1.懲戒権行使の時間的な限界
退職した労働者に対し、懲戒権を行使することはできません。
「使用者の懲戒権の行使は,企業秩序維持の観点から労働契約関係に基づく使用者の権能として行われるものである」
からです(最二小判平18.10.6労働判例925-11 ネスレ日本(懲戒解雇)事件参照)。
労働契約関係に基づく権能である以上、労働契約関係が終了してしまうと、懲戒権を行使する基盤はなくなります。
それでは、定年後再雇用の場合、どのように理解されるのでしょうか?
定年後再雇用前の非違行為を理由として、定年後再雇用期間中に懲戒権を行使することができるのか? という問題です。
近時公刊された判例集に、これを消極に理解した裁判例が掲載されていました。東京地判令7.1.30労働判例ジャーナル160-42 学校法人昭和大学事件です。
2.学校法人昭和大学事件
本件で被告になったのは、大学等のほか、昭和大学C病院、昭和大学病院等を開設する学校法人です。
原告になったのは、被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し、令和3年3月31日に定年退職するまでの間、20年以上にわたり、整形外科の医師として口唇口蓋裂等の患者の診療を担当してきた方です。
令和3年4月1日に定年後再雇用契約を結んだ後、出勤停止1週間の懲戒処分を受け、定年後再雇用契約の更新を拒絶されるに至ったことを受け、
出勤停止処分が無効であることを前提として出勤停止期間分の未払い賃金や、
雇止めの無効を理由として他大学に転職するまでの賃金
等の支払を求める訴えを提起したのが本件です。
冒頭に掲げたテーマとの関係で注目したいのは、被告の主張した懲戒事由の扱いです。
被告は複数の懲戒事由を主張しましたが、その中の一つに次の事由がありました。
(被告の主張)
「Dセンター長らからの再三の指示に反し、定年退職日である令和3年3月31日までに患者の引き継ぎをしなかった(以下「非違行為〔1〕-1」という。)。」
これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、非違行為〔1〕-1が懲戒事由になることを否定しました。
(裁判所の判断)
・非違行為〔1〕-1について
「前記認定事実によれば、Dセンター長は、令和2年頃から、原告に対し、原告の定年退職後は原告以外の医師が口唇口蓋裂等の診療を担当する旨患者に伝え、患者の引き継ぎを行うよう指示していたが、原告は、令和3年3月11日頃まで、上記の内容を患者に伝えず、患者の引き継ぎも行わなかったこと・・・、原告は、同年3月11日以後、患者への連絡等を開始したものの、定年退職となる同年3月31日までに患者への連絡を完了せず、患者の引き継ぎも終えることができなかったこと・・・が認められる。被告が主張する非違行為〔1〕-1は、上記の限度で認めることができる。」
「しかしながら、被告が本件懲戒処分をしたのは、本件再雇用契約の期間中であるが、前記・・・で認定した原告の行為は、本件再雇用契約の期間中の行為ではなく、原告が被告を定年退職する前の期間の定めのない雇用契約の期間中にされた行為である。そして、本件再雇用契約は、定年退職後再雇用における期間の定めのある雇用契約であり、契約職員である原告には契約職員就業規則・・・が適用される(同規則1条、就業規則3条ただし書)ところ、契約職員就業規則53条1項は、懲戒処分について、『契約職員が次の各号の一に該当する場合は・・・出勤停止・・・とする』と定めており、その文言から、契約職員がした行為を理由とする場合に限定した懲戒処分を定めるものと解される。そうすると、被告においては、契約職員に対し、契約職員ではないときにした行為を理由として懲戒処分をすることはできないというべきであり、原告が被告を定年退職する前の前記・・・の認定に係る原告の行為をもって、原告に対する懲戒事由とすることはできない。」
「また、前記認定事実、証拠及び弁論の全趣旨によれば、被告の病院では、口唇口蓋裂等の患者の診療は口唇口蓋裂センターにおいて行われていたこと・・・、外部向けのパンフレットに、原告が口唇口蓋裂センターのスタッフとして記載されていたこと・・・、C病院の外来担当医表に、原告の肩書が口唇口蓋裂センター所属である旨が記載されていたこと・・・、原告は、口唇口蓋裂センターの医師らが出席するカンファレンスに毎回出席していたこと・・・が認められ、これらによれば、原告が口唇口蓋裂センターに所属し、Dセンター長の指示命令に従うべき立場にあったものと認められる。」
「しかしながら、前記認定事実によれば、Dセンター長が、原告に対し、定年退職後は口唇口蓋裂等の患者を担当できない旨伝えていた・・・一方で、原告が所属する形成外科の教授であり、同科の診療科長として原告の直接の上司の立場にあったE副センター長は、令和2年10月頃、原告に対し、原告が定年退職後もC病院の診療の予約を入れることを許可しており、令和3年3月11日になって初めて、同年4月以降の診療を担当することができない旨原告に伝えた・・・というのである。これに加え、原告が、同年3月11日頃、C病院の院長や被告の理事から同年4月以降の診療ができない旨伝えられたこと・・・、原告は、同年3月11日、診療予約のキャンセルを患者に連絡する方法等をE副センター長と協議したり・・・、同年4月以降に診療の予約を入れている患者への連絡を開始したりしていること・・・も考慮すると、少なくとも原告においては、同年3月11日になって、定年退職後に口唇口蓋裂等の患者を担当できず、患者の引き継ぎを行わなければならないことを確定的に認識したものと認められ、同日まで確定的な認識を有することがなかった経緯において、原告に特段の非があるということもできない。そして、原告が担当していた口唇口蓋裂等の患者は600名から800名程度に上り、中には、年に1回原告の診療を受けているだけの患者も存在した・・・というのであるから、以上の状況において、原告が、定年退職する同年3月31日までに患者の引き継ぎを完了することができなかったのはやむを得なかったものといえ、これをもって直ちに原告に対する懲戒事由とすることは相当でないというべきである。」
「したがって、前記・・・で認定した原告の行為をもって、原告が「故意に・・(省略)・・上司の命令に違反して本学の秩序を乱した」(契約職員就業規則53条5号)とはいえず、これに準ずるもの(同6号)ということもできない。」
3.実体的に懲戒が相当でない事案ではあったが・・・
裁判所の判示を見ると、原告に非違行為があったというには酷な事案であり、実体的にも懲戒事由に該当するのかは疑問に思われます。
そのことは差し引いて考える必要がありますが、裁判所は、定年後再雇用契約者に適用される就業規則の文言上、定年前の行為を理由に懲戒処分をすることはできないと判示しました。
定年後再雇用者に対する就業規則を別建てで設けている会社は少なくありません。
法律相談を受けていると、定年退職した労働者が、当て擦りのように辛く当たられる例は相当数あります。裁判所の判示は、定年後再雇用された労働者に対し、定年前の行為を掘り返して懲戒処分が行われた事案に取り組むにあたり、実務上参考になります。