ライタープロフィール(生まれてから今まで)
プロフィール。長いです。
姫野ケイ。本名は姫野桂。
1987年9月7日、宮崎県宮崎市出身。翻訳家の父と養護教諭の母の結婚10年目に生まれたひとりっこ。
【幼少期】
ひとりっこのせいで一人遊びが得意になる。セーラームーンやリカちゃんの人形の服を着せ替えたり、読書や絵を描いたりして過ごす。漫画はなかなか買ってもらえなかったが、本はたくさん買ってもらえた。3歳からピアノを始める。
ド田舎で農家の家やお母さんが専業主婦の家庭が多く、周りの子たちは幼稚園に通っていたが、親が共働きの私は保育園に通っていた。なぜ自分は幼稚園ではなく保育園なのか疑問に思っていた。
【小学生時代】
小学校に入学。周りの子たちは近所の幼稚園からそのままのメンバーで上がった子達ばかりなので、既にみんな友達同士。友達ができず、初めての遠足は一人でお弁当を食べる。(このあと、友達ができた)
小学1年生の頃から作文を書けば必ず賞を取れたので、その点では先生から褒められ、クラスメイトからもすごいと言われ、それだけが心の支えだった気がする。
宮崎は所得が低い県の一つ。今でこそ、宮崎空港から韓国への直通便が出ていて、安い韓国旅行のツアーに行く人は多いが、当時は海外旅行に行く人なんてごくわずか。しかも、田舎の人はフリーランスという働き方も知らないため、おそらく近所の人から父は無職と思われていたはず……。そんな環境で3歳の頃から毎年スペイン旅行(現地でレンタカーを借りて貧乏旅行)をしていたため、学校で浮きまくる。
小学5年の頃、GLAYのJIROちゃんに一目惚れする。田舎なので情報が少ないのだが、わずかに売っている音楽雑誌を買って何度も読み直していた。(なお、田舎過ぎてフールズは売っていなかった模様。おそらく取り寄せ?)
小学6年生の頃、母親の仕事の転勤で全校生徒5名の学校へ転校。母親と同じ学校。
この学校は作文教育に力を入れていたため、ここで「作文コンクールで賞をとるテクニック」を習う。県知事賞を取った際は地元の新聞社から取材を受け「将来は新聞記者になりたいんですか?」ときかれて面食らう。新聞記者なんて考えたこともなかった。
【中学・高校時代】
中学校は隣町の学校へ。全校生徒は16名。が、ここの学校が合わない。私は彼らにとってよそ者。それまで彼らの中では勉強ができるのは●●さん、運動ができるのは●●君、と決まっていたのに、そこに異物の私が入ったことにより全てにおけるランキングが狂ったのだ。母の僻地での勤務は3年と決まっていたが、高校受験のこともあり、私は中2の夏休み明け、僻地の学校を去ることを決めた。宮崎市の私立の中高一貫のミッションスクールを受験。編入した。
中2までに高3までの勉強を全部終わらせ、あとは大学受験に向けて勉強をするという、とにかく勉強が忙しい学校。勉強の気晴らし程度に陸上部に入部。(もともと足は速かった)
中3の頃、生まれて初めてV系のライブに行く。SOPHIAの47都道府県ライブ。
エスカレーター式でそのまま高校へ。高校も忙しく、朝早くから夜遅くまで学校で勉強。(田舎で予備校などないため、学校で全部面倒をみる)土日も学校があったため、休みは月2日程度。はっきり言って、高校時代が勉強でしんどかったから、高校のときのスケジュールに比べれば社会人のスケジュールはしんどくないと思える。
【大学時代】
大学進学により上京。日本女子大学文学部日本文学科にて、文学を学ぶ。入学式の翌日のオリエンテーションの日、隣に座っていたコがバンギャだった。それまでバンギャという言葉を知らないけどV系が好きだった。もう1人、バンギャの子が学科にいたため、その子にライブに連れて行ってもらう。
バンギャル活動の日々。
主にアートポップ所属バンドやピコピコ白塗り系に通っていた。
出版社と家庭教師のバイトを掛け持ちし、バンギャル活動費用を捻出する。
【出版社バイトでの仕事 2008年〜2010年】
出版社のバイトでは書籍編集と雑誌編集、後半にはweb媒体もやった。
<書籍>
