成り上がり~炎上配信者だった俺が、最強の女神たちと世界をひっくり返す話~

浜川裕平

第1話 転落


 コンピュータ専門学校を卒業間近で中退した。

 親の金だった。担任からの電話も無視し、俺は自ら社会とのレールを外れた。

 親は無駄金をドブに捨てたと嘆いただろう。

 俺は正真正銘の親不孝者だ。

 こうして俺は引き篭もり、無職童貞になっている。神谷圭佑、25歳。これが俺の現在地。


 外界と閉ざされた俺の世界は、リビングの食卓から始まる。

 一日の終わりを告げる、家族揃っての夕飯。

 テレビのバラエティ番組の、作り物めいた笑い声だけが響く。テーブルには、母さんが揚げた黄金色の豚カツ。勝負に勝つ、という、ささやかな願掛けか。

 俺は、もはや味のしないその肉塊を、黙々と白米と共に口に運ぶ。

 それが、俺がこの家に存在することを許される、唯一の儀式だった。


 向かいに座る父親が、新聞から顔も上げずに、吐き捨てる。

「……何もせずに、よく一日中パソコンなんか見てられるな」

 隣に座る高校生の妹、美咲が、氷のように冷たい声で続く。

「働いたらどう? 聞いてんの? この、引きこもり」

 父が、再び、呟く。

「――やめろ。飯が、不味くなる」

 その一言で、食卓は完全な沈幕に支配された。

 誰も、俺を見ていない。

 俺が席を立った後、妹の美咲は俺の茶碗にご飯をよそい直しラップをかけた。その不器用な優しさに、まだ誰も気づいていない。


 ある日、リビングの卓上ノートパソコンで、ホラーゲーム実況を見ていた。

(……俺も、やってみたいな)

 ふと、そう思った。何やってんだろ、俺。働かないとな。

 その考えが、地獄への第一歩だった。


 社会復帰への道は、想像以上に険しかった。

 工場の検品作業では計算ミスを怒鳴られ、派遣の現場では童顔のせいで高校生と間違われた。なけなしの給料で妹に携帯ゲーム機を買ってやったのが、唯一の救いだった。

 そして、最後に流れ着いたのが、この製氷工場だった。


 ガシャン、ガシャン、と単調な機械音が響く。

 ラインから流れてくる氷袋が詰まった箱を、俺は寸分の狂いなくパレットに積み上げていく。

 ある日、俺はラインの機械が発する稼働音の中に、ほんの僅かな**「ズレ」**を感じ取った。金属が擦れるような、微かで、しかし不吉な不協和音。俺はすぐに上司に報告した。「神谷、お前またか。気にしすぎなんだよ」

 上司は呆れていたが、念のためにと業者に点検を依頼してくれた。結果、俺の指摘通り、内部の部品に深刻な金属疲労が見つかった。この一件がきっかけで、工場は老朽化した機械を新調することになった。だが、俺の功績が誰かに認められることも、給料が上がることもなかった。

 気づけば、勤務三年。28歳になっていた。稼いだ金で機材を買い、「K」という名で動画投稿を始めて二年。再生数は伸びず、アンチコメントすらない、空気のようなチャンネル。それが俺の立ち位置だった。


 昼休憩。休憩スペースの隅に座る俺に、スーツ姿の彼女はいつも笑顔で声をかけてくれる。保険営業の佐々木さん。俺の唯一の癒やしだった。

 ある日、彼女は可愛らしいバスケットを手に、少し照れくさそうに言った。「趣味でクッキーを焼いてみたんですけど、作りすぎちゃって。これ、良ければ皆さんで食べてください」

 彼女は、パートのおばちゃんたちにクッキーを配った後、一番形の良いものを、そっと俺の机に置いてくれた。バターの甘い香りと、彼女の少しだけはにかんだ笑顔。それが、俺のモノクロの世界に差し込んだ、唯一の色彩だった。

 事務所のカウンターへ向かう彼女の後ろ姿を、俺は目で追っていた。「佐々木さん、お疲れ様です」カウンターの内側から、事務員の相川さんが声をかけた。「相川さんもお疲れ様。そういえば、彼氏さんとは、うまくいってる?」「うーん、お互い仕事が忙しくて。佐々木さんは?」「私も、微妙かな」働く女性同士の、軽やかで、しかし少し影のあるやり取り。俺はその光景を、分厚いガラスの向こう側から眺めている気分だった。


