私は、特段の権力を持たないただの私人です。
自由主義者です。
個人主義者です。
立憲主義者です。
コンテンツ表現においてはアナーキストを目指しています。
エロ漫画家を目指しています。
その為に多くの批難や差別を、家族や友人、社会から受けてきました。
それは賤職で、売女と同類だと罵られ、警察が逮捕しないだけで犯罪者だと言われて筆を折る事を強要された事もあります。
私はSNS上では、セックスポジティブフェミニストを名乗っていましたが、性嫌悪者でもあります。
GIDでもあります。
カミングアウトするだけで非難に晒されて差別される立場です。
その為に多くの批難や差別を、家族や友人、社会から受けてきました。
社会に出る事を許されず、存在を隠されて、居ない者として扱われた事も多々あります。
普通一般の人を装い、就職もしましたが、自分が生きられる場所がどこにもないと思った事は何百、何千回とありました。
3度死にぞこないました。
体を壊し、横紋筋融解症で筋肉と内臓は溶け、調子が悪ければ車椅子になり、杖がなければ歩けません。
体の形も歪です。
そんな体では街中でぞんざいに扱われる機会も少なくはありません。
顔面が痺れて、舌もまともに動かせず、発話が出来ない為、意思疎通は筆談でしか出来ません。
線維筋痛症を併発し、常に関節痛に苛まれる為に活動的に動く事もできません。
数少ない親友も、喋れない事、お酒が飲めない事、歩けない事が積み重なり疎遠となって、親友は1人も居なくなりました。
つまり、私は、社会にとって居ても居なくてもいい存在です。
居なくなっても誰も損をしません。
むしろ社会に居ても、扱いが面倒で役に立たない存在です。
泣き言なんて誰も聞いてくれないので、不自由であろうが自力でなんとか立つしかありません。
私は、せいぜいノートPCを使ったデスクワークしか出来ない為、デジタル環境で漫画家を再び目指しました。
しかし、最終目標地点が長編エロ漫画家である為に、現在自身が描きたい物語を十全に描ける媒体が存在しません。
レギュレーションで縛られて長編が描ける一般誌と、毎話必ず性行為を描く事に特化した成人向け漫画に二極化した現在は、中間媒体がほとんど無いのです。
コンビニにおける成人向け雑誌は、00年代ストーリー漫画もエロ漫画も混在していた実験的な作品の多い媒体でした。
しかし今その類似図書の分類は存在しません。
エロ漫画家を目指していた筈ですが、関節痛に苛まれてペンが持てない事と、表現したい内容が描ける媒体を求める事が重なって、気付けば政治運動に身を投じていました。
私の目標は、全ての都道府県の8条図書、13条図書、有害図書の、図書指定制度の撤廃と、刑法175条の撤廃です。
私は、架空のコンテンツ上ではエロも、グロも、バイオレンスも、ナンセンスも、差別表現も、犯罪的表現も、反社会的表現も、暴力的表現も、退廃表現も、荒唐無稽な表現も、貴も賤も、聖も邪も、正も誤も、優も劣も、善も悪も、なんでもやって良いと考えています。
性表現に限ってもヘテロでも、マルチでも、GLでも、BLでも何一つ欠けて欲しくはない。
誰の人権も害する事が無いなら、無遠慮に暴力的に、自身の魂を全力で振り回して、オーディエンスに叩きつけられる媒体を強く強く求めています。
それが無ければ、私の生きている意味がないと思う程に強く自分勝手に欲しています。
この考えは社会にとっては悪そのものです。
子供に悪影響があったらどうするのか。
公共の秩序や、風紀を乱す事など許されない。
お上に逆らうなどあってはならない。
この様な悪人、私の様な人間は、社会から排斥されるべき人間です。
私はもうこれ以上体を壊して不自由な生活をしたくない。
生きたいと望んだ以上、表現したいと思った以上、自分がやるべき選択肢はとても少ないです。
法も常識も、プラットフォームの規約も何もかもを無視して、やりたい表現を描き切って、本当に犯罪者として実刑で裁かれるか。
