約一ヶ月ほど前のことである。この国の経済・産業界の人々を集めて、「アフリカ経済フォーラム」という検討会を行う計画である、ついては、開会の挨拶のところで、雛壇に並んでほしい。フォーラムの主催者代表が私を訪ねて、そういう要望を伝えてきた。
私は聞いた。なぜ、私が呼ばれるのですか。
「大使は、活発に活動しておられ、テレビにも新聞にも出ておられるから。」
有名で、皆が顔を知っているから、という。それじゃ、客寄せ何とかじゃないか。嫌だ、出る以上は、単なる挨拶だけでなく、一席ぶたせてほしい、言いたいことを言わせてほしい、と条件を付けた。それで、約20分の講演を行うことになったのである。
「フォーラム」は、コートジボワール電力公社のザディケシ総裁が音頭を取り、若手の企業人を対象に、ちゃんと会費を取って行う本格的な会合である。3日間をかけて「家計の経済社会開発における位置づけ」という主題について、検討を加える。個別の論点ごとに、各方面から講師を呼んで発表を得て、討論をするという構成になっていた。私も、おざなりな講演はできない。それで、じっくり内容を練った。「家計の役割」について、日本の経済成長での例を紹介する、という主題にすることとした。
当日(9月22日)は9時から開会する、というので9時ちょうどに会場に車を付けた。どのみち30分くらいは遅れるのだろう、と思っていたら、そのまま会場に案内され、ザディケシ総裁ほかの来賓とともに演壇に上げられた。そして直ちに、司会が開会の音頭をとった。何と、時間きっかりに始まった。これまで、政治の世界の、予定時間を全く守らない時間感覚に慣れていた私は驚いた。経済・産業界は、このコートジボワールにおいても、ちゃんと予定時間どおりに動くのだ。
ザディケシ総裁をはじめ主催者・来賓により、順に祝辞や挨拶が続く。それぞれ、なぜこの検討会で、コートジボワール経済での「家計」の役割を取り上げるのか、などについて言及している。私はそれを聞きながら、用意してきた原稿が、この検討会にとって適切な問題提起になるだろうな、と確信を強めてきている。よし、自信をもって講演しよう。
挨拶の部の最後に、私が呼ばれた。日本大使のご臨席を得ています、日本の例について語っていただきましょう。私は原稿を揃えて、演説台に立った。会場にはおよそ2百人の人々が来ている。皆スーツ姿で、書類鞄を横に、私を静聴している。いつもと大分雰囲気が違っている。
「本日は、このフォーラムに招待いただき光栄です。」
と、私は講演を始めた。
「初めにお話をいただいたとき、なぜ日本大使の私が、出席を求められたのか、と自問自答しました。日本とコートジボワールの間には、長い友好の関係があります。それだから、私に声がかかったのか。それもあるでしょう。しかし、主催者の方は、日本の話を聞けば何か良い参考になるだろうと考えられたに違いない。だから、私は単なる挨拶ではなく、20分ばかりお時間を戴いて、日本の経験についてお話することにしました。」
だいたいどのくらいの時間話をするつもりなのかを、予め示しておいたほうが、熱心に聞いてもらえる。いつまで話が続くのだろう、と思い始めた途端に、聴衆の注意は拡散してしまう。もう一つ大事なのは、どういう構成で話を進めるつもりなのかについて、最初に描いておくことである。そうすれば、聴衆の心のメモ取りに、役立つ。私は、次の通り目次を説明した。
「この検討会は、<家計の経済社会開発における位置づけ>という主題です。だとすると、主催者が日本に目を付けたのは炯眼です。日本の戦後の経済成長には、まさに家計が大きな役割を果たしたと言えるからです。本日は、まず日本が、戦後の荒廃から世界第二の経済大国にまでに経済発展を遂げた過程で、家計が果たした役割を分析し、次いでその背後にどういう社会倫理があったのかを論述したいと思います。」
そして私は本題に移る。まずは、あのいつもの問題提起である。
「皆さんは、日本は豊かな国だ、と言う。そして、コートジボワールは貧しい国だ、と。それは違う、逆である。しかし、日本の国土面積は37万平方キロ、コートジボワールは32万平方キロで、ほぼ同じサイズである。しかし、日本の国土の85%は山岳地帯であり、可耕地・可住地面積は、国土全体の15%に過ぎない。一方、コートジボワールはほとんど平坦な国で、国土はそのまま使える。そして人口は、日本の6分の1しかいない。国民一人あたりの利用面積について、コートジボワールのほうがどれだけ大きいか、お分かりでしょう。」
「さらに、気候は年中経済活動を許すものであり、日本のように秋、冬がない。日本の多くの地域で、積雪は数メートルに及び、そういう場所では年に数カ月、経済活動の停止を余儀なくされる。また、両国で稲作を行っているが、日本では5月に苗を作ってから、10月に刈り取るまで、年1回の収穫である。ところが、コートジボワールの各地の稲田で聞くと、2~3期作を行っている。さらに、鉱物資源についても、コートジボワールは鉄、金、マンガンなど、豊富な資源を有する。皆さんの国は、ガス・石油産出国でさえあるのです。」
「1945年の日本は、米国との戦争に敗北し、ほとんど全ての都市が爆撃を受けて灰燼に帰し、経済活動はほぼゼロでありました。私が生まれたのは、コートジボワール独立の2年前でず。私の少年時代、国はまだ貧しかった。周辺の道路は、殆どが舗装されていなかった。雨が降ると、そこらここらに水溜りができていました。牛肉は高くて、庶民にはなかなか買えなかったのです。そんなところから始めて、日本の経済がどんどん成長したのは、まさに人々が働いたからです。私の親の世代は、ほんとうによく働いた。当時はまだ、土曜日は休日になっていなかった。そして、私の父親は、日曜日を一日家で過ごすことは珍しかった。そうして働いて、日本を豊かにしてきました。」
私はいつもの言い回しを使う。
「日本は豊かな国なのではない、豊かになった国なのです。」
日本は、国民の勤労によって経済成長した。その話をしておいてから、私は「家計」に論点を移した。
(続く) 「アフリカ経済フォーラム」の案内冊子
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