1990年10月3日、東西ドイツは統一した。それから今日まで、ちょうど20年、早いものである。そして、私は20年前のことを思うにつけ、歴史の展開は、人々の予測を越えて進んでいくものだと感じている。
1989年から1990年にかけてのわずか1年ほどで、世界は、まるで蛹が蝶になるように、大変換をとげた。若い世代の人々にとっては、あの大変換は、歴史で学ぶ一事実でしかないかもしれない。しかし、私たちの世代には、東西陣営の間の冷戦が世の中の大前提であった時代は、まだ記憶に生々しい。その頃、自由主義社会と共産主義社会との対立、膨大な量の核兵器を向けあっての核戦争の危機、そうしたことは永久に続くものと誰もが考えていた。東西対立が過去のものになるとは、ましてやソ連という大国が、雲散霧消してしまうなど、およそ想像もつかなかった。
私は今でも、1989年11月10日、外務省に出勤した朝のことを覚えている。私は、本省の西欧第一課という部署にいた。その日、私は朝のニュースを見ていなかった。いや、欧州の9日夜半に起った出来事だから、ニュースで報道されていたのかどうか分からない。とにかく、私の顔を見るや、ドイツ担当の同僚が言った声と表情を、今でも覚えている。
「岡村さん、信じられない。ベルリンの壁が、崩れた。」
ベルリンの壁とは、ベルリンの街を東西に分断するコンクリート製の強固な壁で、東西両ドイツの間の、人々の交流を物理的に阻んでいた。多くの人が、東側から西側に亡命するため、この壁を乗り越えようとして東ドイツ官憲に殺されていた。その、東西対立を体現するベルリンの壁が、人々の手によって崩された。これは、東西対立の終焉が始まったことを意味していた。
それからの展開は、想像を超えて速かった。東欧諸国、つまり共産主義国家だった欧州の国々で、次々に国民が立ちあがり、共産政権を崩していった。すでに民主化が進んでいた、ポーランド、ハンガリーに、ベルリンの壁崩壊で東ドイツが加わり、チェコスロバキア、ブルガリアと続いた。そして、クリスマスの前夜、ルーマニアの独裁者チャウシェスクの処刑で、幕を閉じた。1989年年末までに、「東欧」は消滅していた。私がいた西欧第一課は、これらの動きを追わなければならなかった。膨大な量の情報処理に、徹夜の日々が続いた。
激動の東欧革命から年が明けて、1990年1月、海部総理は欧州諸国を大急ぎの日程で歴訪した。欧州の秩序が大変換するなかで、新しい世界秩序の行方と、東欧諸国への支援策を、各国首脳と相談するためである。私は担当課の事務官として、海部総理訪欧に従事し、総理一行に同行していた。
訪れた海部総理に対して、西ドイツ(当時)のコール首相はこう述べた。
「東西ドイツの統一には、率直に言って、10年かかると考えています。」
統一の実現の最高責任者だったコール首相でさえ、1990年の年初にはそう見ていた。ところが、歴史はコール首相さえ予測しなかった早さで進んだ。その年の10月には、統一が完了していたのである。
さて、あの激動の日々から20年が経って、私はコートジボワールのドイツ大使の公邸にいる。今日は、ドイツの国祭日であり、祝賀レセプションに出席しているのである。
ドイツ大使は、演台に立って、演説を始めた。
「ご存知の通り、ドイツは第二次大戦後、東西に分断されました。そして、ドイツ統一には、それから40年以上の月日を待たなければなりませんでした。」
「今から考えると、20年前のあのときに、一気呵成にドイツ統一に持ち込むことができたのは、たいへん幸せなことでした。もし、あの機会をうまく掴んでいなければ、国家の統一は果たせなかったかもしれません。さて、ここコートジボワールでも、南北統一のために努力が続けられています。そして、危機脱出の必要条件である大統領選挙が、もうすぐ行われる段取りになっていることを、心から喜んでいます。」
つまり、ドイツがあの素早さで東西統一を進めたのは、たいへん幸運なことであったと言う。ドイツが、訪れた機会をしっかり掴んだように、コートジボワールも、国家分裂を解消するためには、大統領選挙という機会を、今こそ時宜を失うことなく掴む必要がある、と訴えている。
「コートジボワールも国家が分断されてきましたが、ドイツと異なり、南北の行き来を阻むような「壁」は築かれませんでした。そして、2007年以来、北側の「新勢力」から首相が任命されている。これはとても幸いなことです。ドイツで言えば、東ドイツの共産党党首が、西ドイツの首相になっているようなものですから。」
ドイツも分断国家であり、その分断を克服した、ということは、この国に特別な説得力を持つかもしれない。
「ドイツの経験は、コートジボワールの人々に、重要な教訓を伝えてくれるでしょう。それは、大統領選挙は国家統一の最初の第一歩でしかない、ということです。分断してしまった国家を改めて統一するというのは、とてもたいへんな努力が必要なのです。コートジボワール全体が、国民和解を果たすまでには、予想以上に時間がかかるでしょう。しかし、まず何より、国民和解を取り戻すために、大統領選挙はどうしても必要なことなのです。」
同じ国家分裂といっても、米ソの両大国の対立の最前線で引き裂かれ、40年の東西分裂を経験したドイツと、内乱で数年間ほど南北に分裂したコートジボワールでは、その意味は大きく違うだろう。それでも、一度分裂してしまった国を、再び統合するという苦労には、共通するものがある。そういうところ、ドイツの大使だからこそ、コートジボワールに意見できる。ドイツ大使は、自国の歴史を踏まえたうえで、コートジボワールの人々に、まず大統領選挙をちゃんと実施するように、諭したわけである。
