goo blog サービス終了のお知らせ 

コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

「ミス」と女性囚

2010-10-06 | Weblog

趣旨は分かるのであるが、どうにも違和感がある。その違和感の理由を説明しようとしても、うまく言えない。私はとくに異議を唱えることはしなかった。それは、地元のロータリークラブが行っている、アビジャン監獄への支援活動についてである。今回、医薬品を届けるということになった。その供与に、「ミス・コートジボワール2010」の3人の女性が同行するというのである。

私は、アビジャンの監獄への支援活動に、これまで何度か携わってきた。アビジャン監獄では、囚人たちは非人道的な環境におかれ、政府からも世間からも見放されている。それでも、国際赤十字をはじめとするNGOや、宗教団体などが、さまざまな支援活動を行っている。その中でも、アビジャンのヨプゴン区のカトリック教会は、囚人の信仰と心の救済のために、監獄に日々通っているうちに、支援活動の核の役割を果たすようになってきている。そのカトリック教会を通じて、ロータリークラブは監獄に物資を届けている。私は、世界の各地から支援物資が届くそのつど、皆さんと一緒に出かけて、監獄に物資を置いてくる。これまで、医薬品を届けたり、消毒設備を提供したりした。一度は、女性囚にミシンと布を届けた。

もちろん、ここの監獄の不条理は、もちろんコートジボワールの司法の機能不全の結果であり、貧困のしわ寄せであり、国家体制の不備の現われである。だから、そうした問題の根源を何とかしなければ、監獄の窮状はどうにもならない。その都度、何がしかの物資を届けても、どれほどの救援になるというのだ。しかし、この世間から見捨てられた囚人たちに、彼らは決して完全に忘れ去られているわけではないのだ、ということを示す。これはボランティア活動の本質である、と私は思う。苦しんでいる人々を救うことは、実質わずかしかできなくても、こちらから関心を持って、それを伝えることに大きな意味がある。

それで、今回はイタリアの慈善団体から届いた栄養剤数箱を、監獄に届ける。そこに「ミス・コートジボワール」が同行する、というわけである。ちなみに、「ミス」というのは、美人コンテストだ、というのはその通りなのだけれど、単なる美人選びの競技会というだけではない。選ばれた「ミス」と「準ミス」2人の、合計3人は、その後1年間にわたって、さまざまな社会活動に参加することになる。多くの場合は、展覧会などの華やかな行事に、明るい色を添えるという仕事である。その一方で、時には恵まれない人々の施設を訪れて励ます、というような地味な活動もある。

「ミス」たちが訪れるというのは、人々がそういう恵まれていない人々のことを忘れていないということ、つまり彼女たちは社会の連帯を象徴している。だから、私の考えるボランティア精神の本質と、軌を一にしているわけだ。それでも、なんだか違和感がある。なぜだろう。それは、監獄という陰鬱な空間と、選ばれた美人たちという華やかさとの間の違和感だろうか。というより、そもそも女性であれば誰であれ、どうも似つかわしくない空間であると感じているからだろうか。

ともあれ、「ミス」はやってきた。見上げるくらい背が高くて、美しい着物を着ている。胸には袈裟がけに、「ミス・コートジボワール2010」の肩章をかけている。その「ミス」と、「準ミス」2人と、合計3人の美女がゆっくり並んで歩くと、やはり華やかだ。周りの人々の目を引く。そして、「ミス」たちと一緒に、監獄の玄関をくぐった。

監獄長の執務室に入って、栄養剤の箱を手渡し、「ミス」たちを交えて記念撮影。監獄長からは、監獄の現状と問題について、あらためて説明がある。監獄長も、ちょっと珍しい客人、色どり鮮やかな「ミス」たちに、今日は嬉しそうである。そして、一行全員が監獄の様子を視察に出かける。監獄の中は、いつものとおり、檻の塀で隔てられた構内に、囚人たちがおおぜい歩き回っている。私たちと「ミス」を見つけて、何十人と檻につかまって、物見高にしている。

