源頼朝は、なぜ恋文を送った配下の武将を親子ともども梟首したのか?
鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、非常に疑い深かったという。上総広常のような大豪族はもちろんのこと、弟の義経にすら疑念を抱き、死に追いやった。中には、恋文を送っただけなのに、見せしめとして梟首された武将がいたので取り上げることにしよう。
『吾妻鏡』建久4年(1193)11月28日条には、安田義資(義定の子)が梟首された旨が書かれている。義資の父の義定は、甲斐に本拠を構える有力な武将だった。源義仲の追討、平氏の追討では、大いに貢献したことでも知られている。
子の義資は頼朝から越後の国司に任じられ、越後守の官途を名乗っていた。文治5年(1189)の奥州合戦にも出陣し、大いに軍功を挙げた。なぜ、義資は頼朝に殺害され、梟首されたのだろうか?
建久4年(1193)11月、頼朝は京都から僧侶を呼び寄せ、永福寺で供養を行っていた。それは、奥州合戦で戦死した将兵のほか、亡くなった義経や藤原泰衡を供養するためのものだった。頼朝にとって、とても大切な供養を行っていたのである。
にもかかわらず、義資は幕府の女房に艶書(恋文)を送り、その事実が頼朝の耳に入ったのである。「こんな大切な日に何たることか」とばかりに、頼朝は怒り狂った。それゆえ、義資は殺害され、梟首されるという厳罰に処されたのである。
義資の恋文の一件が露見したのは、龍樹の前(梶原景季の愛人)が景季に報告し、さらに景季が父の景時に伝えたからだという。景時は多くの武将を讒言したことで知られているが、この一件にも絡んでいたようだ。
処分は、これだけに止まらなかった。父の義定も連座して、所領の遠江国浅羽荘地頭職を取り上げられ、翌年8月に梟首されたのである。『吾妻鏡』によると、義定は謀反を企んでいたので、それを察知した頼朝が処分を決断したという。
『鎌倉大草紙』によると、頼朝は梶原景時と加藤景廉を追討使として派遣し、追い詰められた義定は法光寺(放光寺/山梨県甲州市)で自害して果てたという。頼朝は強大な甲斐源氏を恐れていたので、義資の恋文問題にかこつけて義定も死に追いやったと推測される。