 そんな日常に、亀裂が入る。

「佐々木さん、可愛いよな。最近彼氏と別れたらしいぞ」

 先輩の田中が、俺の隣のロッカーを開けながらニヤニヤしている。彼のロッカーには地雷系アイドル『YORU』のチェキが貼ってあった。「――それより圭佑、明日休みだろ? Kチャンネルの動画、撮るのか? 楽しみにしてるぜ」

 心臓が凍りついた。知られたくない聖域を暴かれた衝撃。自分の世界に、土足で踏み込まれた気分だった。


 その週末、事件は起きた。

 俺がフリーゲーム実況のオープニングに使った、なけなしのプライドである自作曲。それが「月影」と名乗る謎のアカウントによって、無断転載された。カッとなった俺は「俺の曲です。削除してください」とコメントしてしまう。

 そのスクリーンショットが「作者、降臨して発狂w」というタイトルで拡散され、瞬く間に炎上した。

 おびただしい数の罵詈雑言の中に、たった一つだけ、異なる種類のコメントが紛れ込んでいることに、まだ俺は気づいていない。『ID: xxx_sylph_xxx』:…私は、あなたの曲、好きですよ

 いつしか、匿名掲示板では、『この「月影」って奴、Kスケの自作自演じゃね?』と囁かれるようになっていた。

 心が折れ、動画を更新できずにいると、同業者の今宮という男からSNSにDMが届いた。『炎上大変ですね。俺で良ければ話聞きますよ? 良ければコラボしませんか?』

 この地獄から抜け出せるなら、悪魔にだって魂を売る。そんな思いで、俺はその誘いに乗ってしまった。


 炎上後、アンチコメントに煽られた俺は、自暴自棄になっていた。「金持ちのボンボンだろ」「どうせ実家暮らしのニート」そんなコメントに反発するように、注目を集めようと「自宅紹介動画」を投稿した。親がいない隙を狙って撮ったその動画に、テレビ台に置かれた『〇〇宿舎』と書かれた入居資料が一瞬映り込んでいることに、気づく余裕はなかった。


 今宮とのコラボ配信で、俺は道化にされた。「アンチに特定されるものが映ってますよ?」正義を気取る今宮に、俺の自宅紹介動画を晒し上げられる。追い詰められた俺は、「特定されても、うちは笑顔で返しますよ」という最悪の失言を犯した。

 匿名掲示板では、俺の自宅が特定されるまで時間はかからなかった。『〇〇宿舎』という情報と、**去年の夏に投稿した、宿舎の踊り場から撮った花火大会の動画。**二つの情報から、部屋番号まで完璧に割り出されていた。


 地獄は、そこから始まった。

 夜23時、インターホンが鳴り、ポストにはカッターナイフの替刃と殺害予告。「親に虐待されている」という虚偽通報で警察が来た。刑事の一人が、俺のPCのデータを見ながら、訝しげに同僚に尋ねる。「おい、なんだこのデータ…? 見たこともない形式のプログラムが、OSの深層部に隠されてるぞ…。まるで、生きているみたいだ…」

 それは、父がかつて開発し、このオンボロPCに眠らせていた、AI【Muse】の原型だった。


 そして、ゴールデンウィークを目前に控えた、平日の昼下がり。

 家にいたのは、俺と、パートが休みの母だけだった。二人の刑事が、うちの玄関のドアを叩いた。

「神谷圭佑さんですね? 市役所の掲示板に、あなたの名前で爆破予告がありました。書き込みは、あなたの自宅のパソコンからです。署までご同行を」

 刑事が突きつけたコピー用紙には、動かぬ証拠であるうちのIPアドレスが記されていた。「ご同行願います」

 冷たい金属の感触が、俺の手首に巻き付く。

 どうなってんだ?

 刑事に両脇を固められ、俺は宿舎の206号室から連れ出された。

 一階に降り、パトカーへと押し込まれる、その直前。俺は振り向いた。

 そこには、部屋のカーテンの隙間から、青ざめた顔でこちらを見つめ、声にならない悲鳴を上げながら、その場に崩れ落ちる、母の姿があった。


 バタン、と無慈悲な音を立てて、パトカーのドアが閉まる。

 その音は、俺と、俺の世界の全てを、完全に断絶した。

 俺の人生は、ここで終わった。

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