「大変なことになった」現場で見つけた『蛇の脱け殻のようなもの』の正体は…520人が死亡『日航123便墜落事故』ジャーナリストが見た“地獄のような景色”
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520人が死亡した「日本航空123便墜落事故」。世界最悪の墜落事故として知られ、芸能界にも影響をおよぼした同事故はいかにして起きたのか? 1985年8月12日に、現場である群馬県御巣鷹山を取材したジャーナリストの米田憲司氏の新刊『 日航123便事故 40年目の真実 』(宝島社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む) 《地獄のような景色》亡くなった「有名女優」「大ヒット歌手」の姿も…520名が死亡「史上最悪の事故現場(カラー写真)」を見る ◆◆◆
日航123便の航跡
日航123便は羽田空港から大阪空港行きのボーイング747SR(ショートレンジ)型機で、国内線用である。1985年8月12日、17時40分頃から搭乗が始まっていた。お盆の季節なので、家族連れや仕事を終えたビジネスマンで満員であった。乗客509人、機長、副操縦士、航空機関士3人の運航乗員に12人の客室乗務員の計524人が搭乗していた。123便は18時12分に離陸。 機首を真南の大島方面に向け、上昇していった。空港の展望を兼ねた屋上には、乗客の家族や、知人を送る人たちの姿もあった。 123便は離陸後12分たった18時24分、伊豆半島南端の下田市に近い伊豆稲取港の東4キロ沖の上空で、突然「ドォーン」という鈍い音を伴ったトラブルに見舞われた。高度は2万4000フィートの手前だった。操縦室では左席の副操縦士が計器盤の警報ライトが点灯したのを見て「ギアドア」と発言。同時に右席の機長が「ギアみてギア」といい、「スコーク77」(緊急事態信号)を発信している。 後に明らかになるが、123便は何らかの原因で垂直尾翼の大半を失い、油圧系統の4本の配管切断で操縦不能になってしまったのだ。焼津市の手前あたりからダッチロール(機体が左右に揺れるさま)が激しくなり、フゴイド(機首の上下動)も加わって迷走を始める。機首は15から20度も上向き、次には10度から15度も下向きの状態を繰り返していた。機長は埼玉・所沢の東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求するが、機体は大きく北に向いて富士山の方向に飛行していく。航空機関士は会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5)ドアブロークン」と報告している。 副操縦士はこの日、機長昇格試験として左席で操縦しており、左右のエンジンの推力を調整しながら機体の安定を保とうとするが、奥秩父の山々が近づいてくる。すでに操縦優先で自身の位置が分からなくなっていた。 18時54分に羽田の管制は「熊谷(埼玉)のウエスト(西)25マイル」と伝える。長野県境に近い埼玉県の大滝村あたりを飛行していた。123便はこのあと、長野県の川上村、南相木村をかすめて群馬県上野村の上空を半円を描いて御巣鷹山の南東方面に向かって行く。 18時56分30秒すぎ、蟻ケ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根(後に御巣鷹の尾根)に機首から激突、仰向けに回転する形となり、機体後部胴体はスゲノ沢にずり落ちていった。
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