8月6日月曜日、私の祖母は高等女学校4年生(現在の高1)で、広島県甲山町(現在は世羅町)の親戚の家に疎開していた。この日の朝、広島市の方から閃光が起き巨大な雲が見えた。祖母の父は広島東警察署に勤務する刑事だった。「お父さん!」
祖母は広島市内に連れて行ってくれと叔父に頼んだ。
甲山町から広島市まで歩けば16時間以上かかる。叔父は自家用車を持っていたが、ガソリンが無い。
そこで近所中に頭を下げて、事情を説明し、
戦前から備蓄していたガソリンを少しずつ分けてもらい、
ようやく午後、オート三輪に乗って祖母と叔父(祖母の父の弟)は「広島東警察署」を目指して出発した。
市内に近づくにつれ、歩いて避難してきた負傷者が増えていた。
みんな髪は逆立ち、顔面は血だらけ、手の皮が剥がれて、腰のあたりまでずる剥け、
黒焦げの人形のようになった赤ちゃんの死体を抱いて、泣き叫びながら歩いている母親、
破水して赤ちゃんが頭だけ膣から出た状態で亡くなり、リヤカーの荷台に乗せられ運ばれている妊婦、
服がやけ全裸で、お尻から腸らしき臓器をだして、
力尽きうつ伏せて死んでいる老人などが目に入り、
同時に、人の肉が焼けたような強烈な異臭が漂ってきた。
祖母は小さい頃、仏壇の蝋燭に、自分の切った爪をくべて燃やした悪戯をしたことがあった。
その時の異臭の数百倍もする臭いだった。
ようやく広島市内に入り、祖母の父が勤務してる広島東警察署に着いた。
この警察署を明日から臨時広島県庁舎として使うことになり、多くの人が出入りしていた。
祖母は車から飛び出して「お父さん!」と叫びながら警察署に飛び込んだ。
しかし、父は署内にいなかった。
市内の火災はやや鎮火したようだが、まだ煙がみえる。
「広島市中心部に行って父を探したい」と祖母が言い、
京橋川にかかる橋を渡りたいと叔父に言った。
叔父は一端、橋の近くまで車を移動させたが、周囲で亡くなったいる方々の様相を見て、
「死に方が普通ではない。新型爆弾じゃけぇ、どんな毒が仕込まれているかわからんぞ」
と言い、車を停めた。
ならば歩いて中央に行くと言い出した祖母に
「車から出るな!明らかにワシら一般人を狙ったもんじゃこれは!みろ!死体を!普通の爆弾じゃないのはわかるだろ!中央に行けば濃い毒を吸うかもしれん!」
「諦めろ!」
祖母は泣きながら帰路についた。
そして、大量の死体と負傷者と灰燼に帰した広島市と、
ほんの数年前、父と映画を見に来て、新しいお洋服を買ってもらったときの記憶の広島市を比べ、
「皇軍はこの新型爆弾を持っていないんじゃ…持っていたら報復合戦になるからアメリカだって使うはずはない」
と悔し涙を流した。
戦後、共産主義が被爆者を利用し、核武装を求める被爆者たちを差別し始めた。
「ピカの毒は子どもに遺伝する」
「ピカを受けたやつらはもう人ではない」
そうして、核兵器をもち、2度と被爆の過ちを繰り返さないと思う被爆者を共産主義は徹底的に差別し、
唯一、
「ソ連の核兵器は平和のため、アメリカの核兵器は戦争のため」
という共産党の思想に賛成する被爆者だけ、差別しないように働きかけた。
共産主義革命のため、警察官を殺害して銃を奪う事件も起こり、被爆者は沈黙した。
「非核」という暴力があったからだ。
非核三原則は国会決議だが、
国会決議が条約より優先されるという狂気がこの国を支配した。
「核兵器積載艦のわが国の領海内の通航というのは、自由に通せば非核3原則を崩したと言われることになる」(正森成二日本共産党衆議院議員 昭和51年7月14日衆議院決算委員会第13号)
しかし、祖母はそっと子どもの私にだけは教えてくれた。
核兵器を持つ国は、絶対に核攻撃されず、
絶対に侵略されないという現実を。
日本は、これから平和の道を歩み始める。
非核という暴力の礼賛をやめ、真の平和を守らなければならない。
「我が国を防衛するための必要最小限度のものにもちろん限られるということでございますが、憲法上全てのあらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているというふうには考えておりません」(横畠裕介内閣法制局長官 平成28年3月18日参議院予算委員会第17号)
日本は核武装せよ!被爆者を差別するな!
平和は核抑止によってのみ守られる。
未開人の迷信に騙されるな!
私の書いた『新大東亜戦争肯定論』は真実を提供します。
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