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Conversation

長崎原爆は当初小倉が目標だったが、迎撃部隊に撃退された。それを戦後、「雲が」とか「煙幕が」などデマが教科書に載った。その目的は「核攻撃を防衛力で一度は撃退できた」という成功例を歴史から抹消するためだった。 解説するぞ! 長崎原爆は、ボックスカーという名前のB29が運搬した。 威力は広島原爆の約1.4倍だった。 日本軍迎撃部隊は、すでに「震天制空隊」という体当たり専門部隊を導入し、緊張下にあった。 ボックスカーのスウィーニー機長は、戦後自叙伝を書いた。 それによると ①雲があるが原爆投下に問題なし、と判断して小倉上空に進入 ②地上で煙幕を焚いているのを確認したが原爆投下に問題ないので爆撃コースに入った と書かれている。 では、何がB29を撃退したのか? 「本機の周囲に高射砲の弾幕」 実は、B29は高度一万メートル以上を飛べるが、 爆撃をするときには「ノルデン照準器」という機械を使う。 ノルデン照準器は高度6100メートルから7300メートルが最大有効射程だった。 つまり、爆撃をするときには高度を下げなければならなかった。 特に原爆のように単価の高い兵器ならば外すことはゆるされなかった。 この7300メートルとは、日本軍の現役の高射砲全ての射程距離の範囲だった。 だが、命中率は高くない。スウィーニー機長は恐怖を抑え、慎重に爆撃コースに進入した。 そのときだった。 通信員が「機長!日本軍の迎撃戦闘機の無線を傍受!まもなく本機は攻撃圏内に入ります!」と叫んだ。 ボックスカーはただちに反転し、小倉を離脱した。 日本軍は追撃を開始したが、全力で逃げるB29には追いつけず、 結果、帰路にあった長崎に投下された。 しかし、ここで重大な事実が見落とされている。 広島原爆は、空襲警報が解除され、みんなが安堵して防空壕から出たタイミングで炸裂した。 だが、長崎では小倉の防空戦闘があったため、 ラジオで原爆投下の約3分前に警戒警報を出すことができた。 ここでもまた戦後、デマが作られた。 「長崎は坂道や山が多いから被害が少なかった」 長崎原爆は市内の高度500メートルで炸裂した。 この高度からの熱線や爆風を避けられる坂など無い。 長崎原爆が広島原爆より強力だったにもかかわらず、死者が広島より圧倒的に少ないのは、 「防空戦闘の結果、わずか数分しかなかったが、警戒警報をラジオで伝えることができた」 これにより防空壕に退避できた人がいた。 広島原爆は、爆心地からわずか170メートルの近距離だったが、 地下一階にいたため助かり、戦後何十年も生きた人がいる。 日本陸海軍は、原爆投下機と必死に戦った。 結果、小倉からは撃退し、 長崎では警戒警報を放送できた。 もし、何もしていなければ、死者は増えていたことは明白だ。 もともと、一般人を狙うことが戦略爆撃の目的だ。 空爆で、民衆にパニックを起こせば自己保存の本能に突き動かされ、 戦争の終結を政府に要求するようになるという理論だ。 戦略爆撃理論はイタリア王国の陸軍少将ジュリオ・ドゥーエが発表し、 その後アメリカ合衆国の陸軍少将ウィリアム・ミッチェルによって完成された。 広島原爆をテーマにした漫画『はだしのゲン』の作者中沢啓治さんは、 原子爆弾について次のコメントを残している。  「私の父と姉、弟は倒れた家の下敷きになり、母が必死で助け出そうとしたが、柱はビクともしなかった。火災が起きて、弟は『お母ちゃん、熱い、熱い』と叫びながら死んでいった。その悲惨さは、とても『地獄』などという言葉で表せるようなものではなかった。以後、私は『原爆』という言葉から目と耳をふさいで逃げ回った。あの凄惨な光景が目に浮かんでくるからだ」(朝日新聞 1995年8月5日掲載) 致死的な経験をした後、その当時の情景に関連する言葉や概念の知覚によって強制的にその記憶が想起されることで、 神経伝達物質のノルアドレナリンが大量に分泌されて氾濫する「フラッシュバック」という現象であるものと推認される。 現在の精神医学診断基準書には、「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)という項目がある。 この病気は、自分の生命を失いかける経験をするか、 他人が死亡する様子を間近で見た時に発症する精神障害として知られる。 「非核」と「反軍」は、日本の風土病だと言える理由だ。 戦後を終わらせ、合理な判断をしなければ次の敗戦が待っている。 非核反戦は政治学の問題ではない。 精神医学の問題なのだ! 歴史の反省とは真実を知ることです。 私が書いた『新大東亜戦争肯定論』は真実を提供します。 amzn.to/3TuNoSJ (現在増刷中、予約受付中)
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