタンカにのせられた慶子ちゃんのアップのワンショットが、報道センターのその壁面のモニターに映し出された。そのときっていうのはね。やっぱりみんな目が真っ赤でしたね。それは覚えてますね。私は予定された原稿は全て捨てまして。映像だけを頼りに、原稿なしのニュースをやりました。
原稿を捨てた露木さんはその後、ある思いを抱きながら放送を続けた。
露木茂さんのインタビュー音声
「現場に生存者がいました」という、私のアドリブがニュースの第一声ですね。その後フォローして、「現場に生存者がいた模様です」というちょっと柔らかい表現をね、していますけれども。最初の第一発は「現場に生存者がいました」という、その一声でしたね。相当、自分でもいっぱいいっぱいの気持ちだったというね。なぜかというと、それは今、テレビモニターに現場の映像として慶子ちゃんのアップの映像が入ってきている。問いかけにも答えている。そういう映像がもしかしたらこれ、本物じゃないかもしれないってこともあり得るわけですよね。私が判断して、生存者の映像ですって断定していいものなのかどうかね。その辺のところの責任の重さって言うんですか。すごくその瞬間は自分としては全責任を背負ったような気持ちになりましたね。
通常、ニュースの現場では、ディレクターや記者が原稿を書き、それが間違いではないかニュースデスクがチェックをし、アナウンサーは最終表現者として伝えるという役目を担っている。「生存者がいました」という断定的な表現は、情報の正しさに責任を負うことになるため、アナウンサーが自身の判断で選ぶのには勇気がいる。
このことばにはもう一つ、露木さんのとっさの判断があった。この事故には生存者が4人いたが、一方で多くの人が亡くなっている。だからこそ、生きている人がいたことを喜びすぎると、遺族の気持ちを傷つけることになりかねない。客観的な事実をシンプルに伝えるため「現場に生存者がいました」という表現を選んだ。
時として、悲惨な事件や事故を伝えなければいけないアナウンサーは、ことば選びだけではなく、自分の表情や声のトーン、伝え方も問われる。そうしたこととどう向き合っていけばいいのだろうか。
露木茂さんのインタビュー音声
アナウンスの技術とか、どんなことばをそこで使うかとか、そういうようなことはどうでもいい。どうでもいいというとすごく乱暴ですけれど、やっぱりそのときの気持ちの持ちようというんでしょうか。今一番辛い人に寄り添う。今一番悲しい人に寄り添う。そういう気持ちを持ち続けていくっていうのが大事なんじゃないかな、という気がしますし。僕自身、今でも間違ってはいないというふうに思いますね。
一瞬にして原稿が通用しなくなる状況の中、感情をコントロールしながらも踏み込んだことばを選んだ露木さんの、プロの実力を感じられるコメントだ。
『アナウンサー百年百話』
ラジオ第2 毎週水曜午後10時|再放送 FM 木曜午後5時40分|再々放送 ラジオ第2 日曜午後5時45分
2025年3月22日に放送開始100年を迎える。最前線のアナウンサーの「ことば」をもとに放送の100年を振り返る。れい明期からスポーツ、戦争、エンターテインメント、事件・事故など様々な場面で情報を伝えてきた。その時々でどう向き合ってきたのか振り返る。