世間で見るプロの売文モノ
カキや職業文士や、アマだ
ろうと物を書いて何かを表
現する表現活動をする者た
ちの中で、その文章を読ん
で「こいつ読者に媚びてる
なぁ」という文章群を時々
見かける。
それは私からするとくそダ
サい。
また、文章は隠してもその
人間のある種の意思と質性
をも代弁するので、行間や
文の裏、向こうが透けて見
える事が実に多い。
なのでいくら作為的に、或
いは小手先の文章作成技術
で文章を連ねようとも、一
つも心に刺さらない文章も
あれば、返って心根のやま
しさや邪(よこしま)がもろ
に露見している文章も見ら
れる。
それらはミイラ取りがミイ
ラになるようなもので、い
くら見せかけの美文で取り
繕おうとする痕跡が見えて
も、筆者の狡猾さは隠せな
い。
とにかく、良くも悪くも、
ぼやかしつづけるぬるい文
章などは、とりわけ論評や
ジャーナルなどでは論外で
あるし、抒情的な文章を連
ねる場面では、抒情に徹す
るべきで、小手先の技法な
どではそれらの文章表現と
いうものが持つ本質的な肉
迫力というものを絶対に凌
駕する事は不能であるのだ。
そして、文章作成というも
のは、論説文にしろ、抒情
的な散文にしろ、決して訓
練によって完結されるもの
ではない。文章の向かう行
方は書き手の人間の中味次
第なのだ。
それゆえ、それに突出した
才を持つ人々は文章を作る
自己表現によって人々の心
に残る文章を残す。
商業活動に利用されて多く
が出版物となったりもしな
がらも。
あるいは、野に埋もれたま
までも。
「売れた」のが「良い文章」
なのではないという文章の
本質を見誤ると、あたら稚
拙で狡猾な作文に人は騙さ
れてしまう。
ゆえに文字の連なりを通し
て物事の本質を見抜く人間
力を養う文学が小学生の頃
から高校まで必須の教育カ
テゴリーにも導入されてい
るのだ。
本来、文学はそれに没頭し
て他の事を投げ出す時間的
消費を伴う、人を蝕む悪魔
の文章群を創作作品にまと
めたものだが、その文学に
おける文章を通して描く世
界によって、読んだ読者の
生きる希望にもなり得る力
を持つ。
それが文学であり、文学の
基幹となる文章構成という
シロモノだ。
ただ、読み捨ての売文であ
ろうとなかろうと、ペンを
取る者には一つの軸線がな
くば、その書いた文章は人
の心には届かない。一切。
これは文学における小説や
詩歌についても全く同じだ。