全ての表現を認めて、自分の自由も認めて貰うか。
そのくらいしかない。
だから理論武装もしてきました。
刑事責任能力があるなら、未成年の知る権利を制限すべきでない。
性表現で、性犯罪は増えない。相関関係にない。
むしろ性表現への接触が早ければ、未成年による犯罪は減る逆相関すら見られる。
性教育とリテラシー教育を行えばさらに犯罪は顕著に減る。
だからゾーニングなんて一切要らない。
子供にも自我や欲求があり、大人の都合で知る権利を、個人差も考慮せずに一律に制限してはいけない。
制限するならば、子供にも意見を表明する権利を与えなければならない。
表現を公権力が制限するなら、その法益を科学的に示さなければならない。
不快だけで表現の自由は制限できない。
違憲審査基準に則って、明白かつ現在の危険を示さなければならない。
犯罪や差別をする理由や責任をフィクションに押し付けて、犯罪者を免罪してはならない。
昔コンビニで学生時代に成人向け雑誌を読めたのに、ポルノ雑誌の発行数が増え続けた時期、特に治安の悪化も見られず、犯罪も増えていない。
それなのに訳の分からない理由でどんどん表現は締め上げられてきた。
一世代前の人間が、自由を謳歌してきたのに、次の私の世代はその自由を謳歌する事を制限される、なんてズルいじゃないですか。
長野県には指定制度が無いのに、治安が悪いなんて話は聞かないじゃないですか。
私はそういう感覚でいます。
さて、こんな主張をしている人間を、日本社会は善人などと認識するでしょうか。
私は、完全に世間一般から外れてしまった人間です。
誰にも共感されません。
誰も同じ立場で味方になりません。
誰にも理解されません。
社会が全体主義に傾いた時、真っ先に私は悪人として排斥されるでしょう。
排斥する人間は善良で、社会を守ろうとしている人達です。
既に崖っぷちにいて、既に3度転落していて、あと半歩で崖から転落する様な位置にいて、あなたが一歩下がれば済む話だと言われて、私は素直に一歩下がれば良いのでしょうか。
私が目指すエロ漫画の、エロ表現は既に社会の隅に追いやられて差別されています。
それを崖から遠ざける事を望んではいけないのでしょうか。
もし差別して良い属性、隅に追いやられて当然の表現を増やそうという社会的合意が高まっていけば、私の生きられる場所は直ちになくなると思います。
多くの表現したい人が、ジャンルに縛られずに、多くのジャンルを跨いで表現している中、1つのジャンルを差別に追いやればそれだけで表現の幅が連座的に狭まるでしょう。
最近は、性的、残虐的、差別的表現、反社会的表現は表に出してはいけない、後ろめたい表現だと考えている人達が、こんなに多いのかと認識する騒動を、ネットでは多く見かける様になりました。
世の中の一般の多くの人々だけでなく、たとえ表現の自由を主張していた人達であっても、国家や自治体、警察の様な行政の公権力が強いる私権制限を、無意識に内面化している様です。
不幸自慢をしたい訳ではないですが、GIDやエロ漫画描き、身体に障害がある様な属性は、徒党を組んで、誰かに何かを要求できるほど多くないです。
権力も当然強くはありません。
何が言いたいかと言えば、私は社会が不寛容になったなら、比較的早めに社会から排斥されて死ぬ人間だという話です。
大抵の人は反撃する力を持たず、反論の機会も与えられません。
私が生きて何かを欲求する事自体、単に惰性で支えられているだけで、社会にとって何の益も妥当性もありません。
日本国民の多くは表現の自由に興味がありません。
アンケートによると重要な基本的人権は何かと聞かれても、表現の自由は下から数えた方が速いくらいで、納税の義務の誤答よりも下、という結果すらあります。
大多数の人は、表現したい事も、見たい表現も、守りたい表現も、違法の範囲から引きずり出したい表現も、持っていないのです。