・リサーチと最終チェック(読んでみて不自然ではないか目視でチェック。とても眠かった)
・相撲の本を作るとき、戦前の新聞を探しに国立図書館に調べにいって全部コピーをとった。戦争が激しくなるにつれ、新聞がペラ1枚になっていっていた。
<雑誌>
・編集者が校正記号をつけたものを原稿に反映させる作業。
・リサーチ
・取材のアポ入れ電話。1日50件以上かけた。
・印刷所へいく直前、載っている施設の電話番号にミスがないか実際にかけてみる。(きちんと繫がったら「まちがえました」と言って切る)
<web>
情報誌のweb版だったので、やったことはほぼ雑誌のときと同じ。
就活のとき、出版社系を受けるか他の企業にするか悩んだあげく、バンギャル活動を優先し、普通の事務職OL系を受けるが、リーマンショックの影響もあり、ことごとく落ちる。いよいよヤバイと思った卒業式二週間前、中小企業の事務職に受かる。
卒論も無事提出し、大学卒業。
【会社員時代 2010年〜1012年】
バンギャル活動の日々。
24歳の頃、やはり書く仕事があきらめきれず、マイナーな文学賞に応募したところ最終選考まで残り、少し自信を持つ。通っていたバンドが活休したこともあり、2012年の冬、兼業でライターを始める。最初の仕事は、『マイナビウーマン』の恋愛コラム。アダルトライターの菊池美佳子さんに紹介してもらった。恩人である。その後、文章の学校/編集の学校という、ライター育成の学校に半年間通う。
【フリーライターへ転職 2013年】
2013年の春、会社をやめて完全にフリーになる。当時、恋愛コラムサイトが乱立した時期。恋愛なんて一番苦手な分野なのに、周りの関係者からゴリ押しされて戸惑いつつも書く。しかも、顔出しも絶対にしたくなかったのに「仕事が欲しいなら出すべき」と言われて出す。写真も撮られ慣れていないから「写真と実物では全然違う」とよく言われた。(未だに写真よりも動画の方が自分の姿を見られる)
この頃はとにかく来た仕事は断らずに書いていた。
始めの月の売り上げは17万円。このままイケるかな? と思ったらその翌月は10万円になって焦る。しかし、夏頃には落ち着き、単価の高い仕事もドカンと単発で入り、なんとか普通の会社員くらい稼げるようになった。『Smart』『SPRING』『週刊女性』といった紙媒体の仕事も半年に1〜2本ほど請け負うように。ムック本の作成にも関わった。
【フリーライター 2014年】
『夕刊フジ』で小説の仕事をいただき、それは楽しみながら書いていた。約半年間、月1回掲載でクレジット入り。その後、『増刊大衆』で2ヶ月に1本官能小説を半年程連載。姫宮すもも名義。官能小説など読んだこともなかったので、勉強しながら書いた。
ライターとしてガンガン取材をするようになる。好きな猫関係やジェンダーや女性キャリア系、カルチャー、女性向けアダルト系を書くようになる。媒体としては、『ねとらぼ』、『ウートピ』など。
この頃から、取材で有名な文化人などにお会いするようになった。『おとなの流儀』にて、動物写真家の岩合光昭さんを取材できたのが猫好きとしては非常にうれしかった。この頃、紙媒体の仕事は2〜3ヶ月に1本くらい。収入は会社員時代より増えた。
猫を飼える余裕が出たので、ペット可物件に引っ越して猫を迎え入れた。
【フリーライター 2015年】
3年目ともなると、依頼された仕事を全て引き受けることはなくなった。やっている仕事でレベルが分かるので、いつまでも昔の仕事をしていると単価の良い仕事をもらえないことに気付いたから。初めていただいた仕事は恩があったので続けていたが、もう充分恩は返したと思い、卒業。現在一部請け負っている恋愛コラムサイトも12月いっぱいで卒業予定。
毎月『週刊SPA!』を請け負うようになり、週刊誌の慌ただしさを知る。
ますます、ジェンダー系や女性キャリア系に力を入れるようになる。また、ずっと書きたかった音楽系を『ウレぴあ総研』で書くことに。
現在に至る。
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