1989年から1990年にかけてのわずか1年ほどで、世界は、まるで蛹が蝶になるように、大変換をとげた。若い世代の人々にとっては、あの大変換は、歴史で学ぶ一事実でしかないかもしれない。しかし、私たちの世代には、東西陣営の間の冷戦が世の中の大前提であった時代は、まだ記憶に生々しい。その頃、自由主義社会と共産主義社会との対立、膨大な量の核兵器を向けあっての核戦争の危機、そうしたことは永久に続くものと誰もが考えていた。東西対立が過去のものになるとは、ましてやソ連という大国が、雲散霧消してしまうなど、およそ想像もつかなかった。
私は今でも、1989年11月10日、外務省に出勤した朝のことを覚えている。私は、本省の西欧第一課という部署にいた。その日、私は朝のニュースを見ていなかった。いや、欧州の9日夜半に起った出来事だから、ニュースで報道されていたのかどうか分からない。とにかく、私の顔を見るや、ドイツ担当の同僚が言った声と表情を、今でも覚えている。
「岡村さん、信じられない。ベルリンの壁が、崩れた。」
ベルリンの壁とは、ベルリンの街を東西に分断するコンクリート製の強固な壁で、東西両ドイツの間の、人々の交流を物理的に阻んでいた。多くの人が、東側から西側に亡命するため、この壁を乗り越えようとして東ドイツ官憲に殺されていた。その、東西対立を体現するベルリンの壁が、人々の手によって崩された。これは、東西対立の終焉が始まったことを意味していた。
それからの展開は、想像を超えて速かった。東欧諸国、つまり共産主義国家だった欧州の国々で、次々に国民が立ちあがり、共産政権を崩していった。すでに民主化が進んでいた、ポーランド、ハンガリーに、ベルリンの壁崩壊で東ドイツが加わり、チェコスロバキア、ブルガリアと続いた。そして、クリスマスの前夜、ルーマニアの独裁者チャウシェスクの処刑で、幕を閉じた。1989年年末までに、「東欧」は消滅していた。私がいた西欧第一課は、これらの動きを追わなければならなかった。膨大な量の情報処理に、徹夜の日々が続いた。
激動の東欧革命から年が明けて、1990年1月、海部総理は欧州諸国を大急ぎの日程で歴訪した。欧州の秩序が大変換するなかで、新しい世界秩序の行方と、東欧諸国への支援策を、各国首脳と相談するためである。私は担当課の事務官として、海部総理訪欧に従事し、総理一行に同行していた。
訪れた海部総理に対して、西ドイツ(当時)のコール首相はこう述べた。
「東西ドイツの統一には、率直に言って、10年かかると考えています。」
統一の実現の最高責任者だったコール首相でさえ、1990年の年初にはそう見ていた。ところが、歴史はコール首相さえ予測しなかった早さで進んだ。その年の10月には、統一が完了していたのである。
さて、あの激動の日々から20年が経って、私はコートジボワールのドイツ大使の公邸にいる。今日は、ドイツの国祭日であり、祝賀レセプションに出席しているのである。
ドイツ大使は、演台に立って、演説を始めた。
「ご存知の通り、ドイツは第二次大戦後、東西に分断されました。そして、ドイツ統一には、それから40年以上の月日を待たなければなりませんでした。」
「今から考えると、20年前のあのときに、一気呵成にドイツ統一に持ち込むことができたのは、たいへん幸せなことでした。もし、あの機会をうまく掴んでいなければ、国家の統一は果たせなかったかもしれません。さて、ここコートジボワールでも、南北統一のために努力が続けられています。そして、危機脱出の必要条件である大統領選挙が、もうすぐ行われる段取りになっていることを、心から喜んでいます。」
つまり、ドイツがあの素早さで東西統一を進めたのは、たいへん幸運なことであったと言う。ドイツが、訪れた機会をしっかり掴んだように、コートジボワールも、国家分裂を解消するためには、大統領選挙という機会を、今こそ時宜を失うことなく掴む必要がある、と訴えている。
「コートジボワールも国家が分断されてきましたが、ドイツと異なり、南北の行き来を阻むような「壁」は築かれませんでした。そして、2007年以来、北側の「新勢力」から首相が任命されている。これはとても幸いなことです。ドイツで言えば、東ドイツの共産党党首が、西ドイツの首相になっているようなものですから。」
ドイツも分断国家であり、その分断を克服した、ということは、この国に特別な説得力を持つかもしれない。
「ドイツの経験は、コートジボワールの人々に、重要な教訓を伝えてくれるでしょう。それは、大統領選挙は国家統一の最初の第一歩でしかない、ということです。分断してしまった国家を改めて統一するというのは、とてもたいへんな努力が必要なのです。コートジボワール全体が、国民和解を果たすまでには、予想以上に時間がかかるでしょう。しかし、まず何より、国民和解を取り戻すために、大統領選挙はどうしても必要なことなのです。」
同じ国家分裂といっても、米ソの両大国の対立の最前線で引き裂かれ、40年の東西分裂を経験したドイツと、内乱で数年間ほど南北に分裂したコートジボワールでは、その意味は大きく違うだろう。それでも、一度分裂してしまった国を、再び統合するという苦労には、共通するものがある。そういうところ、ドイツの大使だからこそ、コートジボワールに意見できる。ドイツ大使は、自国の歴史を踏まえたうえで、コートジボワールの人々に、まず大統領選挙をちゃんと実施するように、諭したわけである。
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