生活に関わらない表現を公が制限した所で、大多数の人が気にしません。
そしてそういう人達に、表現の私権は制限されてしまいます。
その表現が生きていく為には必要だと言っても、そんな少数の声はほとんど掻き消えてしまいます。
岐阜県青少年保護育成条例事件の判例で、有害図書、ゾーニングは合憲とされていますが、それは刑法175条の悪徳の栄え事件を根拠にしています。
チャタレー事件の判例と内容は同じです。
つまり有害図書と、猥褻表現の間には境目がありません。
しかも悪徳の栄え事件は芸術的、思想的に価値があっても、猥褻であれば罪を免れないと決めてしまった裁判です。
こんな警察や行政の権力行使が、恣意的に運用可能な状態を、継続し続けて正当化して良いのでしょうか。私は民主主義においては全く良いと思う事、健全と思う事が出来ません。
しかし、多くの人はその科学的証明も、明白かつ現在の危機も示されないまま、私権制限されている事を自然な事として、悪影響がある事を自明として、受け入れてしまっているのです。
この不条理を、表現の自由を掲げて守ろうとする人が追認し、積極的に使ってしまう事に私は耐えられません。
書籍の場合、民間の自主規制の建前をかなぐり捨てて、私権に働きかけてゾーニングを進めた時、出版社や作家だけでなく、取次や流通、印刷所まで大きな影響を出す事は、コンビニの成人向け雑誌が撤去された時に分かっています。
コンテンツの消費者じゃない人達が、コンテンツそのものや、創り手をキャンセル運動という形で、私人間効力と差別によって社会の隅に追いやる事の不条理は、表現に携わる人であれば死活問題である事は分かると思います。
しかし、消費者じゃない人達はどうやら、自身の不快だけを理由に、表現の幅を狭めても、多くの出版流通販売に関わる人達に失業者を出しても、それで自分が表現を発信し、意見を表明できなくなっても何とも思わない様です。
海外ゲーム配信プラットフォームに民間団体が求めた規制の本数に対し、プラットフォームにその何十倍も委縮効果をもたらした事例も横で見ている人も居る筈なのに。
むしろそれを正義とすら思っている様です。
地道に地方議会や、健全育成審議会に働きかけ、漫画家の意見書を数百も搔き集め、多くの人が足を運んで満席の傍聴によって公に圧をかけ、恣意的で不条理な制度を啓蒙して、ゆっくりと、ゆっくりと規制緩和の実利を進める行動をしている人達が居る事を、私は知っています。
しかし、日本国憲法第14条を口実に、第13条を無視して全体主義を推し進め、第31条の適正手続きを取らない人達が居る。
法の下を根拠にしながら、権限のない者が勝手に裁定し、法治も無視して無法を推奨している。
奪われた権利を取り戻して防衛するのは非常に困難で理解も得られ辛く、時間と労力を賭して注力し続けても、誰もが使える筈の権利を破壊されるのは一瞬。
既に私はSNSの言論を封じられているので、そんな機運に抵抗できよう筈もありません。
私は一体何の為に、表現規制反対運動をしていたのでしょう。
日本国憲法は各条文が独立している訳ではない。
憲法第21条は、第19条とセットである。
どちらかが欠けると両方が成り立たない。
そしてそれは第13条、第20条、第22条と第23条、第25条、第29条とも紐づいている。
それらも蔑ろにされるのであろうか。
私にはもう、自身が犯罪者になって惨めに差別され続けて、何も果たせずに朽ち果てる未来しか見えなくなっています。
私が最も恐れるそれは、戦前のファシズムです。
どうやら私は、小林多喜二や、伊藤野枝の様な死に方を覚悟しなければならない時が来た様に思っています。
何も声を上げる事も出来ず、犯罪者の定義に当てはまる人間になって、ただただ焼き払われて打ち捨てられるだろうと絶望しています。
もう表現の自由の危機を発して、それが届かなくなった。
それはもう私にとっては社会的に孤立が確定し、死を覚悟するしか無くなったという事です。