「ミス」たちは、囚人たちから鉄格子越しに言葉をかけられても、平然と姿勢を崩さず優雅に歩く。驚いたり顔をしかめたり、そうした表情は全くなく、まわりにあれこれ質問するとかもしない。彼女たちには、監獄であろうが展覧会会場であろうが同じであり、同じように優雅に美しく歩く。私たちは、「ミス」たちとともに、女性囚の棟に赴いた。

女性囚は120人ほど。男性の囚人たちとは別に区切られた敷地に、小ぶりな建物に収容されている。私は、前にミシンの供与の時に訪れている。女性囚たちは、ここでも建物の中に閉じ込められているわけではなく、外に出て今日は建物の大掃除をしていた。女性たちだけあって、ここには何だか生活を感じる。洗濯をしている人もいれば、鍋で調理をしている人もいる。女性囚のなかには、妊娠しているまま収監される人もいる。だから、この監獄で子供が生まれる。簡単な保健施設と、子供の養育施設が、付属して建てられている。

ここでも、不条理な扱いに耐えている人がいる。会社の経理をごまかして、お金を着服したという容疑で逮捕され、収監された女性が、裁判を待っている。有罪になっても禁錮半年くらいの罪である。それが、監獄の中で裁判が始まるのを待たされること、すでに3年を越えている。裁判には長い順番がある。順番を早めてもらうには、裁判所だか誰かにお金を渡さなければならないという。そんなことをするようなお金は手元にないし、走り回ってくれる家族もいない。半年前に、私にそう訴えた女性は、今日もまだ監獄から出ておらず、私を見かけて声を掛けてきた。

私は、彼女の境遇と、「ミス」たちの境遇が、同じ女性なのに雲泥の差ほど違うことに、あらためて気づいた。それは、単に女性としての美しさや着物の上等さや、あるいはお金が裕福にあるかないかとか、そういう意味での境遇だけではない。「ミス」たちは、コンテストで選ばれ、その美貌と教養を認められている。いわばこの世の社会で、一番祝福され注目されている女性たちである。ところが、ここの女性囚たちは、同じこの世の社会から、嫌がられ、捨てられ、忘れられようとしている女性たちなのである。

それこそが、私の覚えた違和感の根源であった。「ミス」たちは、いわば社会の善意を代表していた。ところが、女性囚たちは、いや女性囚たちだけでなく、この監獄に生きる囚人たちは、社会から「悪意」とまでは言わないけれど、意図をもって隔離され、意図をもって放擲されていた。この人々の逆境は、人為的なものであった。社会が食糧・医療にちゃんと予算を付け、裁判の手続きを進めれば、逆境からはおおかた救われるはずである。しかし、社会はそうはしない。社会は彼ら囚人を、いわば遺棄していた。

社会から最も祝福された人々が、社会から最も遺棄された人々に、社会の連帯を伝えようとしても、慰めにはなりそうにない。つまり、慈善や連帯というのは、人間の手ではどうにもならない力によってもたらされる災害や不運においては、おおいに励みと力になる。しかし、社会の中で、人間の意識と作為によってつくりだされた不幸に対しては、慈善や連帯といっても、ある種の偽善のにおいさえある。ほんとうに不幸をなくそうとするなら、社会の側に働きかけて、意識や行動を変えていかなければならない。

「ミス」たちは、足場が悪いのにハイヒールで姿勢よく歩き、表情に威厳と美しさを失うことなく、立派に振る舞った。けれども、私はやはり、このアビジャン監獄に、「ミス」たちは似つかわしくないと思ったのである。

 アビジャン監獄の玄関を入る「ミス」たち

 女性看守から、女囚棟の説明を受ける。
看板には「服役囚51名、未決囚67名、未成年者6名」と書いてある。

 女囚棟の敷地にある洗濯場で、女性囚たちが洗っている。

 女囚の子供たちのための保育施設

 識字教育などを行っている教室

 女囚棟を視察する「ミス」たち

 マリア像の前で記念撮影(むかって右は監獄長)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。