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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

野口英世とアフリカ

2010-11-18 | Weblog
トーゴに出張したのは、トーゴ大学の「アフリカ電子キャンパス計画」の署名式に出るためであった。これは、国連教育科学文化機関(UNESCO)が日本の資金により、トーゴで実施する大学協力である。トーゴのガレ高等教育相と、ムンドUNESCO西アフリカ代表との間で、協力文書の署名が行われ、私が同席した。

「アフリカ電子キャンパス計画」というのは、トーゴ大学に専用のコンピューターを導入し、図書や文献などの資料をはじめ、さまざまなデータを入力蓄積して、利用できるようにするとともに、コンピューターへのアクセスを通じて、学究を多くの人々に開かれたものにしようという計画である。総額15万ドルを、日本が資金協力した。

署名式の後、トーゴ大学のジョンソン学長(Ampah G. Johnson)が、私たちを自宅に招待して、昼食会を開いてくれた。ジョンソン学長は生物学の教授、トーゴきっての碩学で、UNESCOのトーゴ代表理事を長く務めていた。
「ジョンソン学長は、マツウラ事務局長とはとても親しいお友達なのですよ。」
ムンド代表が、私にそう紹介してくれる。マツウラ事務局長とは、もちろん、昨年まで10年間にわたってUNESCOのトップを務めた、松浦晃一郎UNESCO前事務局長のことである。

そうでしょう、彼は外交官としては私の大先輩で、のみならず若い時にガーナ勤務で外交官を始めたので、アフリカには特に深い愛着を持っておられる、アフリカの人々の間に友人が多いのは不思議ではないですね、と私は答える。
「そうそう、マツウラ事務局長がガーナを訪問したことがありましたよね。私もその一行に加わっていました。」
とムンド代表は続ける。
「アクラの街を走っていたら、マツウラ事務局長が突然、ここだ、ここだ、と。ご自身が40年近く前に下宿していた建物が、そのまま残っていたのです。」

「マツウラ事務局長が、ガーナの大統領と会談をしていて、経済発展の話になった。日本は資源も持たず、おまけに戦争で灰燼に帰したのに、これだけ経済発展をした。アフリカは資源なども豊かなのに、経済発展が困難である、日本とアフリカとどこが違うか、と大統領が訪ねた。そうしたら、マツウラ事務局長は、何と答えたと思います。」
さあ、勤勉とか、教育とか、そういうことでしょうかね。
「一言だけ、国を愛する心だ、と答えたのですよ。」

ムンド代表は、ガーナは特に日本との関係があって、ノグチという医学研究者が滞在していたのだ、と知識を披露する。もちろん、野口英世のことである。
「ノグチという日本の研究者は、黄熱病の原因を探りに、このガーナまでやってきて、そしてついに自らも黄熱病に倒れて亡くなったのです。20世紀の前半頃の話です。それで、ガーナには今も、ドクター・ノグチを記念する医学研究施設がありますよ。」
日本人が、遠くアフリカまでやってきて、アフリカの病気を救おうと努力し、そしてそのアフリカの病気に斃れたという話は、やはりアフリカ人の心には響くのだ、と言う。

私は、野口英世という人は、日本ではむしろ、立身伝として語られていると話す。東北地方の農村に、極貧の農家に生まれた。子供の頃に、囲炉裏に落ちて左手を大火傷し、農作ができなくなった。しかし頭が良く、勉強がとてもできたので、村の人々がお金を出し合って、勉強を続けさせた。村の人々のお金で、左手の手術を受けることができ、それが成功したのを目の当たりにして、少年ノグチは決意した。自分も医者になろう。そういう話をおおまかにして見せた。

「そうだったのですか、自分を救ってくれた医学に感謝し、自らもその道に進んで、こんどは自分が他の人を救おうと。それでアフリカまで来て、黄熱病と闘った。いい話だ。」
ジョンソン学長は、感銘を受けている。

「それより、ドクター・ノグチがそんな極貧の家の生まれだったということは知らなかったですよ。貧しい家に生まれながらも、勉学を収めることで、世界的に活躍する人物になれるとは。アフリカの人々が聞いたら、奮いたちますね。貧しくても、やればできるのだ、と。」
ムンド代表は、別の面から感心している。

「自分の努力だけではない。まわりの村人たちが、少年ノグチを助けて手術を受けさせ、勉強を続けさせたわけでしょう。アフリカと同じだ。こちらだって、村に優秀な子供がいたら、皆でお金を出し合って学校に行かせるのですよ。」
ジョンソン学長は、ノグチの物語には、アフリカにも共通する互助の精神が見いだせるのだと説く。

まわりの村人も偉かったけれど、野口英世の母親も偉かったのですよ、と私。無学文盲だった母親は、産婆(助産師)の国家試験に通るために、寺の住職にイロハから手習いを教えてもらい、苦学の果てについに試験に合格、生涯に多くの子供を取り上げたのです、と説明する。
「おお、ますます、素晴らしい話だ。そういう話こそ、アフリカの人々に伝えなければ。」
ジョンソン学長は、手を叩いている。

「驚きましたね。私はドクター・ノグチのことを知っていると思ってきましたが、アフリカの病魔に殉職した日本人研究者、というだけではなかったのですね。彼の人生そのものが、アフリカの人々に感動をもたらすと思う。でも、そういう話は、誰もしてくれなかった。もったいないなあ。ぜひ、ドクター・ノグチの伝記を書いて、アフリカの人々に伝えるべきだと思う。」
ムンド代表は、そう力説した。
猪苗代湖の畔に残る野口英世の生家は、今は野口記念館になっていて、多くの人々が訪れている。私もこちらに赴任する前に訪ねたのですよ、と私は付け加えた。

野口英世は、アフリカに渡り、アフリカのために働き、アフリカで命を落とした日本人として、アフリカと日本を結びつける人物である。それに加えて、野口英世の生き方そのものが、アフリカの人々にも感銘と勇気を与えるというのである。野口英世とアフリカに、そういう絆もありうるというならば、ムンド代表が言うように、伝記を翻訳して読んでもらうことを、ひとつ真面目に考えていいかもしれない。

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