デオデオからやって来た改革者、久保允誉 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(12)
デオデオとマツダ、それぞれの企業文化
デオデオ(現・エディオン)3人目の出向として、長年にわたり広報部長を務めた眞鍋茂。定年退職後もホームゲームの応援に駆けつけている
【宇都宮徹壱】
Jリーグが開幕した当初、爆発的な人気に支えられ、黙っていてもチケットは売れたしメディア露出も多かった。高騰した選手の人件費も、親会社が補填してくれていたので、クラブ独自で「サッカーを商売として成り立たせる」という感覚は、今では考えられないくらい希薄だったのである。
Jリーグが開幕した1993年、すでに日本のバブル経済は崩壊していた。空前のJリーグブームは2年で終了。1995年を境に人気に陰りが出る中、親会社はおしなべてバブル崩壊の影響に苦しむようになり、Jクラブは軒並み経営が悪化する。横浜市を本拠とする、マリノスとフリューゲルスの合併が発表されたのは、1998年11月のことだ。
そんな中「サッカーを商売として成り立たせる」経営者を得られたことは、サンフレッチェにとってまさに僥倖(ぎょうこう)であった。それまで、マツダという自動車メーカーに支えられてきたサンフレッチェ。そこに、エディオンという家電流通業のカルチャーが加わることで、身の丈経営によるクラブの自立を目指す機運が醸成されていったのである。
「メーカーと流通業とでは、自ずと社風の違いがあります。どちらが良い悪いという話ではないんですが、根本的なスタンスの違いはあったと思います」
そう語るのは、元広報部長の眞鍋茂である。久保はクラブ社長に就任すると、デオデオから店長経験のある3人の腹心を相次いで出向させている。3人目の尖兵となった眞鍋は、1999年から2014年まで実に16年間、サンフレッチェの名物広報であり続けた。
「私たちは、サンフレッチェのスポンサーさんを大切にすることを強く意識していました。すべてのスポンサーさんに、とにかく頭を下げてお願いに回ろうと。当時は観客もなかなか入らなかった時代で、資金面もスポンサー頼みでしたから、その重要性は強く意識していました。苦労ですか? 特に感じませんでしたね。私はダイイチ時代に入社して、久保会長のお父さまから『お客様第一主義』の精神を叩き込まれましたので」
余談ながら広報部長時代の眞鍋は、ホームゲームの前半はユニフォーム姿でサポーターと一緒に応援し、後半はスーツに着替えてメディア対応に当たったという。分裂していたサポーターグループが、ひとつに糾合するために尽力したのも眞鍋の功績。定年でクラブを離れる際は、全サポーターから盛大な拍手とコールで送り出されている。
<翌日につづく>
※文中敬称略